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 筑前煮と味噌汁と白飯。彼女の作る食事は古風で奇をてらわない、まさに王道の和食といったところだ。

 包丁の扱いも、会ったばかりのあの態度がなんだったのかというほど慣れたものだった。

 体が覚えたことというのは、記憶よりも忘れにくく、思い出すのも容易いということなんだろうか。

 よく考えたら、記憶喪失で歩き方を忘れたとか、指の動かし方がわからないなんて話は確かにあまり聞いたことがない。

 箸の持ち方は正直俺よりもきれいだと思う。その手つきに思わずドキッとしてしまうのは、フォークをグーで握っていたことを知っているからだ、と思いたい。

 彼女の体はすでに、ほとんどのことを思い出したのだろう。その女らしい仕草を見ると、実は彼女は良家の子女なのかも、とさえ思ってしまう。夜道を裸足とワンピース一枚で歩く良家の子女……あまり想像はつかないが。


 家庭的な夕飯を終えてしばらくすると、ひとつの問題が持ち上がった。

 ここは一人暮らしの部屋だ。寝床は狭いシングルベッドしか存在しない。

 女の子を床で寝かせて俺がベッドで寝る? 部屋の所有者だからと言ってそれはありえない選択だろう。

 かといって二人で寝るのは……まずい。きっとまずい。

 俺は冬用の毛布を押入れから引っ張り出すと、部屋の隅に置いた。


「ええっと、ユイはあのベッドで寝ていいから」


 皿洗いを終えてキッチンで手持ち無沙汰にしているユイに言う。だが彼女は俺の顔を見返して、少し心配そうにしている。その様子から察するに、遠慮しているのだろう。

 そこで「じゃあ遠慮なく」というほど俺も自己中じゃない。


「いいから」


 俺は彼女をベッドに連れて行こうと、その手首を掴んだ。が、そこで手を止めた。

 歩き出す前に、思わずその掴んだ手首をじっと見つめる。確かにその手首は俺の手の中にある。だけど、やはりそれは幻のようなのだ。

 その肌は温かくも冷たくも感じられず、感触はあるようだけれど、掴んだ手ごたえを感じられない。

 ……まさか、まだ夢の続きを見ているのだろうか?

 不思議そうにこちらを見つめ返すユイ。

 俺はふと正気に戻って、彼女を連れてベッドまで歩いた。

 不安に似た気分を頭から追い払う。

 そこに彼女は確かにいる、幻のわけがないのだ。いくら嘘みたいでも、振り返れば彼女がそこにいる。それが確かな証拠じゃないか。


 遠慮がちにベッドに入ったユイは、俺に向かって微笑みかけた。


「……ありがとう、おやすみなさい」


 不意に顔が熱くなった気がして、手のひらで頬を拭ってしまう俺。

 男と女が一つ屋根に二人っきりで、何もないほうがどうかしている。

 半端に開きかけた自分の口が一体何を言おうとしていたのか、つかえた胸から、すぐには声など出てこなかった。


「……おやすみ」


 冷静になったつもりで言った言葉だが、自分でもそれはいやにぶっきらぼうな口調だったと思う。

 これだけのことがあっても、目をそらした途端に記憶から消えようとする彼女。不安になって振り返ると、そこには確かに彼女がいる。

 無意識のうちに、ユイが消えるのを怖いと思っていることに気づく。こんなに短期間のうちに、自分はどうしてしまったというのだろう。

 フラッシュを焚いた後の残像のように頭に焼き付いている、その黒髪と瞳。それだけが彼女を現実とつなぎとめておけるもののような気がして、俺は床の片隅で、その曖昧な輪郭を思い出しながら目を閉じた。

 自分でもよくわからなかったが、それはきっと、次の朝起きた時に、彼女が消えていないことを願っていたのかもしれない。

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