ユイ
なんとなく目が覚めた。
窓から漏れる薄明りが、夜ではないことを示している。
カーテンをかけるのも忘れて眠っていたことに今更気づいた。
それにしても、五月にしては仄暗い。
横たわったまま薄目を開けて窓の外に目を向けると、灰色の空が見える。
この曇り空では今が一体いつなのかもよくわからない。
昼過ぎか、もしかして日付が変わるまで眠ってしまったのか……
そこまで考えて、慌てて体を起こす。
「仕事……!」
と呟いて、ふと思いなおす。そういえば、もうゴールデンウィークに入ったのだ。
ふう、とため息をつくと俺はもう一度ベッドに倒れこんだ。
もう少しで連休に入る、というのを励みに仕事をやってきたのに、そのことすら忘れてしまっていたらしい。
休みに入ったと思うと、急に体が重くなる。
今までずっと働きづめだったのだ。気が高ぶっているときには感じなかった体の疲れが、どっと襲ってきたんだろう。
自分の体が自分のものでないような、深海の底に沈んでいくような感覚。
ぼうっとした頭で、その重みを感じながらふと思う。
仕事仕事ってそればっかりで、毎日俺はなにをやっているんだろう、と。
休み前、とくに連休前といえば印刷会社にとっての稼ぎ時だ。この連休前は、俺達の会社は総動員で眠る間もないようなひどい状態だった。
不景気のあおりで仕事が減ると思いきや、会社は仕事を取るために薄利多売に舵を切った。そのためか、ただでさえ忙しいこの時期に、大口の仕事が数件舞い込んできたことでより状況は悪化した。
最終工程を任される下請けの立場では、仕事場は戦場だ。デザインや図面が上がらなければ仕事にかかれない、だけど納期は変えられない、遅れた分は俺たちが無理して帳尻を合わせるしかない。仮眠をとりながら現場作業と機械の操作をこなす日々。給料は上がらないのに、日が沈まないうちに帰れたためしがない。
実際休みに入ってしまえば、取引先でトラブルでもない限り出勤することは少ないので、それは救いかもしれないが。
ろくな食事もとれない日々が続くと、自分が何のために生きているのかよくわからなくなる時がある。
……ああ、もうこのままいつまでも寝ていたい。
そう思ったとき、ふと懐かしい香りが鼻孔をくすぐった。
これは……味噌汁の香りだ。
母さんかな。きっとそろそろ呼びに来る。
健治、もう朝よ、いいかげんに起きなさい……
まてよ?
そこでふと気づいた。
俺は「一人暮らし」だ。
母親が急に訪ねてきて朝飯を作るなんてことあるだろうか。
じゃあ、この香りはなんだ?
すっかり重たくなっている上半身をなんとか起こしてキッチンを見る。
キッチンに立つ後姿は、白いワンピースと長い黒髪。
とっさにうつむいて、もう一度ゆっくりと目を向けてみるが、変化はない。
すっかり忘れていた、眠る前の記憶が鮮やかによみがえった。
幻覚じゃなかった。彼女がそこにいる。
そう、ユイと名乗った彼女が。
俺が起きたのには気づいていない様子で、ユイはコンロの前に悠然と構えている。
その手元を見て驚いた。ユイがお玉と箸を持って、鍋を相手になにやら動いているのだ。
フォークを使う俺を珍しそうに見ていたはずの、皿ひとつだって満足に洗えないはずの、ユイが。
この部屋に漂っているのは、間違いなく味噌汁の香りだ。
ユイが汁をよそった小皿に口をつける。慣れたようなしぐさで。
理解できずに動けないでいると、味見の手を止め、ユイは不意にこちらを向いた。
俺は寝たフリをする間もなく、視線を合わせるしかなかった。
声をかけようにも、なんと言えばいいのかわからない。
戸惑っている俺に向かって、ユイはふわりと微笑みかけた。
「……ごはん、できたよ?」
思えばその時から、すっかり彼女のペースにはまっていたのだ。