視線
ユイと名乗った彼女は、それから無言でパスタを平らげた。俺のどんぶりがシンクにあるのを見て、ぎこちない動作でそれにならう。
にっこりと俺に笑いかけてくれたのは、お礼のつもりだろう。不覚にも頬が赤くなりそうになって、俺は不自然に顔を反らした。
さっきまではやたらと居心地が悪かったが、今度は妙に落ち着かない。
きっとそれは、彼女を女と意識してしまったせいだろう。
俺はコップにもう一杯水を注ぐと、それを一気飲みして、雑念を追い払った。
それから何も言わずに、スポンジで鍋と皿を洗い始める。まるで生活感を感じさせない彼女に、皿洗いができるとも思えなかったからだ。
そしてそれはどうやらその通りだったらしい。
ユイは皿を洗う俺の手つきをじっと見つめている。なにかとても珍しいものでも見るかのように。
一体皿洗いの何がそんなに珍しいのだろう。まさか彼女は、日常生活の全てを忘れてしまったとでもいうのだろうか。
酔った俺が彼女に喧嘩をふっかけて、記憶が飛ぶくらいぶっ飛ばしたとか。
……んなわけないよな。いや、ないと思いたい。なかったに決まっている。
ぱっと見外傷もなさそうだし、記憶喪失だとしても別に原因があるはずだ。
皿洗いを終えて手を拭いて、いよいよ俺はどうするべきかわからなくなった。
部屋を一通り見回した彼女は、俺が次に何をするのかと見つめている。
インプリンティング、だったっけ。
生まれたばかりのヒヨコが、初めて見たものを親だと思うってやつ。
ふとそんな言葉を思い出した。
まるで、彼女は俺を親かなにかと勘違いしているかのようだ。
「あのさ、なんか俺、そんなに珍しい?」
これじゃ落ち着いてくつろぐことなんてできるわけもない。
自分の家だというのに、まるで他人の家にいるみたいだ。
彼女は俺の隣に立ったまま、黒目がちの瞳でじっとこっちを見つめている。
「えーっと、立ってるのもなんだから、あっちで座ったら?」
ダイニングキッチンというには狭いそこから、隣のリビング兼寝室に移動する。
そしてラグマットの中央に置かれた小さな低い丸テーブルに彼女を誘導すると、俺も彼女の向かいに座ってみた。
そんなに直視されると、なんだか自分が悪いことをしているような気がしてしまう。だからと言って逃げることもできなかった。狭い1DKの部屋で彼女を避けられるわけもないのだ。
いくら可愛いとはいえ、こんな状況じゃ目をそらしたくなるのも仕方なかった。
一体これからどうしろというのだろう。
まさか本当に手篭めにしてしまうわけにもいかないし、どうにかして彼女を帰らせなければ、親だって待っているに違いない。今はいいとして、捜索願でも出されていたら俺は犯罪者にされかねない。
捜索願?
ふと思いついて、テレビのリモコンを手に取る。
ニュース番組に、彼女が出ているという可能性はある。行方不明者として、だ。
そうすれば、彼女が行く先はハッキリする。
本来はそのまま警察に連れて行けばいいのかもしれないが、この状況をどう説明していいかわからない。
記憶がないのを悪い風に解釈されてしまったら……俺は犯罪者の仲間入りってことになるんだろうか?
いろんな不安がよぎってしまい、電源ボタンを押そうとする指が重い。それでもなんとかテレビの電源をつけたのは、こう思ったからだ。
テレビに彼女が出ているなら、彼女の住む場所もわかる。見つからないよう、警察に行かずにそのまま町に送り届けるって手もある、と。
リモコンを向けたまま、しばし画面を見つめる。
……が、うんともすんとも言わない。
もう一度スイッチを押すが、やはり反応はない。
何度押しても無駄と悟って、主電源を入れに立ち上がった。それでも画面は真っ暗なままだ。
コンセントはついている。
……壊れているのだ。
まさかこのタイミングで。
はあー、とため息が出る。
だけどそれは失意だけでなく、安堵が混じっていたことは否めない。自分が被疑者である現実と向き合うわなくて済んだという意味で。
実際決まったことではないが、逮捕される可能性もなくはないのだから。俺が覚えていないだけで、昨日の晩になにか仕出かしたのかもしれないし。
彼女は俺を見つめている。
何をしているのか注視しているが、警戒しているわけではなさそうだ。
ただ興味があるのか、もの珍しいのか、とにかく気になるらしい。なんせ俺はヒヨコの親だからな。
再び静かになった部屋を、俺はそわそわと歩き回った。
何をするにも、こう注目されていてはやりづらい。正直、彼女が出て行かないなら、俺が出ていきたいところだ。俺の部屋に彼女を一人きりにすると考えると、現実的ではないが。
陽の光でも浴びれば、このモヤモヤした頭もスッキリするだろうか。
そう思ってなんとなく玄関に目をやった俺は、ある重大なことに気がついた。
彼女の靴がそこに存在しないのだ。
俺が彼女の靴をどこかで脱がしてくる理由なんてどこにもない。それともまさか外を裸足でうろついていたとでもいうのか?
それに気づいた瞬間、ここにある何もかもがまるで嘘のように思えてきた。
全身真っ白なコーディネート。消えてしまいそうなほど儚い存在感。不良少女というわけでもなさそうなのに、夜の街をうろついていた? 夜に出歩くには無防備すぎるその格好で。
この女を目にしているのは、今ここにいる俺だけだ。
もしかしたら俺は、幻覚でも見ているのかもしれない。
さっきのユイという名前だって、ハッキリと声を聞いただろうか?
答えたと、俺が思い込んでいるだけのことじゃないのか?
まだ二日酔いで体は重い。頭だって同様で、時々鈍く痛みもある。仕事のしすぎと飲みすぎで、頭がどうかしてしまったに違いない。
もしかするとこれは、夢の続きなのかもしれない。夢を現実と錯覚するほど、疲れ切っていたのか。
俺は意を決して立ち上がると、隣のベッドに寝転がった。
彼女が俺を見ている気がしたが、それは無視することにした。
そうだ、それは気のせいで、全て幻覚なのだ。
次に起きた時は、いつもどおりの朝が訪れる。
俺はそう思っていた。
あるいは、そう思い込もうとしていたのかもしれないけれど……。




