↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/18

視線

 ユイと名乗った彼女は、それから無言でパスタを平らげた。俺のどんぶりがシンクにあるのを見て、ぎこちない動作でそれにならう。

 にっこりと俺に笑いかけてくれたのは、お礼のつもりだろう。不覚にも頬が赤くなりそうになって、俺は不自然に顔を反らした。

 さっきまではやたらと居心地が悪かったが、今度は妙に落ち着かない。

 きっとそれは、彼女を女と意識してしまったせいだろう。

 俺はコップにもう一杯水を注ぐと、それを一気飲みして、雑念を追い払った。

 それから何も言わずに、スポンジで鍋と皿を洗い始める。まるで生活感を感じさせない彼女に、皿洗いができるとも思えなかったからだ。

 そしてそれはどうやらその通りだったらしい。

 ユイは皿を洗う俺の手つきをじっと見つめている。なにかとても珍しいものでも見るかのように。

 一体皿洗いの何がそんなに珍しいのだろう。まさか彼女は、日常生活の全てを忘れてしまったとでもいうのだろうか。

 酔った俺が彼女に喧嘩をふっかけて、記憶が飛ぶくらいぶっ飛ばしたとか。

 ……んなわけないよな。いや、ないと思いたい。なかったに決まっている。

 ぱっと見外傷もなさそうだし、記憶喪失だとしても別に原因があるはずだ。


 皿洗いを終えて手を拭いて、いよいよ俺はどうするべきかわからなくなった。

 部屋を一通り見回した彼女は、俺が次に何をするのかと見つめている。

 インプリンティング、だったっけ。

 生まれたばかりのヒヨコが、初めて見たものを親だと思うってやつ。

 ふとそんな言葉を思い出した。

 まるで、彼女は俺を親かなにかと勘違いしているかのようだ。


「あのさ、なんか俺、そんなに珍しい?」


 これじゃ落ち着いてくつろぐことなんてできるわけもない。

 自分の家だというのに、まるで他人の家にいるみたいだ。

 彼女は俺の隣に立ったまま、黒目がちの瞳でじっとこっちを見つめている。


「えーっと、立ってるのもなんだから、あっちで座ったら?」


 ダイニングキッチンというには狭いそこから、隣のリビング兼寝室に移動する。

 そしてラグマットの中央に置かれた小さな低い丸テーブルに彼女を誘導すると、俺も彼女の向かいに座ってみた。

 そんなに直視されると、なんだか自分が悪いことをしているような気がしてしまう。だからと言って逃げることもできなかった。狭い1DKの部屋で彼女を避けられるわけもないのだ。

 いくら可愛いとはいえ、こんな状況じゃ目をそらしたくなるのも仕方なかった。

 一体これからどうしろというのだろう。

 まさか本当に手篭めにしてしまうわけにもいかないし、どうにかして彼女を帰らせなければ、親だって待っているに違いない。今はいいとして、捜索願でも出されていたら俺は犯罪者にされかねない。


 捜索願?


 ふと思いついて、テレビのリモコンを手に取る。

 ニュース番組に、彼女が出ているという可能性はある。行方不明者として、だ。

 そうすれば、彼女が行く先はハッキリする。

 本来はそのまま警察に連れて行けばいいのかもしれないが、この状況をどう説明していいかわからない。

 記憶がないのを悪い風に解釈されてしまったら……俺は犯罪者の仲間入りってことになるんだろうか?

 いろんな不安がよぎってしまい、電源ボタンを押そうとする指が重い。それでもなんとかテレビの電源をつけたのは、こう思ったからだ。

 テレビに彼女が出ているなら、彼女の住む場所もわかる。見つからないよう、警察に行かずにそのまま町に送り届けるって手もある、と。

 リモコンを向けたまま、しばし画面を見つめる。

 ……が、うんともすんとも言わない。

 もう一度スイッチを押すが、やはり反応はない。

 何度押しても無駄と悟って、主電源を入れに立ち上がった。それでも画面は真っ暗なままだ。

 コンセントはついている。

 ……壊れているのだ。

 まさかこのタイミングで。

 

 はあー、とため息が出る。

 だけどそれは失意だけでなく、安堵が混じっていたことは否めない。自分が被疑者である現実と向き合うわなくて済んだという意味で。

 実際決まったことではないが、逮捕される可能性もなくはないのだから。俺が覚えていないだけで、昨日の晩になにか仕出かしたのかもしれないし。

 彼女は俺を見つめている。

 何をしているのか注視しているが、警戒しているわけではなさそうだ。

 ただ興味があるのか、もの珍しいのか、とにかく気になるらしい。なんせ俺はヒヨコの親だからな。

 再び静かになった部屋を、俺はそわそわと歩き回った。

 何をするにも、こう注目されていてはやりづらい。正直、彼女が出て行かないなら、俺が出ていきたいところだ。俺の部屋に彼女を一人きりにすると考えると、現実的ではないが。

 陽の光でも浴びれば、このモヤモヤした頭もスッキリするだろうか。

 そう思ってなんとなく玄関に目をやった俺は、ある重大なことに気がついた。


 彼女の靴がそこに存在しないのだ。


 俺が彼女の靴をどこかで脱がしてくる理由なんてどこにもない。それともまさか外を裸足でうろついていたとでもいうのか?

 それに気づいた瞬間、ここにある何もかもがまるで嘘のように思えてきた。

 全身真っ白なコーディネート。消えてしまいそうなほど儚い存在感。不良少女というわけでもなさそうなのに、夜の街をうろついていた? 夜に出歩くには無防備すぎるその格好で。

 この女を目にしているのは、今ここにいる俺だけだ。

 もしかしたら俺は、幻覚でも見ているのかもしれない。

 さっきのユイという名前だって、ハッキリと声を聞いただろうか?

 答えたと、俺が思い込んでいるだけのことじゃないのか?

 まだ二日酔いで体は重い。頭だって同様で、時々鈍く痛みもある。仕事のしすぎと飲みすぎで、頭がどうかしてしまったに違いない。

 もしかするとこれは、夢の続きなのかもしれない。夢を現実と錯覚するほど、疲れ切っていたのか。

 俺は意を決して立ち上がると、隣のベッドに寝転がった。

 彼女が俺を見ている気がしたが、それは無視することにした。

 そうだ、それは気のせいで、全て幻覚なのだ。

 次に起きた時は、いつもどおりの朝が訪れる。

 俺はそう思っていた。

 あるいは、そう思い込もうとしていたのかもしれないけれど……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。