霧の中で
そこは、深い霧がかかったような場所。
どこを見渡してもおぼろげな影が浮かぶだけの真っ白い世界。
どうしてこんなところに迷い込んだのだろう?
どこから来たのか覚えていないのに、帰り道がわかるはずもない。
だけど、この景色には見覚えがあった。
そうだ、あの日見た夢の場所だ。
あの日、目が覚めたら隣にユイがいた……。
そうしてふと右隣を見ると、そこにはユイが立っていた。深い霧の向こうを見据えて。
まっすぐに前を見ていたその瞳が、ゆっくり俺のほうへと向けられる。視線が合うと、ユイはにこりと目を細めて微笑んだ。
さて、俺たちはどうやってここに来たのだろう? そんな疑問が脳裏をかすめたが、すぐに消えた。
ここが、彼女の帰るべき場所なのだ。
周囲を見ると、どこへ行くのか、どこに向かおうとしているのか、何人もの人影が霧の中から現れては消えていく。この霧と同じように味気ない色の服を着て。
彼女の姿も同じだ。この世界に溶け込んでしまいそうな白いワンピース。目の前を行きかう人達と同じ。俺は、彼女にようやく受け入れられたのだ。
嬉しくて、ユイに向かって微笑み返す。しばらくの見つめ合いのあと、ユイは霧の向こう側に真剣なまなざしを向けた。そして呟く。
「この先に、私は向かわなくてはならないの」
俺に語りかけるというよりは、自分に言い聞かせるような口調で。
「一緒に行こう」
そう言って手を握ると、ユイは遠慮がちに目を伏せ、それから上目使いに微笑んだ。握った手は、冷たくも温かくもなかったけれど、今までのように曖昧な感触ではなくて、確かに握っているその実感があった。
触れられること。触れて感じられること。それは、俺が彼女と同じステージに立つことができたという証だ。
少し強く握ると、彼女も俺の手を握り返す。それだけで、俺は心が弾んで、胸の奥をくすぐられたような気持ちになる。
ここがどこなのかなんてどうでもよかった。たとえこんな味気ない世界でも、彼女と一緒にいられるのなら。
ユイと生きられるということ。それだけで十分だった。
だだっ広い霧の中を、ユイは迷いなく歩いていく。
色々な人々とすれ違い、色々な影を通り過ぎて。すれ違う人々は老若男女様々で、色々な姿をしていたけれど、誰もがユイと同じように色のない服を着て歩いていた。ふと自分の腕を見返してみると、俺のスーツもぼんやりと冴えない白に染まっている。
その手にひかれるがまま歩いていくと、幅広い断崖に突き当たった。
どこまで続くのかは霧のせいでわからないが、その断崖は両側に果て無く続いているように思えた。
手すりのない一本の細い橋が、その断崖から伸びている。さっきすれ違ったような白い服の人影が、時折橋を渡って向こう側に消えていく。ある時は一人で、ある時は複数で。
その先になにがあるというのだろう? 深い霧の中、向こう岸までは見えない。少し近寄って覗き込んでみたが、吸い込まれそうな闇がどこまでも続いていて、底の深さは計り知れない。
橋のたもとまでたどり着くと、ユイは立ち止まり、そっと俺を振り返った。
この先に、彼女の帰る場所があるに違いない。不安そうにしているのは、この細い橋がただ怖いからだろうか。それとも、他に理由があるのだろうか?
人が三人並んで通るには窮屈で、二人通るにしてもなんの支えもないこの橋。ひとたび足を踏み外せば奈落の底だ。
橋の傍に立ち止まる俺達を後目に、家族らしき四人が意を決したようにその橋を渡りはじめた。手をつないで落ちないように、もしくは、落ちても一緒だと示すためか。
霧にかすんでいくその後姿を息をのむようにして見つめながら、いまだ動き出せないでいるユイ。
「大丈夫、俺がついてるから」
そう言うと俺は彼女の肩を抱いて、にっこりと笑って見せた。やわらかい確かな感触が伝わってくる。
彼女の不安も少しは和らいだのか、わずかに笑顔が戻ってくる。恐怖なんて全く無いと言えば嘘になるが、この先に彼女との幸せな生活が待っていると思えば、その程度の試練ならむしろ気持ちが燃え上がるというものだ。
「行こう」
そう俺が促すと、ユイも頷く。俺とユイは二人でその橋に踏み出した。
落ちないように、彼女の肩をぎゅっと抱きながら歩く。大人三人分ほどの幅の橋は、狭いと言えば狭いのかもしれない。まじまじと下を見れば恐怖がこみあげてくるだろうから、俺はその先のことばかりを考えた。この橋を渡ってから、彼女と送るであろう毎日のことを。
ユイと二人の生活を考えると、抑えようと思っても自然に笑みがこぼれてしまう。彼女が不安そうに橋を渡っているこんな時に、不謹慎かもしれないが。
あまりに嬉しくて、思わず彼女に向かって語りかけた。
「これからも、ずっと二人で生きていこうな」
不意に、彼女の足がぴたりと止まる。
不思議に思った俺は、肩を抱く手を緩め、彼女の顔を覗き込む。
少しだけ顔を上げた彼女の表情の意味が、俺にはわからなかった。
何か言いたげで、ひどく悲しそうな目。
それから、衝撃。
問いかける前に、俺の体は宙に浮いていた。
一瞬、泣きそうな顔で両手を突き出したユイが見えたと思うと、突き飛ばされた俺は足場を失い、ただ落下していくのみだった。
怒りとか驚きとか悲しみじゃない。どうして彼女が俺を?そればかりが頭を巡る。
深い深い谷底を落ちながら、霧の中にユイの姿も橋も全てが隠れてしまう頃、俺はすでに意識を失っていた……。




