彼の困惑
明けて行く空を、しょぼしょぼする目で藤麻は見上げた。
昨日は疲れていたし、眠かった。だが、一睡も出来なかったのだ。
山の野宿を舐めているつもりはなかったが、人工の灯りがまるでない山の中は、夜の闇が予想以上に深かった。
藤麻は子供の頃、家族でキャンプに行った事が有る。夜は鳥も眠りについて、静かすぎる自然の中を風の音や遠い獣の声が聞こえた。そんな中、濁ったようなそれでいて鋭い、不思議な音が聞こえて来たのだ。
怯えながらもワクワクする藤麻に、父は笑ってネタバラしをした。あれは、車の音だと。
山の中でも道路が有り、車は走る。藤麻の地元である田舎町でも、夜だって普通に車やトラックが走っていた。町中ではあまり気にならないその音が、気持ちの持ち用で不思議な音に聞こえていたのだ。
それを聞いて藤麻は、ホッとしつつも少しがっかりしたのを覚えている。
昨夜は、それが、全く聞こえなかった。
風が木を揺らす音や、聞いた事のないような獣の鳴き声。聞こえるのはそれだけ。
長袖のTシャツに着替え、ジャージを頭から被った。
火は獣よけに付けたまま、疲れを取る為に目を閉じじっとした。
だが草が、カサリと何かを踏むような音が聞こえるたび、パシャンと何かが水を弾いた音がするたび、恐ろしくてすぐに目を開いた。
眠るなんて無理だ。
こんな、人工の灯りが何一つない場所の、闇の深さが酷く恐ろしい。
のんびり空を眺める精神的余裕もなかったが、月は出ていなかったように思う。
永遠にも思える夜の中に震えていた藤麻は、少しづつ明るさを取り戻して行く空に、心から安堵したのだ。
このままでは遠からず、衰弱して死ぬ。
そう確信した藤麻は、取りあえず体力回復のため朝から数時間眠った。
しっかり眠れたとは言い難いが、それでも多少は体と頭が軽くなる。
目が覚めるとすでに消えてしまったたき火に再び火を灯して、昨日つくった生け簀から魚を取り出した。
洗剤は持っていないので、洗ってはいるがまだ油でぬめつく感じがするカッターを取り出すと、昨日よりは手際よく魚をしめた。体力を付ける為に今日は二尾を火元に刺す。
日はもう高くなっている。
一旦火から離れ川辺へ行き、顔を洗って歯も磨いた。流石に歯磨き粉は使わなかったが、合宿用に歯磨きセットは持っていたのだ。
冷たい水で頭をスッキリさせ、ようやく人心地ついた。大きく伸びをしてから火の元を振り向いて、藤麻は動きを止めた。
火の側に、一匹の獣がいた。
野性の獣は火が苦手だと思って居たのだが、その獣は怖がる事なく火の傍らに座り、じっと藤麻を見ている。
藤麻も思わず獣を見返した。目が離せなかったのだ。
大きさは、中型犬より少し小さい位か。
足が太く、頭も大きい。バランス的に、まだ子供だろう。
その獣は、藤麻の知るどんな動物とも違う姿をしていた。
いや、似ている動物は知っている。ただ、その動物は日本の山の中には居ないし、ましてやこんなに様々なオプションは付いていないだろう。
その獣は、ライオンの子供に良く似た姿で、頭に角と背にはコウモリのような羽、そして下半身はヤギのような蹄を持っていた。
「え…」
冷静に考えれば、逃げるべき事態だ。
子供が居ると言うことは、親が側に居る可能性が高い。
親が居なくとも、どう考えても異常事態なのだ。
だが、藤麻は逃げなかった。いや、逃げるタイミングを逃して居た。
そもそも、熊に会ったときの対処法やサメに食い付かれたときの対処法などの雑学は持っていたが、ライオン(仮)に会ったときの対処法は知らない。
背中を嫌な汗が落ちる。
獣は藤麻を見たまま片足を上げると、たしっと音を立てて石を叩いた。それからチラリと視線を焼いている魚にやり、もう一度たしっと石を叩く。
「え…と…食べたい、とか、かな?」
藤麻の声に答えるように、獣はガウと鳴いた。




