最終 次の大相撲場所まで、あたしは素数に戻って眠っていく
あたしは踵を返す。
小学校のときの大っ嫌いな体操教師だった蒲田木が吹いてた笛の音が鳴っている。
外階段を登って204号室とだけ書かれたメゾン「ミソフォニア」のアジトに帰りたい。ドアを開けたら、記憶さえ遠いブラックホールに飛んでしまった邪音のラバーマンはその時分には消滅してしまってるはずだから、あたしはもちろん裸ん坊。ただのオバさんのリアルなオールヌード。陰毛体毛は薄い方だから夜陰に覆われてる夜明け前までなら、なんとかベージュの薄着の女で誤魔化せる。そんな処で蒲田木は笛を鳴らさない。
ラバーマンのときはそのための凶器以外は持ち合わせはしてないから、穴に隠れるような小さな鍵ひとつ余計は持っていかないから、鍵は掛けていかない。すぅーとドアを開けて小さな鍵のいらない内側の鍵を掛ける。しばらくはこのノブを回すことはないから、今度ノブを回すときはその前に小さな刷毛をもって隙間の埃を取ってからにしよう。回るかもしれないけど、眠りから覚めてから久しぶりに聞こえる音に4カ月籠った埃の濁音雑音は混ざっていない方がいいから。眠る前、目を覚ましたらそれを真っ先に憶い出せるよう憶えておこう。
押入れを開ける。上の段はぎっちりだが下の段は空っぽだ。
下の羽目板を剝がし、地下空間まで続く防音壁に囲まれた螺旋階段を降りて、ただそのためにだけに掘って安置したあたしの本当のベッドに入りゆっくり眠っていく。ここからは天井になっている押し入れの羽目板はもう見えない。降りるときはそれほどに感じなかったが、登る段になるとあの螺旋階段を登るのは、出だしで少し覚悟がいるなぁといつも思う。
ここまで掘り進めたのはあたしひとりがやったことなのに、いつも他人行儀な感じでそう思う。
ここは、もう、無音のシャワーしか聞こえない吸音壁に囲まれた地下空間だから、聞こえてくるのはあたしの繰り言ばかり。カナじゃない可南子のあたしの繰り言ばかり。カナと違ってあたしは自分の地声が嫌いだ。それを聞きたくないから、眠りに着くのは早い。本当のベッドで眠るのは凶事を終えた後だけだから。
凶事は自らが進んで好きでやってきたことじゃないけど、この時の眠りは好き。いちばん好き。
次に墨東でやる大相撲場所まで眠り続ける。大相撲は年に6場所あるけど、墨東でやるのは年3つだけだから、あたしが次に目を覚ますのは4カ月後の9月13日の日曜だ。
世間が灼熱地獄の夏に魘されてる間、あたしは音のない地下で眠っていられるなんて、こんな幸せなことはない。でも9月って近ごろはまだまだ暑いのだ。9月13日の日曜のお午もまだ暑いにきまってる。こんな地下の穏やかにいるのに、それでもきっとまだまだ暑さで邪音の蔓延る地上を忘れずに出歩くはず。だってあたしは、いかもの食いのミソフォニアだから。ハンサムボーイのお肉よりも崩れてブヨブヨなオッサンの股座が好きだから。でも、それ以上は認めたくない。もう眠りに入る時間だから、乙女な感じで眠りにつきたいから、認めたくない。
蝉の幼虫のたくさんが通り過ぎる。
13年とか17年とかの素数で一旬してる蝉の幼虫だ。こんなのが横から差し込まれてくるくらいだからあたしの眠りに落ちるのはもうすぐだ。あんなたくさんいるのに蝉の幼虫ってトンボの幼虫みたいな別名がない。ヤゴとかボウフラとかの呼称はない。羽をこすってジィージィーやミーンミーンしてるのは1週間で、その前の13年17年の間、土の中に潜っているのがメインの方なのに、ヒトの目に触れないというだけジィージィーやミーンミーンな方に持ってかれる。
こんなのまで差し込まれているからもう落ちてるのかもしれない。
あたしはミソフォニア。ジィージィーやミーンミーンを持たないメインの13年17年が好きに決まってる。




