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それでも私は溺れない  作者: 桐谷 歩
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哀れな属性

 さて、今日は夫が出張から帰ってくる日だ。


 午後になったら彼の好きなかぼちゃサラダを準備しよう。日曜午前十時。洗濯ものを干しながら自分がひどく身軽な人間だと気づく。

 

 ふと、上げた左手の結婚指輪に目が止まった。五年前、夫がスポーツジムで無くしたとわかりやすい嘘をついてからしばらくして、彼の指輪が家に郵送されてきたあの日のことを思い出す。

 送り主の名前もしっかり入っていた、私への挑戦状。その日から夫を拒み、夫は月の半分は家に帰らなくなった。しばらくは、都内でシンガポールの出張土産を買ってから帰宅してたっけ。


 四年つき合った十歳年上の彼は、ストーカーにはなりたくないと言ったあの日から一切連絡をよこさない。気の強い奥さんの元で前みたく尻に敷かれているのだろう。でもいいの、それが彼の帰る場所だから。

 健吾はまたあまのじゃくに誰かを求めているだろう。私はもう、彼の物語にもいない。カサカサの膝で授乳する麻美こそが登場人物の、温かい家族の物語。麻美はいつだって健吾の帰る場所。


 男たちは想像をやめない。

 儚い女のファンタジー。

 

 でもそれは、夢の終わりに「帰る場所」があるからできる冒険だ。隠れたたくさんの涙を見ないふりして、掛け違えたボタンは永久に直せないのに。


 フランス製の白いソファに座り、インテリジェンシアのコーヒーを口に含む。仕事場が近いこの低層マンションは、夫が与えてくれた「私のお城」だ。木漏れ日を受けながら、ウッドデッキで誇り高く咲く一輪のひまわりを見て、子供の成長を重ねる至福の時間。


 イタリアから取り寄せたダイニングテーブルは、我が家には少し大きかったかもしれない。家族を増やせばちょうどよかったかもしれない。そんなことを考えていると、重たげに置かれた一枚の紙に気づく。 

 そうか。夫は昨日この「城」に「帰って」いたのだ。

 「いい加減サインをくれ」と、悲痛な叫びが聞こてくるようだ。もうひとくち、苦いコーヒーを飲んだ。やはりダイニングテーブルは大きすぎる。

 

 どんな恋愛をしても、何事もなかったかのようにピカピカに磨いた玄関と水回りで夫の帰りを待つ私の五年間。月の半分しかいない夫の帰りを、弟が欲しいと言い始めた息子と二人、とびきりの笑顔で待つ私の五年間。

 

 決して不幸の海に溺れてはなかった。あなたの心がここになくても、私は自力で均衡を保っていた。あなた以外の「帰る場所」になることができれば、いつだってこの紙にサインをくれてやる。そう思って五年間。


 「さてと…」

 そろそろごはんの支度をはじめよう。大きなアイランド型キッチンを見渡す。カウンターテーブルも、ハイチェアも、フレンチドア冷蔵庫も、ほぼすべの家具は私が決めた。自分以外、まるで最初から誰もいなかったかのようなお城。ホコリひとつない美しい空間。

 

 コーヒーテーブルで必死に絵を描いていた息子が駆け寄る。

 気のせいではない。見違えるほど大きくなっていた。こんなくっきりとした目をしていただろうか。実家の母が庭先で切ってくれているという短めの前髪。青いジンボリーのシャツ、グレーのパンツ、これって私が買ったもの?

 

 まじまじと見つめられた息子はというと、不安そうな目をしていた。それはもう夫の目にそっくりだ。

 「どうしたの?」

 棒立ちになっている息子が、震える声で呟いた。


 「おばあちゃんち帰りたい……」



 おわり

 

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