さらなる罪
ここからが本当の地獄だ。
ゲイルが取ってきてくれた宿は酒場と隣接した小さな建物だった。
大方王都から来た商人を客層としているのであろうその宿屋の客室は、
ベッドが三つずつ向かい合うように並べられただけの質素な空間だった。
修道院の空き部屋などは騎士団が利用している可能性が高いからと避けたそうだ。
浴場がついているだけでもありがたいと思うべきだろう。
この世界は魔法が未発達なためか、それを補うようにして薬学や錬金術、医療技術などが発達していた。
修道院を中心に早期の伝染病の対策や酒精にある殺菌効果の発見、瀉血などの間違った知識の排斥、
といった具合に俺がいた世界とはだいぶ違う歴史を歩んできたようだった。
さすがに抗生物質などはないようだが、清潔への意識や殺菌消毒の概念が既にあったのは驚きだった。
薬学や錬金術も、魔法ではないが魔法のような物質や魔物の素材によって、
俺の世界の歴史上の薬よりも現実的な効果をもたらしていた。
故郷の両親の家にも水浴び用の桶があった。
人二人くらいが入れる大きな桶で、三日に一回はその中で井戸水を浴び布で体を擦って清めていた。
石鹸も貴族だけのものではなく、どの水浴び場でも見られたが
貴重品には変わりなかったため派手に使ったりすると怒られたものだ。
公衆浴場も、俺が知っているものとはだいぶ違った。
衛生面を考えてなのか、基本的には布や石鹸は持ち込みで、
脱衣所などに置かれている桶に最寄りの井戸から水を汲み、それで体を洗うというものだ。
魔法で水を生み出すなどということもできないため、町や村には必ず井戸がある。
久々に体や髪を洗えてすっきりした俺たちは、早々にベッドに入った。
狭い馬車の中で三人で縮こまるように眠っていたのだから無理もない。
他にも利用客はいるので、内緒話も無理だ。
やることもないので、大人しく目を閉じた。
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リインに起こされた時には日が高く昇っていた。
どうも疲労がたまっていたらしく、寝過ごしてしまったらしい。
ゲイルも二日間ずっと馬に乗っていたせいか、起きてはいたもののベッドに座り込んでいた。
周りのベッドを見回すが、他の利用客は全員出払っているようだった。
隣の酒場に行き、朝食に黒パンと豆のスープを三人で食べた後で、俺たちは無人になった寝床に戻った。
俺のベッドにリインと一緒に座り、ゲイルに向き合う。
「まず、おまえたちが神殿から逃げてきて三日か。
帰還もせず、伝令も寄越さない部隊にそろそろ本営が増援を出す頃だろう。
空の石棺の中身と唯一死体になっていないテオを血眼になって探し始めるはずだ」
ゲイルが淡々と状況を整理するが、そこで俺は割って入った。
「いや、死体ってなんだよ。俺、騎士は殺してないぞ」
リインがうなずく。俺がやったのは、騎士たちを吹き飛ばした隙に飛んで逃げただけだ。
ゲイルが目を見開き、「殺していないのか?」と呟いた。
「いや、別に殺す必要はなかったっていうかよ」
「それ以上言うな」
ゲイルが首を振り、それから俺に説くような口調で語り掛けた。
「いいかテオ。大事なことを教えておくぞ。
そいつらはおまえが仕留めなかったせいで、既に本営に伝令を飛ばしている。
今日にも捜索が開始されるかもしれない。
もう一つ言えば、おまえが倒したと思っている騎士は、誰も無力化されてなどいない。
再度剣を取り、襲いに来る」
「で、でもよ、だからって殺すことはねえだろ」
「それで、おまえは向かってきた敵をまた殺さずに見逃すのか?
そいつらは何度でも襲ってくるぞ。おまえが生きている限り、そいつらの命がある限りな」
ゲイルは深く息を吸い、滔々と私見を述べた。
「俺の時代にもいた。人の命は尊いと謳う、甘ったれた貴族出身の騎士だ。
自分は命を奪うようなことはせず、何かあってもその場で死人を出すことはなかった。
本人は不殺の騎士を名乗り、陶酔に浸っていたがな」
不殺の騎士。俺はそれの何が悪いのか分からなかった。
死人が出なかったのであれば、それはいいことではないのか?
「そいつが見逃した夜盗や賊は誰がどうすると思う。
そいつの見えないところで、そいつの世話をしていた従士や平民出身の騎士が仕留めていた。
俺から言わせれば、不殺なんていうのは綺麗事ですらない。
自分が手を汚したくないだけの卑怯者だ。
そいつが手を下さないだけで、他の誰かが剣を振るわなければいけなくなる。
いいか、この世の不都合というものはな、放っておけば勝手に消えるものではないんだ。
誰かが放り出した不都合は、誰かが背負う羽目になる。
誰も背負わなければ、不都合は溜まっていき破滅を招く」
「じゃ、じゃあ、人を殺してもいいってのかよ」
「おまえ、まさか人を斬る覚悟もせずに騎士団に入ったのか?
騎士が人を相手に剣を抜く場面がないとでも?
人を殺していい理由はない。だが、殺さねばならない理由など幾らでも生まれる」
俺は何も言えなかった。俺の想像していた騎士は、鈍色の鎧を身に纏い、
魔物と戦い、民を守って民から称えられる存在だった。
押し黙る俺に、さらにゲイルは畳みかけた。
「これから多くの敵が俺たちを殺しに来る。
おまえは毎回そいつらを見逃して、そのたびに俺に始末させるつもりか?
俺とて十年以上戦場を離れた老兵だ。どこまでやれるか分からん。
リインを守り抜くには、間違いなくおまえの力が必用だ。
だが、おまえはどうするんだ? 敵を見逃す度、敵の数は増えるぞ。
やがてどうしようもなくなり、俺もおまえも、リインも殺される。
二つに一つなんだ。生きのびるために命を奪うか、黙って殺されるか」
リインが「そんな言い方」と口を挟んだ。
だが、ゲイルの言っていることは紛れもない事実のように思えた。
確かに、俺はあの時騎士たちの命を奪うことを避けた。
その理由は単純だ。殺したくなかったのだ。
慈悲の心とか、命の尊さとか、そういったものではなく単純に嫌だったのだ。
アベルを死なせたくなかったというのもそうだが、リインを助けたくはあっても、
殺人者にはなりたくなかった。
「テオ。俺はおまえを卑怯者と断じたわけではなく、おまえの行為を批難したんだ。
次に敵にまみえる時までに、よく考えておけ」
ゲイルの言葉が頭の中を反響する。
あの時は騎士たちを吹き飛ばし、リインを助け出せたことに満足しきっていて、
それが後の禍根になるなど考えもしていなかった。
俺はリインが生きている未来を求めた。
だが、それは手を汚さずに掴めるほど、簡単なものではないことをゲイルの目は語っていた。