第91話 キスの日。
「ねぇイツロー、今日が何曜日だか知ってる?」
途方に暮れる俺に、すみれが聞いてきた。
夏の終わりの昼下がり。あれ? そう言えば今日って何曜日だっけ? 昨日はバイトだったけど、あらためて曜日って言われても……。
「日曜日。に・ち・よ・う・び! 私たち社会人は明日からまた五日間お仕事なの。わかってる? 一週間に一回しかない休暇の黄昏なのよ。なのにあなたは寝坊して、もうこんな時間になっちゃった。いいわよね学生さんは。まだ一週間もだらだらした夏休みが続いてるんだから」
返す言葉も無い。
昨夜バイトを捌けた後、店長がお客さんと麻雀に行くのに員数合わせでお伴することとなり、それが終わったのは朝の七時。すみれとの待ち合わせは十時半だから少しでも寝ておこうと布団に入って、気がついたら一時過ぎになっていた。あわてて待ち合わせ場所に急行し、謝罪もそこそこに遠野に向かったのだが、目的の店の前に到着したのは二時十五分。目当てだったランチタイムも既に終了し、お店自体も昼休みに入っていたのがイマココというやつだ。
すみれはそっぽを向きながら、ひとり語りをはじめた。
「あー、パスタセット食べたかったなぁ。りんごのグラタンもかきときのこのアヒージョも。あれ、なんで食べられないんだろ? おっかしーな。私、十時半にはドトールに着いてたんだけどなぁ。杜陸から遠野って、そんなに遠かったっけ? 私の彼氏の話では一時間くらいって聞いてたんだけどなぁ。はて?」
「ごめんなさい! 寝坊した俺が全部いけないんです」
「あら? そこで頭下げてるあなたは、いったいどこのどなた?」
「あなたの彼氏です」
「そんなはずはありません。私の彼氏はとーっても真面目で優しくて、待ち合わせ時間に遅れたことなんてない誠実なひと。おまけに私のことが大好きなんですよ。三時間も待ちぼうけさせるひとが彼氏なわけ、ないじゃないですか」
ぴしゃりと圧殺された俺に反論の余地はない。よしんばここでベイシーでの三時間なんてのを持ち出しでもしようものなら、それこそ取り返しのつかない泥仕合になる。ここはもう、謝りの一手しかない。
「ごめんよぉ、すみれ~。埋め合わせはちゃんとするから、そろそろ許してよぉ」
情けない俺の謝罪を前に、すみれは腕を組んで睨んでいる。
「許して欲しい?」
うんうんと、犬のように大きく頷く俺。
「なんでもする?」
「うんうん」
「じゃあねぇ、ここでキスして」
「え?!」
俺は周りを見回す。ここは休日の駅前。その筋じゃ愛好家だっている観光地だから、今も老若男女、それなりに人通りがある。こんなところでぇ?!
「ちゅっ、だけじゃダメ。ちゃんとしたヤツ」
「マジですか?」
「許してほしいの? ほしくないの? それとも、すみれちゃんとキスするのは嫌なのかなぁ?」
人目のことを無理やり意識の外に追いやった俺は、にやにやと笑うすみれをがばと抱き寄せた。こうなったらヤケだ。いつもの倍熱いヤツをお見舞いしてやる。
唇で唇をこじ開けて舌を滑り込ませる。前歯をつつき、歯茎を探り、舌を誘う。交尾する軟体動物のように舌と舌とを絡ませ合い、溢れ出る唾液を啜り取る。右手で小振りの後頭部を掴み、左腕で腰を巻き取る。すみれの両手が俺の背中に回った。
きっちり三分。俺たちの唇が光る糸の架け橋を残して袂を分かったときには、何人かの通行人たちが足を止めていた。正気になるとめちゃくちゃ恥ずかしい。
婆さんのひとりが拍手してきた。釣られて、他の見物人も手を叩いてくる。やめて。マジ恥ずいから。
最初に喝采していた婆さんが近寄ってきて、俺の背中を叩いた。
「えもの見せでもらったよ。若返るね。そのうぢ冥土で爺っちゃにも教えでやらねどな」
婆さんは、まだ放心しているすみれの手と俺の手を重ねさせ、それをしわしわの両手で包みながら、こう締めた。
「あんちゃねっちゃ、これがらも末永ぐ仲良ぐね」




