第90話 遅れても必ず行くから。
ぐったりしたすみれを後部座席に押し込んで、自分もタクシーに乗り込もうと半身を入れた哲也の腕が、背後から掴まれた。
振り向くと、店長が立っていた。
なにを、と抗議する間も無く、哲也はタクシーの外に引き摺り出された。後ろから走ってきた女性スタッフが、店長に腕を掴まれたままの哲也を押し退け、タクシーの中からすみれを下ろす。息の合ったその連携に呆気に取られた哲也だったが、気を取り直して怒気をぶつける。
「あんたら、どういうことだよ! これが客に向かってすることか?!」
哲也の罵声を無視した店長はタクシーの中に頭を入れ、運転手に少し待つよう頼んでいる。すみれを抱きかかえた女性スタッフが強い口調で哲也に言った。
「この娘はうちの大事なお客さんで、うちのスタッフの大事なひとなんです。あなた、今日初めてこの娘に会ったくせに、今からどこへ連れてこうとしてるんですか」
「そんなの、家に送ろうと……」
「嘘も大概にしなさい!」
哲也の言い訳を最後まで聞かずに、女性スタッフは怒気を孕んだ声で強く言い放った。哲也は、それでも虚しい反論をする。
「なんで嘘って言えるんだよ!」
「名前も、どこに住んでるかも知らないのに?」
哲也の腕の戒めを解いた店長が、間を割って入ってきた。
「私もこういう生業をしてるから、あんたみたいな輩は数多く見てきたし、よほど犯罪的なものでない限りは見過ごしてきた」
「だったら……」
哲也の弱腰な反論に、堅気では無い形相となった店長が言葉を被せる。
「だが、この娘は身内だ。身内の娘がどこの誰かもわからない一見の男に連れ去られるのを、指を咥えて見てるわけにはいかない。そんなんじゃ、あいつにも申しわけが立たん」
そこまで言うと、店長はひと呼吸置いた。すみれを抱いた年配女性は口を挟まず、哲也をただ睨み続けている。気合いで完敗している哲也は、なにも言い返せない。
表情を戻した店長が、哲也に向かって言葉を続けた。
「あんたにはあんたのやり方があるだろうし、それなりに投資もしてるんだろう。だが、この娘は駄目だ。悪いがあんたはこのタクシーに乗って、ひとりでどこへでも行ってくれ」
なんで、と口を開きかける哲也に、店長は最後通告をする。
「話は終わりだ。ああそれと、物語ならここであんたから受け取ったお代を叩き返したりするんだろうが、うちは零細だからそんなことはしない。もしなにか言いたいことがあるのなら、いますぐここに警察を呼んでもいい。どうする?」
哲也は折れた。口惜しいけれど逆転の余地は無い。こんな負け方は初めてだが、警察なんて呼ばれたら困るのは自分の方だ。
獲物を諦めた槍須哲也は、黙ってタクシーに乗った。
*
月曜の午後五時過ぎ、すみれはVストロームで開店前のポットスティルを訪ねていた。
「昨夜は本当にご迷惑をおかけしました。私、ほとんど憶えてないんですけど、送ってくださったのは奥さまですよね。昼前に目が覚めたら自分の部屋にいて。テーブルの上に奥さまのお名刺が置いてあったんで、すぐに連絡しようとしたんですが……」
店長はにこやかに笑っている。奥さんも微笑しながら、エプロンのポケットから取り出したものをすみれに差し出した。
「これでしょ」
すみれのスマートフォンだった。
「私もさっき、お店の準備をしてて、物陰に落ちてたのを見つけたのよ。たぶんお勘定のときに落としたのね。ホントだったら夜のうちに片付けするからそこで見つけられたはずだったんだけど、昨夜はちょっとだけごたごたしてて、やってなかったの。早く気づいてあげられなくてごめんなさいね」
返す返すもすみません、と頭を下げてスマートフォンを受け取りながら、すみれは尋ねた。
「昨夜、私はどんな酔い方してたんですか? 最後の方はぜんぜん記憶が残ってなくて。他のお客さんにご迷惑かけたりしてませんでした? 隣の人と話してたような気はするんですけど」
「ぜんぜん。それはもう普通の、大人しい酔っ払いだったわよ」
奥さんは頭を振って笑顔で答えたあと、でもね、と真顔になって言葉を継いだ。
「最後の一杯は余計だったわね」
奥さんの後ろで腕を組んだ店長も大きく首を縦に振っている。すみれは小さくなって俯いた。
「はい。調子に乗っちゃいました。反省してます」
にっこり笑って二度頷いた奥さんは、そうそう、と話を続けてくる。
「悪いとは思ったけど、画面見えちゃった。中身は知らないけど、何回も着信あったわよ、いっちゃんから。メールも電話も。心配してるはずだから早く連絡したげなさいね」
すみれちゃん、ポニーテールも良く似合ってるわよ、と言い残した奥さんは、すみれのバイクを見物しに、店長と並んで店の外に出ていった。
恐縮して頷きながらも、すみれは急いでスマートフォンを開いた。逸郎からのメッセージと着信履歴がずらずらと表示されている。その中には、今夕の合流ポイントについての連絡も。
全てを流し読みしたすみれは、その場ですぐに一報を送った。
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ごめん!
スマホを昨夜のお店に忘れてて、いま回収したの。
いますぐこっちを発ちます。
待ち合わせのベイシーには時間に遅れても必ず行くから、待ってて!!!!
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とりあえずのメッセージを送り、流し読んだ分を再読し終えたすみれがふたりを追おうと扉に手をかけたとき、手にしていたスマートフォンが震えた。立ち止まって画面を見たすみれの目に、メッセージが飛び込んで来る。
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了解。
ジャズ聴きながらゆったり待つから、こっちは心配なく。
些細もあとでいい。とにかく安全運転で。
USBケーブルは忘れずに。
バイクにソケットがあってもケーブル無ければ充電はできない。
あともうひとつ、大事なこと。
愛してるよ! >すみれ
逸郎
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私も。とだけ返してVストロームに向かうすみれは、嬉しくて泣きそうなのを店長たちに気取られないよう、ゆっくりと時間をかけて歩いていった。




