第89話 じぶんのぶんはじぶんでだひましゅよ。
――それにしても酒の強い女だ。
哲也は舌を巻き、そして少し焦っていた。
哲也がカウンターに座ってからもう一時間になる。その間、ボウモア十二年をオンザロックで三杯飲んだ。隣の美女も同じペースだったからやはり三杯。探りながらの会話によると、同僚数名と居酒屋で二時間ほど過ごしたあとに飲み直しでここに来たと云うから、少なく見積もっても哲也の倍は飲んでるはず。にも拘らず、情報管理の厳しいこと。
この一時間で哲也が知り得た彼女に関する情報は、最近青森に行ってねぶた祭りを見てきたことと、今日は休日出勤でその帰りに同僚たちと飲んできたことだけ。仕事先や年齢はおろか、呼び名すら教えてもらえていない。LINE交換など夢の先だ。この身持ちの堅さは半端じゃない。ここまででかろうじて哲也が得たゲインは、席をひとつ詰めて隣に座ったことくらい。
それなりに実績のある会話テクニックを駆使してきたが、そのことごとくが不発に終わる体たらくで、哲也はナンパ師の看板までも失いかけていた。
「哲也さん、今日はいろいろと楽しいお話ありがとう。これ以上飲むと危険だから、そろそろ私、帰ろうかな。」
そう言うと美女は僅かに残ったグラスの琥珀色を空にして、手元に伏せていたスマートフォンをバッグに仕舞った。
――マズイ。完全に締めに掛かられてる。これではお持ち帰りができないじゃねぇか。予算オーバーだが、やるしかねえ。
「ちょっとまって。今宵ラストの一杯にボウモアの十八年をご一緒しませんか? 奢りますよ。僕も飲んでみたいし」
立ち上がりかけていた美女が、動きを止めた。もう一押し、と哲也は畳みかけた。会話の中で彼女がこぼした、シングルだと味わおうと思ってもすぐに飲み終わっちゃうんですよね、という言葉に賭けて。
「なんならダブルでもいいですよ」
――ボウモア十八年二千円がダブルで四千円。こっちも同じにしないわけにはいかないから合計八千円! ここまでの分も含め、ふたり総額なら軽く二万を超えてるだろう。この後のタクシー代とホテル代合わせると四万くらい。オンナひとり落とすには完全に予算超過だが、背に腹は代えられない。なぁに、金なら口座にまだ唸ってるし、上手くいけばこいつの動画でまたひと儲けできる。そう考えれば安いものだ。だいたい前のマーチが安上がり過ぎただけで、ここまでハイレベルの美女ならこのくらいの投資は普通だろ。
逡巡していた美女が座り直した。
――そうこなくっちゃ。
「そんなこと言うとホントにご馳走になっちゃいますよ。十八年、高価いんだけど、大丈夫なんですか」
「まかせてください。最近ちょっと小金が入って財布は潤ってますので。あ、店長、ボウモアの十八年をダブルでふたつ。ひとつはこちらに。お代は両方ボクでいいから」
哲也は速攻でオーダーを入れた。
――善は急げだ。既成事実さえ作ってしまえばこっちのもの。
店長は表情を変えずに酒棚の方に向き直り、高いところからボトルを取り出している。と、裏から年配の女性スタッフが顔を出してきた。
「大丈夫なの、すみれちゃん。今日はちょっと飲み過ぎじゃない?」
ボトルを片手に動きを止めた店長が、スタッフを睨んだ。美女も人差し指を口に当てている。女性スタッフもしまったという顔をした。が、もう遅い。
――そうか。この美女の名前はすみれっていうのか。おばちゃん、神アシスト感謝だぜ。
一瞬だけ苦虫を噛み潰した顔になった店長は、しかしすぐに無表情になって、ダブルに満たしたロックグラスをそれぞれの前に置き、ふたりの間にボトルを立てた。
「すみれさんと僕とボウモア十八年の、素敵な出会いに乾杯」
哲也は、すみれのグラスの手前に自分のグラスを掲げた。しょうがないという表情で、すみれもグラスをぶつけた。
*
いつの間にか殆どの客はいなくなり、残っているのは、哲也たちカウンターのふたりとテーブル席に居座っている常連らしい中年男性ふたり組だけ。音量を絞ったジャズピアノが流れる店内の空間は、変わらず静かに落ち着いている。
ボウモアの十八年は随分と高価い藁のひと房だったが、駱駝の背骨を折るには充分な一撃となったようだ。
最後のひと口を飲み干してグラスを置くと同時に、すみれの首がかくっと折れた。哲也はそれを素早く抑えて自分の肩にもたれさせると、店長を呼ぶ。
「タクシーを一台お願いします」
店長が電話を掛けている。哲也はしてやったりの笑顔を浮かべながら、まだ半分近く残っている自分のグラスをひと舐めした。
――たしかにこいつは格段に旨い。まぁ勝利の美酒ってやつだね。しかし、もったいないけど残りはやめておこう。肝心な時にオレのが使い物にならなくなってたら、それこそ意味無いから。
五分で来るという言葉を聞いて、哲也は会計を頼んだ。
「すみれさんの分もまとめてでいいですから」
哲也の肩に頭を預けていたすみれが、そのセリフに反応した。
「じぶんのぶんはじぶんでだひましゅよ」
すみれはそう言って、カウンターの端に立てていたビジネスバッグから財布を取り出して、そのまま店長に渡した。
「失礼します。いつものカード払いでよろしいですね」
慇懃に応対する店長に、はい! と大きな声ですみれは応え、立ち上がった。足元はもうふらふらしている。それでもすみれは、腰に回そうとした哲也の手を振りほどく。哲也はやむなくすみれの肘を掴んで、倒れないよう支えた。
店長から求められたサインにミミズののたくったような文字列を返して財布を受け取ったすみれは、それを無造作にバッグに放り込んだ。が、哲也が自分の分の会計をしているうちにバッグ自体を取り落としてしまった。
中身が散らばった。新しい手掛かりが手に入るかもと思い、哲也がそれらを拾おうとした。が、女性スタッフが哲也を制した。散らばったものを拾い集めてバッグに納めると、ファスナーまで締めた上でご丁寧にすみれの首に斜め掛けさせる。その一部始終を、すみれは女性スタッフの成すがままにされていた。
もはやすみれの意識は無く、足元も機能していない。今度こそすみれを腰抱きにして、哲也は店の扉を肩で押した。
――たしかに酒代の出費は痛かったが、この女の分は最後の四千円だけで済んだ。お人好しのおかげで安くついて助かった。残り物には福があるってのは今日のことだな。
すみれを抱えて外に出た哲也は、夏の夜気の中で高笑いしたい気分だった。
道の向こうに停まっている迎車のタクシーが、ふたりを認めて自動でドアを開けた。




