第47話 お兄さん可愛いから、今夜は貸切にしたげる。
「昔、と言ってもそんな大昔の話じゃない」
高三の夏休み前だから、ちょうど三年前。そう切り出した逸郎は、繋いだ手をそのままに、自分の膝に乗せた。
*
逸郎にはそのとき想い人がいた。逸郎にとって、それは初恋だった。
きっかけは、春休みの出来事。お試しの春期講習を終え夕方に近い繁華街を駅に向かっていた逸郎は、歩道の先の人の流れに不審なものを感じた。行き交う人波がなにかを避けているようなのだ。障碍になっていたのは丸くなった人の背中だった。膝をついて蹲る老人はまったく動いていない。ひとびとが無関心に横を歩き過ぎる中、逸郎はひとり走り寄り、老人を助け起こそうと手を伸ばした。
そのとき背後から鋭い声が掛かった。咄嗟に振り向いた目線の先、人波の中から同年輩の見知らぬ少女が現れた。逸郎を制した少女は、倒れたままの老人の背中を軽くさすりながら呼びかけをする。歩道には少しだけ血が流れていた。
そういえば、頭を打った人を無理に動かしてはいけない、と何かで読んだことがあった。そう気づいた逸郎はポケットからくしゃくしゃのハンカチを出し、老人の額にあてた。出血はそう多くは無かった。
少女の誰何に細々と応える老人を見下ろしながら、逸郎はスマホで一一九番を呼び出した。
ほどなく到着した救急車の隊員に少女か逸郎のどちらかの同行を要請されたが、このあと家族と合流しなければいけないと逡巡する少女を抑え、逸郎が前に踏み出した。
動き出した救急車の中で逸郎は、少女の名前も連絡先も聞いていなかったことに気づいたが、あとの祭りだった。
立ち眩みで大事の無かった老人を駆けつけてきた家族に託し、病院をあとにした逸郎は、さっきの少女のことを反芻していた。快活で爽やかな印象の少女の無駄のない動きをとても好ましいと感じたのだ。
――また会えたらいいな。
無理なことは承知で、逸郎はただぼんやりとそう思うだけだった。
再会の機会は思ったよりも早くやってきた。新学期の初日、少女は転入生として逸郎の教室の黒板の前に現れたのだ。
最初の印象に違わない快活な彼女はすぐにクラスの女子グループの人気者となり、まるでそれまでの二年間もずっと一緒にいたかのように教室に馴染んでいた。逸郎はそんな少女から目が離せなかった。とはいえ、これまで女子とまともに接したことのなかった逸郎では、どうやって話を繋げばいいのかもわからない。いままで吸収してきたマンガや小説、映画のシーンなども、リアルな場面にはなんの役にも立たなかった。
悶々と過ごす三カ月、逸郎は焦りはじめていた。彼女が自分のことを嫌っている感じは無い。係などで逸郎が指名された際にもうひとりの枠に少女が手を上げることさえあった。だが自分に自信の無い逸郎は、そんなものは単なる偶然の気まぐれとしか考えられない。それよりも男女どちらからも人気のある少女が、自分が手をこまねいているうちに誰かの彼女になってしまうのではないか。実際、四月の終わりごろに少女に告白し撃沈した男がいたことも聞いていた。
一念発起した逸郎は、一学期終了前の三日をかけて長い手紙を書き、終業式前日の朝に少女の机の中に忍ばせた。明日の終業式のあと、体育館裏にいるので、そこで返事を聞かせてほしい、としたためて。
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「結果は、悲劇を通り越して喜劇だったよ」
黙って耳を傾けているすみれの横で、遠く黒い影だけが浮かぶ岩手山を見つめながら逸郎は語った。
「彼女はその二日前に彼氏ができたばかりの、ほやほやのカップルだったんだよ。相手は夏期講習の予備校で初めて出会った他校の男子。俺の手紙を読む前の日の夜に告白されて、その場で受けたんだってさ。笑っちゃうよね」
胸の痛みは今でも憶えてるけど。そう思いながらも、逸郎の脳裏にはそれ以上に間抜けな顛末の方がより鮮明に浮かんできていた。
「俺の自己評価の低さは、たぶん筋金入りなんだよ。そのあとだって手痛い失敗を繰り返してるし」
繋いでる手に力を加えたすみれが、それを逸郎の膝から自分の膝の上に持ってきた。
「でも話はそれで終わりじゃないんだ」
すみれの膝が発する熱を手の甲で感じながら、逸郎は話を再開させた。
「彼女が立ち去ったあともしばらくは、俺は体育館裏から動けずにいた。でも、いつまでもそうしてるわけにはいかない。とりあえずどこかに行きたい。そう思ったんだ。幸い、というか不幸にもというか、そのときの俺は分不相応のお金を持っていた。告白を受けてもらえたならふたりで街に出て、服かアクセサリーか、とにかくなにか記念になるものでも買ってあげようと思っていたから」
すみれはもう下を向いてはいなかった。ただ、逸郎の話がどこに落ち着くのか、どう自分と繋がるのか、それだけを見届けようしていた。
「高校の最寄りから短い路線を行き来するだけの私鉄の最後尾に乗り、ただぼうっと座っていたんだ。そうやって何往復かしてるうちに外は暗くなってきた。俺は彼女と鉢合わせすることだけは避けたかったから、彼女の予備校の最寄りとは反対方面のターミナル駅で降りて、猥雑なネオン街に向かったんだ。とくに行きたいところがあったわけじゃない。ただ、お酒というものを飲んでみたいって思ったんだよ」
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夏服だし、校章の入ったネクタイさえ外していれば制服もそれほど目立たないだろう。逸郎はそう考えていた。それでも念のため、メインの通りではなく明かりの少ない裏通りを選び、どこか入れてくれそうな店を探して歩いた。
申し訳程度の看板を掲げた間口半間の小さな店。開け放した扉の脇に置いた椅子に、濃紺のナイトドレスを着た女がひとり座って、煙草をふかしていた。扉の内側には客のいないカウンターが見える。
そのまま通り過ぎようとした逸郎に、ドレスの女が声を掛けた。
「お兄さん、高校生でしょ。他所に行っても断られるわよ。夏休みはみんなぴりぴりしてるからさ」
いきなり看破されて狼狽える逸郎に、女は椅子の横に立てた灰皿で煙草を揉み消しながら続けた。
「諭吉一枚持ってるんなら、うちで飲ませてあげる。ほら、入んなさい。お兄さん可愛いから、今夜は貸切にしたげる」
そう言って店内に招き入れると、女は扉のフックに掛かっている表示をclosedに替えた。
暗い店内で勝手がわからず立ち竦む逸郎にカウンター席を勧めた女は、奥を回って内側からおしぼりを渡してくれた。
まつ毛が異常に長く、白い顔に頬紅が目立つ女は、グラスをふたつカウンターに出すと冷蔵庫からサッポロの中瓶を取り出して栓を抜いた。二脚のグラスの縁ぎりぎりにビールを注ぎ、片方を持って逸郎に向けて掲げる女。逸郎も慌ててもうひとつのグラスを取る。
「お兄さんとあたしの素敵な出逢いにかんぱーい」
喉に落ちる刺激が心地良い、と逸郎は思った。真夏のビールがこんなに美味いなんて知らなかった。半分になったグラスに、女はビールを足してくれた。
女は、今日逸郎に何があったのかを、まるで見ていたかようにわかっていた。かと言って別に慰めるでもなく、ただ酒を出し、話を聞いてくれた。ビールはいつの間にかハイボールになり、さらにオンザロックに変わった。溜め込んでいた三カ月分の思慕を吐き出し、逸郎は初めてのウィスキーに酔いしれた。
いつの間にか隣に来た女に、何を言われたかもわからないまま万札三枚渡した記憶を最後に、逸郎の意識は途切れた。
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「犬の遠吠えで気がついたとき、俺は知らない部屋の布団の上にいたんだ」
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外周だけの灯りがときどき明滅する旧い蛍光灯の円環と、その光を遮るようにぐらぐらと動く影になった女の顔が正面にあった。
崩れた顔だった。長かったまつ毛の片方が外れて傷跡のように目尻に張り付き、こめかみから流れ出た数条の汗が白い顔に茶色や紫の川をつくっている。その崩れ切った顔が、苦悶で歪んでいた。筋が目立つ首の下、ドレスの肩紐は片側が落ち、やたらと骨張った肩と片方だけ剥き出しで垂れ下がった乳房が揺れている。さっきまで隣のスツールに座っていたはずのその女は、逸郎の上に跨って髪を振り乱すのも構わずに身体を前後させていた。
「そのときになってはじめて俺の意識は、身体の中心で行われている陵辱と繋がったんだ」




