第21話 こう見えてあたし、走るのは早くないんです。
「先輩、まーやになんかしたんですか?」
由香里が逸郎に詰め寄って来た。
部室棟横の中庭。三方が出来合いの箱のような建物に囲まれ、空いた一方はグラウンドを臨む。ラグビー部の怒声が遠くに聞こえる。
大講義室で弥生と由香里を見かけた翌々日、部室でスマホをいじっていた逸郎はけたたましく入ってきた由香里に袖を引きずられ、ここ中庭のベンチまで連れてこられたのだ。
「イツロー先輩、合宿までの一カ月、まーやを構いまくってましたよね。それはもう犯罪的えこ贔屓のレベルで。心優しくも寛容なまーやがお情けで、嫌がらずに一緒になって笑ってあげてたのにいい気になって。それなのに! それなのにですよ。ひっさしぶりに会えていつもの楽しいガールズトークしてたまーやが、先輩の顔見た途端、走って逃げちゃったじゃないですか」
由香里はひとつ息継ぎをして、持っていたミネラルウォーターをぐびっと飲みこんだ。
――なんだよその犯罪的えこ贔屓ってのは。全部聞き終わったら抗議してやる、一個ずつ。
逸郎も息を整え聞く準備を整えた。
「こう見えてあたし、走るのは早くないんです。いや、はっきり言って遅いんです。亀のちょっと前いけるってとこ。そんなあたしが走って追跡なんて、蕎麦屋に寿司握らせるくらい無謀なんです。ましてまーやは韋駄天さん。物知らずの先輩は知らないでしょうけどね、クラスの中でもトップクラスに速いんです。あ、これは韻踏んだわけじゃないですから。念のため」
――物知らずは余計だが、彼女の足が速いのはたしかに知らなかった。
「あんな本気走りされたらあたしなんかで追いつけるはずないんです。そんでまた行方不明のなしのつぶてですよ。ホントにもう」
「連絡とかしなかったのか」
口を挟むつもりではなかったが、あまりに素朴なんで逸郎はつい尋ねてしまった。
「しませんよ。あたしは! そんな追い詰めるようなこと。だいたいまーやはSNSが嫌いなんです」
――ああ。確かに言ってた。デジタルの文字、苦手なんです、って。
「だからもう、先輩に聞くしかないんです。いったいまーやに、あの優しくて聡明なまーやに何をしてくれたんですか?!」
こいつはこいつで心配してくれてんだな。そう思った逸郎は、揚げ足を取るのを諦めた。
――ちゃんと向き合ってやらないといけない。原町田のためにも、自分のためにも。
「俺だって、わかってることはたぶん原町田と同じくらい少ない。でもおまえの知らないことで俺の知ってることを共有することはできる、と思う」
由香里の鼻息が少し治まった。茶々を挟もうとしないところを見ると、話を聞くモードに入ったらしい。
「合宿の最後の夜のとこからだな」
逸郎は由香里に、あの夜のバスロータリーで自分が弥生を呼び寄せて告白したことを話した。由香里は、さほど意外そうな顔もせずに黙って聞いている。想定内ってところだろうか。
「そのときは返事を貰えなかった。弥生が答えようとする前におまえが連れてっちゃったからな」
「やはりあのときですか。あの場面、あたしの高感度アンテナが警報を鳴らしたんです。これはヤバいことになってるから、早く助けに行けって」
――ほんっと余分なことばっかしやがって。このおじゃマチダが。
「俺も言いたいことは言ったし、次は弥生のターンだから追っかけるのは違うなって放っといたんだ。メールで聞く話じゃないしな。打ち上げのときに答えてくれるかなってさ」
「先輩のそのお気遣いは評価します。あたしの先輩に対する評価をコンマ1くらい戻しました」
「ちなみに現在値はどのあたりなんだ?」
マイナス19,999.9です、とこともなげに由香里は言い放った。
――どういうスコアだよそれは。マイナス一万二千って、パーティー全体が十回くらい死んでるぞ。
「で、打ち上げの日、弥生は返事したんですか? あの晩は先輩、その悪辣なる手練手管を存分に発揮して弥生の隣を陣取ってましたからねぇ」
――ひとをそんな極悪魔神みたいに形容するな! あれはむしろ、弥生が席を確保しててくれたんだ。向かいで見てたんならそこまで察しろ。あとお前、完全に語彙と知識の使い道間違ってるぞ。
「原町田の評価はとりあえず置いておこう。そうだよ。少しでも早く答えを聞きたかったから、俺はたまたま空いてた弥生の隣を確保した。おまえの言ってることは、大筋ではそれほど酷く間違ってるわけじゃない」
そうでしょうとも、と太字で書いてある顔で由香里はうんうんと頷いた。
「応えてくれようとしてたんだ、弥生は。以心伝心できるほどにわかりあうにはまだはるか遠いけど、少なくともあのときは弥生が、弥生自身の持つコンプレックスみたいななにかを俺に預けてみようって決断したのがわかったんだ。でも」
「でも?」
教え子に答え合わせをさせるように、由香里は鸚鵡返してきた。
「弥生が言葉にする前に……槍須……さんに呼び出されてしまったんだ」
吐き出すように逸郎は声を出した。槍須が弥生を呼びつけなければ、周りが、由香里が、そして誰よりも俺が、それに同調したりしなければ。
口に出して話しているうちに、もうずっと胸の裡に溜め込んで来た堪え難いものが喉の奥まで込み上げてきて、制御できなくなっていた。
逸郎の足元に雨粒が跳ねた。




