第20話 先輩、なにボッチくんしてるんですか?
六月も最終週の月曜日、朝イチから始まる一般教養必修講義の大講義室は、この三カ月ですっかり大学にも慣れて我が物顔となった一年生たちの眠そうな顔で埋められている。昨年、不覚にも単位を落としてしまった逸郎は、階段教室一番後ろの角席で可能な限り存在を消していた。隣の席の知らない学生はさっきから船を漕いでいる。出席命と言われるこの講義は老教授の話が聞き取りにくくて、とにかく眠いのだ。けれど逸郎は、別の理由で講義に集中できずにいる。
始業の五分ほど前に遅刻せずに出席してきた逸郎は、すでに七割がた埋まった教室で最後列にいくつかの空きを見つけた。その中でも右奥に近い、もっとも目立たなさそうな席を選んで確保する。もともと友だちは少ないが、学年が違うから顔見知りもいない。そもそも昨年前期に修了しているはずの授業なので、ツルんで受ける仲間などいようはずもない。再履修なんてそんなものである。
受講の準備を整える逸郎の視界の隅に、席とは反対側にある非常扉から入室する人影が映った。建物の裏側から通じているその入り口を利用する学生はほとんどない。つい気になった逸郎は、音を立てないようそっと扉を押さえている小柄な闖入者を目で追った。
うつむきつつも回りを探るおどおどとした仕草。季節外れの地味なスプリングコートを羽織ったその女子学生は、手近にあった空席に腰をかける。見覚えのある横顔の輪郭に逸郎の視線は縫い取られた。
――あれは弥生だ。
いくぶん伸びて肩先を隠しているボブヘアー。鼈甲縁の眼鏡に見覚えはなかったが、女子学生はたしかに行方不明になっていた中嶋弥生そのひとに見えた。
――そうか、戻ったのか。
離れた席から見る二カ月ぶりの弥生の姿から、逸郎は目を離すことができなかった。体中をこわばらせていたなにかが、溶けて地面に向かって流れだしているのがわかる。
立ち上がって駆け寄りたい衝動を、逸郎は意思の力で押さえ込んだ。
――どんな経緯かなんてのはひとまず置いといていい。そこにいる、大学に来たってだけでこんなにも安心できる。
逸郎は安堵の溜息を吐いた。
老教授の聞き取りにくい講義を背景音にしながら、逸郎はファインの言葉を思い出していた。彼女が帰還を予言してからほぼ二週間。もうじきの範疇に入れても言い過ぎではない。逸郎はあらためて舌を巻く。
――たいした勘だよ。
ゲストとの騎乗位本番行為を流したのが運営当局にバレて、ヤリスちゃんねる自体がバンされたのは一週間前の報だった。そのことをシンスケから聞かされた際、逸郎は期待と不安を同時に感じた。半ば存在価値を失った弥生を、槍須はどう扱うのか。おそらくは界隈の注目を欲しいままにしていたあの男がすべての機会を取り上げられたとき、いったいどういう行動に移るのか。場合によっては、弥生の存在がこのまま闇に消えてしまうことだって・・・・・・。
だがそこまで最悪なシナリオは杞憂だったようだ。逸郎は遠くに座る弥生の横顔を盗み見て息をつく。
――ようやっと槍須の呪縛から逃がれることができたのか。売春紛いのことまでさせられていたこの五十日余りは、弥生にとって悪夢の日々だったろう。いやそれとも涼子の言う通りあの毎日は弥生自身の望んでいたもので、それを心無い当局の鉄槌によって破壊された、とするのが正しいのか?
すでに半分近くの学生が居眠りする講義室で身振りも交えることなく念仏のような授業を続ける老教授の声は、弥生のことで一杯になっている逸郎の耳を素通りしていく。
*
「まーや。まーや!」
講義が終わり退室しようと非常扉に手を掛けていた弥生に大声で呼びかけながら、最前列から駆け上がってくる五月蝿いのがいた。顔を見なくても逸郎にはわかる。原町田由香里だ。
サークルだけでなく、受講する授業もほぼ同じだったから、弥生が不在になる前のふたりは教室でも食堂でも常に一緒にいた。声が大きくて喋りがマシンガン、そのうえ空気も読まない。原町田由香里のキャラクターはそんな認識で固定されている。サークルオリエンテーションでの出会いからこっち、逸郎にとってはかなり苦手なタイプだ。
退出しようとする足を止めた弥生は、由香里が階段を上がってくるのを待っていた。帰り支度が済んでいる逸郎もその場に留まり、離れたところから様子を見守った。
立ち話をする由香里と弥生。最近ハマっているドラマとか美味しいスイーツのお店、夏の暑さをしのぐライフハックなどなど。そんな普通の女子の話題が、声量の所為なのか由香里の声ばかりで漏れ聞こえてくる。いや、もともとあのふたりは、話し役の由香里と聞き役の弥生という編成だった。
完全に退室するタイミングを失った逸郎は、彼女たちとは反対側の最後列席でひとり立ち尽くしている。その姿は当然のように由香里に捕捉された。
「あ、イツロー先輩だ。せんぱーい、そんなところでなにボッチくんしてるんですかぁ」
由香里のあっけらかんとした呼びかけで答えに窮した逸郎の目は、電撃を受けたように身体を硬直させた弥生を捉える。逸郎が見つめているのに気づいた弥生は、その顔を背けた。肩掛けバッグのストラップを握りしめた弥生は踵を返し、由香里への挨拶もせずに非常扉から走り出ていった。
「あ、待ってよ、まーやぁ」
一瞬、怪訝そうな一瞥を逸郎に向けた由香里だったが、すぐさま弥生の後を追い教室を出ていく。ひとり取り残された逸郎は大きく息を吐きだして、力なく座席に腰を落とした。
――やっぱり、俺とは顔合わせづらいんだろうな。
逸郎は、弥生と対峙しないですんだことにホッとしてる自分が情けないと感じていた。




