31 壱岐勝本城【文禄の役-撤退】
文禄二年(1593年)如月(二月)――壱岐・勝本城。
朝の海はひどく静かだった。
風も弱く、波も低い。
あれほど絶え間なく動いていた軍船の姿も今日はまばらである。
永重は城の上から港を見下ろしていた。
「……止まっているな」
ぽつりと呟く。
重兼が隣で頷いた。
「は。三日前より、新たな船の出入りはほとんどございませぬ」
伊織も腕を組む。
「対馬からの報も妙です」
「妙?」
永重が振り向く。
伊織は続けた。
「戦の報ではなく、"話し合い"の報ばかりでございます」
その言葉にわずかな沈黙が落ちた。
半佐が小声で言う。
「……講和、でございますか」
誰もすぐには答えなかった。
その時。
城門の方から足音が響いた。
「伝令!」
兵たちが道を開ける。
駆け込んできた使者は疲労の色を隠しきれなかった。
永勝が前へ出る。
「申せ」
伝令は息を整え――そして言った。
「名護屋より達しにございます!」
空気が変わる。
「――大陸より、諸将引き上げの沙汰」
風が止まったように感じられた。
重兼が眉をひそめる。
「……引き上げ?」
伊織が低く言う。
「それは……」
伝令は続けた。
「明国との講和、進み候。
よって、諸軍は釜山へ集結し順次帰国の由」
静寂。
半佐が息を呑む。
「……終わるのですか」
誰もすぐには言葉を発さなかった。
永勝が静かに問う。
「確かなのだな」
「は。太閤殿下の御意にてございます」
その名が出たことで疑いようはなかった。
やがて、永重がゆっくりと口を開いた。
「……そうか」
それだけだった。
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その日の午後。
壱岐の港は奇妙な静けさに包まれていた。
荷はある。
船もある。
だが――急がない。
怒号も減り走る者も少ない。
兵たちはどこか落ち着かず、手を止めて海を見ている者もいた。
重兼が苦笑する。
「戦が終わると聞くと人はこうも変わるものですな」
伊織も頷いた。
「これまでの忙しさが嘘のようでございます」
永重は何も言わず、ただ港を見ていた。
そこにあるのは、止まりかけた"流れ"だった。
あれほど絶やしてはならぬと守り続けたものが、
今はゆっくりと静まろうとしている。
「……止めてよいのか」
小さく呟く。
重兼が聞き返す。
「若殿?」
「いや……なんでもない」
永重は首を振って海を見ていた。
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その夜。
城の上。
風は冷たく空気は澄んでいた。
海の向こうには、もう敵の影は見えない。
少なくとも――今は。
伊織が静かに言う。
「李舜臣も……退いたのでしょうか」
その名に重兼が反応する。
「どうですかな」
永重はしばし考え――答えた。
「退いたのではない」
二人が見る。
「戦う理由がなくなっただけだ」
静かな声だった。
「……あの男は、無駄な戦はせぬ」
少し間を置く。
「こちらが止まれば、向こうも止まる」
重兼が腕を組む。
「なるほど」
伊織が空を見上げた。
「では……勝ち負けは」
その問いは、宙に浮いた。
永重はしばらく黙っていたが――やがて言った。
「決まっていない」
二人が驚いた顔をする。
永重は続けた。
「我らは通し、あの男は断った」
海を見る。
「どちらも完全ではない」
そして、小さく笑った。
「……だから、終わったのだろう」
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数日後。
壱岐の港から帰還の船が出始めた。
朝鮮から戻る兵。
傷を負った者。
疲れ果てた者。
そして――無言の者。
半佐が報告する。
「帰還兵が増えております」
重兼が言う。
「戦をしてきた顔ですな」
伊織は低く呟いた。
「……我らとは違う」
永重はその様子を見ていた。
確かに壱岐も戦場だった。
だが――血の匂いは薄い。
ここは"流れ"を守る場所だったからだ。
その違いを、永重ははっきりと感じていた。
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ある夕刻。
一隻の船が静かに港へ入ってきた。
軍船ではない。
小さな早船。
使者である。
永重のもとへ文が届けられた。
差出は――対馬。
開く。
短い文だった。
「海は静まる。
だが終わったわけではない」
それだけ。
差出人の名はない。
だが――
永重は、誰の言葉か理解した。
小さく笑う。
「……そうだろうな」
文を閉じた。
海を見る。
そこには何もない。
だが確かに――あの男の気配は、まだ消えていなかった。
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その夜。
永勝が言った。
「戻る支度をせよ」
永重は頷いた。
「は」
少し間を置いて、永勝が続ける。
「よくやった」
短い言葉だった。
だが――それで十分だった。
永重は静かに頭を下げた。
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翌朝。
壱岐の港。
藤懸隊は帰国の船に乗り込んでいた。
重兼が笑う。
「長いようであっという間でしたな」
伊織が頷く。
「ですが、得るものは大きかったです」
半佐も言う。
「は。次はもっと――」
言いかけて、止まる。
"次"という言葉が、妙に重かった。
永重は舳先に立った。
名護屋へ。
そしてその先へ。
海の向こう。
まだ見ぬ戦が、確かに続いている。
「……終わっていない」
小さく呟く。
風が吹く。
船がゆっくりと動き出す。
壱岐の島が次第に遠ざかっていく。
兵站の島。
流れの要。
そして――
一人の将と出会い、戦い方を知った場所。
永重は静かに目を閉じた。
文禄の役――終。
だが。
戦はまだ、終わっていなかった。
次回、通算100話目で第四章の最後になります。
計算したかのようなキリ番になりましたが、たまたまです(笑)。




