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戸侯記  作者: まさごろう


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3-2 美濃道中

左手には草が深く生い茂り、川面は見えないが姉川の流れがある。

右手には田畑が広がり、その向こうに点々と杉林が影を落としていた。

川土手の道は静まり返り、ただ風に草の擦れる音のみが耳に触れていた。


その静寂を破るように、蹄の音が聞こえた。

右前方、杉林の奥――その姿は見えない。


「全員、茂みに入れ!」


兵庫助の鋭い声が走る。

叫ぶや否や踵を返し、前方へと駆け出した。


三つの輿のもとへ至ると、兵庫助は膝をつき声を低めて告げる。


「奥方様方、申し訳ござらぬ。

輿よりお降り頂き、しばし茂みに身をお隠しくだされ」


そう言うとほどなく輿の扉が開いた。


ねねの方となかは互いに手を取り合い、お(とも)の方は側付きに支えられて、ひと言も発せず茂みへと身を移す。

輿を担いでいた六人の足軽も、輿と一緒に同じく茂みに入った。


性慶(しょうけい)と泉慶、その他の足軽も手に持った槍を畳み、茂みに身を潜める。


それを見届けた兵庫助は声を張り、

「長松、松丸! お前らも茂みに身を潜めよ!」


その言葉と同時に、兵庫助は馬に飛び乗る。


「如何なされるおつもりか!?」

長松が叫んだ。


兵庫助は振り返り、鋭く告げる。

「馬がおる。茂みに潜むことは叶わぬ。

儂は伊吹の町へ走る。

性慶殿、儂が戻らねば折を見て柏原宿へ向かってくだされ!!」


言い終わるや否や、兵庫助はムチを打ち馬を駆けさせた。



「隠れるぞ!!」


兵庫助が馬を駆け出すと同時に、長松に腕を引かれ松丸もまた茂みへと身を伏せた。


草の隙間から外を窺う。


「見えるか」

長松が低く問う。


「いや……まだ何も見えぬ」


松丸は息を殺し、杉林の方角から目を離さぬ。


向こうには伊吹の町がある。

遠目に見る限り町に喧噪も無く封鎖されていなかった。

という事はいずれの軍勢も来ていなかった事になる。

もちろん、敵の先遣隊の可能性はあるが…



やがて、蹄の音がはっきりと近づいてきた。

されど、こちらへ向かって来る気配ではない。


「旗印は見えるか?」

長松の声に、周囲の足軽たちも息を詰める。


すると、

その姿が見えた。


徒歩の兵はなく、すべて騎馬。

数はおよそ二十。


掲げられた旗印は――

丸に抱茗荷(だきみょうが)の紋。


「あれは……阿閉のご家紋だ」


阿閉貞征。

かつては藤懸家と同じく羽柴筑前守の与力であったが、越前一向一揆の折の論功を巡って関係がこじれ、のちに信長の旗本となり、南近江に在った武将である。


「お味方…とは言い切れぬな」

長松が呟いた。


松丸は伏せていた槍を置き、中腰のまま茂みを進み、性慶のもとへ寄った。


「騎馬武者は通り過ぎる様子にございます。

家紋も確かに見届けましたが、敵味方の判断はつきませぬ。

兵庫助様のお言いつけ通り、過ぎ去りしのち急ぎ柏原へ向かうべきかと」


「心得た。奥方様方も、それでよろしゅうございましょうな」


三人は静かにうなずいた。


「松丸殿、頼み申すぞ」

思いもかけず、ねねから直接声が掛けられた。


「ははっ、承知仕りましてございます」

松丸は中腰から深く頭を垂れ、殿を務める長松のもとへ戻った。


やがて蹄の音は遠ざかり、しばしの時が流れる。


「皆の者、参ろう」


性慶の声を合図に、一行は草むらを出た。

奥方たちを再び輿に乗せ、柏原へ向け、足を速めるのであった。



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柏原宿。

近江国坂田郡に置かれた、中山道六十番目の宿場である。


阿閉家の兵と道中すれ違ったのち、松丸ら一行はこの柏原宿へと入った。

途中、幾度となく物見を立て、宿場に入る直前にも念入りに様子を探らせたため、宿場の町並みが見えたころには、すでに暮れ六つ(18時)を回っていた。


柏原宿には旅籠が二十余軒あったが、一行は宿を避け、宿場外れにほど近い円乗寺に身を寄せていた。


寺に入ってしばし、張りつめていた身を休めていると、表の方から馬の蹄の音が響いてきた。

お堂の板間で休んでいた護衛たちは、音を聞くや否や床に置いてあった槍を静かに手に取り、息を潜める。


長松が正面へ通じる扉を、きしませぬようそっと押し開けた。

闇の向こうを窺った、その次の瞬間――


「――兵庫助様だ!」


その一声に、張り詰めていた空気がふっと緩み、皆が抑えていた息を一斉に吐き出した。







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