3-3 美濃道中【長浜落城】
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2026.8.6 文章構成含め、全体的に改稿しました。
「ふぅ……生き返ったわ」
兵庫助は湯漬けを食べ終えると茶碗をそっと膳へ戻した。
箸を揃え、ゆるりと肩を落とす。
大きく息を吐く。
冷え切っていた五臓六腑へ温もりが染み渡り、ようやく人心地がついたのであろう。
頬に戻ったわずかな血の気がそれを物語っていた。
一行と別れて、兵庫助はただ姿を隠していたわけではなかった。
一定の距離を保ちながら後を追い、街道筋を見張り村々の様子を探り、長浜から流れてくる人馬の動きを見極めていた。
いわば一人殿だった。
敵味方がはっきりとしない中、ひとたび異変があれば即座に身を投げ出せるようにその備えを怠らなかったのである。
その兵庫助が静かに口を開いた。
「さて……皆に伝えることがある」
堂内には、奥方衆とその側付きの者を除く二十一名がそれぞれ疲れた身を休めていた。
柱にもたれかかる者。
床へ横になったまま目を閉じる者。
膝を抱えて黙り込む者。
兵庫助の声が響くと誰もが顔を上げた。
横になっていた者も身を起こし、堂内の空気がゆるやかに張りつめてゆく。
兵庫助は一人ひとりの顔を見回した。
そして静かに告げた。
「長浜は――落ちた」
その一言で、場が凍りついた。
誰かが息を呑み、誰かが顔色を変える。
押し殺した声があちこちで漏れ、小さなざわめきとなって堂内を満たしていく。
「静まれ」
兵庫助の一喝が太い梁へぶつかり、堂内に鋭く返った。
ざわめきはぴたりと止んだ。
兵庫助は白湯を一口含んで乾いた喉を潤した。
そして続けた。
「よう聞け。長浜は落ちた。
――されど、戦は起きておらぬ」
皆の視線が兵庫助へ集まる。
「皆の家々も無事じゃ」
その言葉に、張りつめていた空気がわずかに緩んだ。
安堵とも拍子抜けともつかぬ息がいくつも漏れる。
兵庫助は更に続けた。
「攻め手は阿閉貞征。
長浜城へ兵を寄せたが、三之丞様は争うことなく城を明け渡された」
今日、七尾山の麓で見かけた騎馬武者たち。
土煙を巻き上げながら街道を急いでいたあの一団こそ阿閉勢であったのである。
兵庫助が言葉を切ると、堂内は水を打ったように静まり返った。
誰も口を開けない。
戦わずして城が落ちる。
その現実が容易には胸へ落ちなかった。
やがて長松がおずおずと口を開く。
「……開城、ですか」
責める響きはない。
ただ、どうしても信じたくないという思いがその声にはあった。
「左様」
兵庫助は短くうなずく。
「兵を集めればひと戦は出来たであろう。
されど三之丞様は……かねて申されていた通り、民と兵を護ることを第一とされた」
言葉は静かだった。
されど、その重みは誰の胸にも等しく落ちた。
長浜は湖岸を押さえる要衝である。
守るには広く、攻められれば城下はたちまち戦場となる。
火は町へ移り、人は逃げ惑い、兵も民も等しく命を落とす。
その先を見据えた末の決断であったことは、ここにいる誰もが理解していた。
「阿閉はどれほどの勢でございました」
年嵩の足軽が問いかける。
「明らかではない。されど先陣だけでも五百は下るまい。
後詰めまで加われば抗えば相当な血が流れたはずじゃ」
再び沈黙。
誰もが自分の家族を思い仲間を思い、城下の景色を思い浮かべていた。
その静寂を破るように小さな声が漏れる。
「……では、我らはどうなるのでしょう」
独り言にも似たその問いは、堂内に重く落ちた。
兵庫助は膝の上で拳を握り締める。
爪が食い込むほど力を込めながら、ゆっくりと皆を見渡した。
「長浜が落ちた以上、近江はもはや安穏ではあるまい。
我らの行方を知られれば追手が差し向けられることも十分にあり得る」
そこで言葉を切る。
兵庫助の視線は堂の奥へ向いた。
灯明の明かりも届かぬ暗がり。
そこには奥方たちが身を寄せ合い、静かに休んでいる。
その姿を見つめる兵庫助の眼差しは硬かった。
「今宵は動かぬ」
低く、それでいて揺るがぬ声。
「夜が明ければ進むべき道を定める」
命令ではない。
皆の心を落ち着かせるような、静かな言葉であった。
誰一人異を唱えない。
ただ黙ってうなずく。
堂の外では夜風が軒を鳴らした。
灯明の火が小さく揺れ、その影が柱を這う。
兵庫助はその揺らぐ炎を見つめたまま思う。
――何としてもお守りせねばならぬ。
その思いだけが胸の内で静かに燃えていた。
「奥方様方にもお伝えしてくる」
そう言って兵庫助は立ち上がる。
軋む床板を踏みしめながら堂の奥へと歩みを進めた。
その背を見送る者たちは誰も声をかけなかった。
長浜落城。
その事実は、刃を振るうことなく一行の行く末を静かに縛り始めていたのである。




