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【御礼10,000PV到達】戸侯記  作者: 和音


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18-2 忍城【柊と伊織】

二作目、『氷室の野望(仮)』の連載を始めました。


この戸侯記とは全く異なる毛色の作品ですが、是非ご一読よろしくお願いします。


文月(ふみづき)(7月)の十六日――


忍城(おしじょう)が開城した。



小田原(おだわら)城が降伏したことは伝わっていたものの、城代(じょうだい)・成田泰季(やすすえ)の急死により総大将となった成田長親(ながちか)を筆頭に徹底抗戦の構えを崩していなかった。


しかし、小田原城へ詰めていた城主・成田氏長(うじなが)が秀吉の求めに応じて城兵に降伏を勧めたことにより、遂に忍城は開城した。

成田長親の右腕として、忍城の佐間口(さまぐち)を守ってきた正木丹波守(たんばのかみ)利英(としひで)も長親の下知(げち)に従い大人しく降参した。


そして(ともの)伊織(いおり)もまた、その下知に従った一人であった。



正木利英は、自らの部屋に伊織を呼んだ。


「――これまでよう戦ってくれた」

利英はそう言うと、伊織に濁酒(にごりざけ)を満たした(さかずき)を差し出した。


「はっ」

伊織はその盃を両手で受け取ると、一気に飲み干した。


その様子を見て利英はふっと笑うと

「儂はこれまでじゃ」

そう言って自らの盃を呷った。


そして続けて言った。

「……儂は出家(しゅっけ)する」


「丹波守様……」

伊織は目を見開いてまじまじと利英を見た。


「先程妻子は会津(あいづ)の親類の元へやった。もはや会うこともなかろう」

そう言うと自ら再び盃へ濁酒を注いだのち、一気に(あお)った。


「伊織」

「は」

「そなたは……どうする?」

「は……」


そう言うと押し黙った伊織を見て、利英がまたもふっと笑った。

そして(ふところ)から一通の書を伊織の前に出した。


「これは……?」

月心(げっしん)とやらからだ。

夕霧(ゆうぎり)のところの者と言えばわかる、と言っていた」


それを聞くと、伊織はすぐさま書状を開き読み始めた。

そこには、

――夕霧が真田本陣へ奇襲を仕掛けたこと

――奇襲は失敗するも無事であること

――主・永重(ながしげ)もまた伊織の身を案じていること

が記されていた。


それを見た伊織は震えが止まらなかった。

まさか夕霧が単身で真田本陣へ乗り込んでいたとは……


「月心は、片腕を失ったらしい」

利英が言うと、伊織はハッと顔を上げた。


「それほど真田の忍びは腕が立ったのであろう。

よくぞ生きて戻ったものよ」

そう言うと再び盃を呷った。


「伊織」

利英は手に持っていた盃を置くと、伊織の顔を見据(みす)えて言った。

「そなた、恨みを捨てられるか」

続ける。


「そなたはいまだ儂の家臣だ。

そして今日よりのちは違う。

だがな、そなたが恨みを捨てられぬなら、このまま夕霧の主……永重殿の下へはやれん」


そう言うと一拍置き


「恨みは捨てよ、伊織」

強い眼差(まなざ)しで利英が伊織を見て言った。




-------------------------------------




忍城は、静けさに包まれていた。


水は引き、泥は乾きかけている。

だが、胸の奥に沈んだものはまだ重いままだった。


正木丹波守利英の言葉は、伊織の胸に深く残っていた。


「恨みは捨てよ、伊織」


その声は命令ではない。

願いでもない——遺言のようだった。


利英はまもなく剃髪(ていはつ)し、武を捨てるという。

忍城を支えた柱が静かに退(しりぞ)く。


伊織は一人、城下を歩いた。


焼け跡。

崩れた家。

そして、(ひいらぎ)荼毘(だび)に伏した小さな土。


しゃがみ込み(てのひら)を土に当てる。

冷たかった。


出来るのか。

六文銭(ろくもんせん)

戸隠流(とがくしりゅう)

あの刃。あの夜。


考えただけで拳が震える。

だが、同時に思い出す。


仇討(かたきう)ちではない」

あの夜、灯明の下で夕霧に向けて言った自らの言葉。


そして夕霧の声。

——守ろうとした想いは消えませぬ。


伊織は、ゆっくりと目を閉じた。


夕霧より伝え聞いた、柊の最後の言葉。

「……もう、ひとり、じゃないよね」


あの小さな手の温もりは恨みではなかったはず。

守りたい、という願いだった。


長く、長く息を吐く。

拳の力が、抜ける。


「……柊」


空を見上げる。

雲は流れ、戦の煙は消えつつある。


やがて伊織は立ち上がった。


忍城は開城した。

北条は滅びる。世は変わる。


夕霧は生きている。

命を懸けて、それでも生きている。

そしてその主、藤懸(ふじかけ)永重。


足軽大将に過ぎぬと聞く。

だが、忍城を落とさせぬために忍びを送り、敵味方を越えて命を案じる男。


伊織はそのまま城を出た。

水の引いた道を、ただまっすぐに歩いた。


忍城の土塁(どるい)を振り返ることはなかった。




-------------------------------------




数日後。

小田原の陣。


夕霧は、月心の包帯を替えていた。

左腕を失ったその姿は、以前より静かに見える。


「……来るぞ」

月心がぽつりと言った。


夕霧が顔を上げる。


陣幕の外に足音がした。


その声を聞いた瞬間、夕霧の胸が強く鳴った。


幕が開く。


泥にまみれた旅装。

だが背は伸び、目は澄んでいる。


伊織は一歩入ると月心に一礼し、

そして夕霧を見た。


しばし、無言。

言葉はいらなかった。


「月心殿、御身(おんみ)……」

伊織の視線が左腕に落ちる。


「安いものだ」

月心は淡々と言う。

「右が残った」


沈黙。


やがて伊織が口を開いた。

「恨みは捨て申した」


夕霧の指が、わずかに震える。


伊織は一歩、夕霧の前に進んだ。


「永重様にお目通り願いたい」


夕霧の瞳が揺れる。


「我が主に……?」

「うむ」

伊織は続けて言った。

「この身はもはや浪人にござる。

だが、守るための剣ならば振るえる」


一拍。


「柊のためにも」


その名に、二人の間の空気が震えた。


夕霧は、深く頭を下げた。

「……主は、お会いになるでしょう」



外では風が吹いていた。


忍城で灯った火は、

まだ消えていなかった。


それは、恨みの火ではない。

守るための火。


柊が残した、

小さく、しかし確かな灯だった。


そしてその火はいま、新たな主のもとへ向かおうとしていた。





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