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【御礼60,000PV到達】戸侯記  作者: 和音
■第三章■ ~小田原征伐~

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72/253

18-1 忍城【暗闘】

【御礼】

戸侯記が連載開始から43日にして10,000PVに到達しました。

深く御礼申し上げます


ただの時間潰し、暇つぶし。

それでも「読んでいただける」事は励みになります。

ご評価も頂けると作者喜びます(笑)。

お目汚しもあろうかと思いますが、引き続きを読んでいただけると幸いです。

よろしくお願いします。


【編集】

2026.8.24 文章構成含め、全体的に改稿しました。


「……鉢形も舘林も、八王子も落ちた」

月心は淡々と言った。

その声には、戦況を伝える者にありがちな昂りも嘆きもなかった。

ただ、事実だけがあった。

「小田原ももうすぐ開く。そなたの役目は終わりだ」


夕霧は答えなかった。

答えられなかった、という方が近い。


忍城の外では、未だに水が鳴っている。

幾度も堤を破り、幾人もの兵を呑み込んだ水である。

それでも城は落ちなかった。

だが――戦そのものが、もう終わろうとしている。


「ここは簡単には落ちぬ」

月心が言った。

「だが、忍城の意味はもはや薄くなった」

「……はっ」

ようやく夕霧は声を絞り出した。


「色々な思いはあろう」

月心の目が夕霧を捉える。

「だが、殿の御命令だ」

「承知いたしました」

深く頭を下げる。

それ以上、夕霧は何も言わなかった。



文月(7月)のはじめ――


忍城は、なおも落ちなかった。


豊臣の大軍は、城を水に沈めるため長大な堤を築いた。

だが、水は人の思うようには流れなかった。

堤を築けば破られる。

破られた水は逆に豊臣軍の陣へと押し寄せ、兵を泥の中へ引きずり込んだ。


死体が浮いた。

馬が倒れた。

重い甲冑を着た兵は、一度膝まで沈めば自力で立ち上がることさえ難しかった。


浅野弾正少弼長政、上杉参議景勝、前田権大納言利家らが加わり、寄せ手の圧力はさらに増した。

それでも、忍城は耐えた。


水攻めによる本丸の水没を諦めた豊臣軍は、ついに力攻めへと方針を変えた。


だが、そこにも泥があった。

水の抜けた城の周囲は一面の泥濘と化していた。

馬の蹄が沈む。

人の足が沈む。

櫓を運ぶことも兵を並べることもできない。

攻める側が、自ら築いた水によって足場を失っていた。


寄せ手は二万三千を越える。

対する忍城は民を含めても三千ほど。

それでも死者の数は逆であった。

豊臣軍には二千を越える犠牲が出ているのに対し、成田側の死者は僅かだった。


数の戦ではなかった。

忍城そのものが豊臣の大軍を喰らい続けていた。


その日の夜。

忍城の空は低かった。

雲が垂れ込め月は見えない。

水は退ききらず、泥は乾かない。


戦は終わりへ向かっている。

それなのに、どこかでまだ燻っている。

火の消えかけた炭のように。


夕霧は、伴伊織の前に跪いていた。

昼間に聞いた月心の声が耳の奥に残っている。

――そなたの役目は終わりだ。

「……出るのか」

伊織が問うた。

「はい」

短い返事だった。


それ以上を言えば、声が震える気がした。

だから言わなかった。

言えなかった。

「主命にございます」

それだけ告げ、夕霧は深く頭を下げた。


長い沈黙が落ちた。


やがて伊織が言った。

「そなたは――生きろ」


夕霧の喉が詰まった。

胸の奥に、何かが刺さったようだった。

「……はい」


それしか言えない。

伊織は、もう何も尋ねなかった。

なぜ出るのか。

どこへ行くのか。

誰の命なのか。

すべて分かっているようだった。


「生きろ」

もう一度、伊織が言った。

夕霧は顔を上げなかった。

深く、深く頭を下げる。

それから立ち上がった。


障子を開ける。

夜気が頬を撫でた。

夕霧は一度だけ、部屋の中を振り返りかけた。

だが、やめた。


振り返れば、足が止まる。

足が止まれば、もう出られない。

だから前だけを見た。

柊(ひいらぎ)が眠る土を、胸の奥に抱いたまま。


夕霧は忍城を抜けた。




--------------------------




夜。


真田本陣。

六文銭の旗が湿った風に揺れていた。

本陣は忍城の北方。

水を避けた高地に置かれている。


見張りは多い。

だが、戦が思うように進まぬことで兵の間には僅かな緩みが生じていた。

それは戦場ではほんの僅かな隙だった。

そして忍びにとっては、それで十分だった。


夕霧は泥の中に身を伏せた。

冷たい。

水気を含んだ土が衣の内側まで染みてくる。

だが、気にしない。


風が鳴る。

その音に合わせて身体を動かす。


一歩。

止まる。

また一歩。

止まる。


忍城へ入った時と同じだった。

闇に身を隠し、敵の目を抜ける。

だが、あの時とは違う。

胸の中にあるものが違っていた。


――柊(ひいらぎ)

その名を思っただけで胸が冷えた。


柊を刺した刃。

あの鎖鎌。

戸隠流。

そして、それを抱える六文銭。


夕霧は歯を食いしばった。

本陣の中央に一際大きな幕舎がある。


人の気配。

二つ。

いや――三つ。


夕霧は泥の上に腹這いになり、耳を澄ました。

風に乗って声が聞こえる。

「堤を三度も破られるとは……」

「内に通じる者がいるやもしれぬ」


夕霧の目が細くなった。

違う。

内通ではない。

水は人の命令を聞かない。

流れたいところへ流れる。

低いところへ落ちる。

ただ、それだけだ。


夕霧は再び身体を起こした。

目指す場所は一つ。

真田安房守昌幸の首。


幕舎の裏へ回り込む。

あと少し。

その時だった。


「遅い」

低い声がした。


夕霧の足が止まる。

振り向く。

いつからいたのか。

四方を囲まれていた。


黒装束。

泥と闇が人の形を取ったように見える。


「忍城の女か」


鎖が鳴った。

しゃらり、と。

その音だけが、やけに鮮明だった。


夕霧は短刀を抜いた。

答えない。

相手も答えを求めてはいなかった。


鎖が走った。

地を這い、蛇のように足へ絡みつこうとする。


夕霧は跳んだ。

鎖が足下を抜ける。

着地した瞬間、背後に殺気。


身体を捻る。

刃が肩を掠めた。

熱い。

だが、傷を確かめる暇はない。


三人目が来る。

前から。

二人目が退路を塞ぐ。

息が合っていた。

一人を相手にしているのではない。

三人で一つの獣のように動いている。


――強い


夕霧は受けた。

刃を流す。

一歩退く。

また受ける。

いなす。

退く。

だが、退けば退くほど泥に足を取られた。


鎖が飛んだ。

避けきれない。

腕に絡みつく。

次の瞬間、強く引かれた。


身体が崩れる。

膝が泥に沈んだ。

目の前で刃が振り上げられた。

避けられない。

そう思った、その時――


夜気を裂く音がした。

風が鳴った。

黒装束の一人が横へ吹き飛んだ。


「下がれ、夕霧」

聞き覚えのある声だった。

振り向く。

月心が立っていた。


白い狩衣は泥に汚れている。

だが、その眼だけは静かだった。


「……なぜ」

夕霧が呟く。


月心は答えない。

刀を握る。

一歩、踏み込んだ。

刃が閃く。

黒装束の男が退いた。

二人目が鎖を振る。


月心は前へ出た。

夕霧の前に身体を置く。


鎖が飛ぶ。

月心の刀がそれを断った。

火花が散る。

だが、一つ斬っただけでは終わらない。


別の鎖が横から伸びた。

月心はそれを掴んだ。

腕に巻きつく鎖を力任せに引く。

敵の身体が前へ崩れた。


その瞬間だった。


もう一人が地を這うようにして月心の足元へ滑り込んだ。

低い。

速い。

夕霧が声を上げるより早く、刃が走った。


鈍い音がした。

何かが地面に落ちる。

夕霧には、それが何なのか分からなかった。


月心の姿を見た。

そして――気づいた。

左腕がない。

肘から先が泥の上に落ちていた。


「――っ」

声にならなかった。


血が噴き出した。

夜の闇に、赤が散る。


月心の顔から血の気が引いた。

それでも、膝はつかなかった。

眉が僅かに動いただけだった。


「退け」

声は低かった。

いつもの月心の声だった。


月心は右手だけで刀を握り直した。

踏み込む。

一閃。


黒装束の首が落ちた。

残る二人が怯んだ。

「囲め!」

一人が叫ぶ。


月心は止まらない。

左腕を失ったことなど今は存在しないかのようだった。

右手一本。

ただ、それだけ。


刀が走る。

二人目の喉が裂けた。

最後の一人が後ずさる。

目が合った。

ほんの一瞬。

そして、その忍は闇の向こうへ消えた。


追わなかった。

追う必要がなかった。


静寂が戻る。

残ったのは、泥の匂いと血の匂い。


その時だった。

月心の身体が僅かに揺れた。


夕霧が駆け寄る。

「月心様!」

身体を支える。

重かった。

はじめて月心の身体がひどく重く感じられた。


「……申し訳ございません」

夕霧の声が震える。


月心は答えなかった。

ただ一度、息を吐いた。

「忍び込むなら」

その声には、いつもの厳しさがあった。

「殺す覚悟と死ぬ覚悟を持て」

夕霧を見る。

「力を揃えてから行け」


夕霧は唇を噛んだ。

返す言葉がない。

血が止まらない。

夕霧はすぐに帯を解いた。


月心の左腕の付け根を強く縛る。

一度。

さらに一度。

力を込める。


月心の眉が僅かに動いた。

「痛みますか」

「左でよかった」

夕霧が顔を上げる。

月心が、ほんの少し笑った。

「剣は右だ」

血に濡れた顔で、それだけを言った。


遠くで声が上がった。

先ほどの騒ぎに気づいたのだ。

火がいくつか灯る。

こちらへ近づいてくる。


「行くぞ」

月心が言った。

「ですが――」

「ここで死ねば」

月心は夕霧を見る。

「柊に顔向けできぬであろう」


その名を聞いた瞬間、夕霧の胸が締めつけられた。


柊。

土の下に眠る、あの子。

もう声を聞くこともできない。

笑顔を見ることもできない。

それでも――

その子が自分に何を望むかだけは分かる。


「……はい」

夕霧は月心の身体を支えた。

二人は闇の中へ入っていった。


背後では、六文銭の旗が湿った風に揺れていた。



夜明け前。

川縁。

東の空がほんの僅かに白み始めていた。


月心は膝をついた。

顔色は悪い。

失った血が多すぎる。

夕霧は傷口を押さえ続けていた。


「……夕霧」

「はい」

「役目は終わりだ」

夕霧の手が止まった。

忍城で聞いた言葉と同じだった。

けれど、今度は違って聞こえた。


「忍城も」

月心が川面を見る。

「真田も」

一度、息を継ぐ。

「北条も……まもなく終わる」


遠く、小田原の方角。

空の端が薄く明るくなっている。


「戦が終われば、新しい争いが始まる」

月心は夕霧を見た。

「その時、そなたは何を守る」


夕霧は答えなかった。

答えられなかった。


これまでなら、すぐに言えた。

命令されたから。

守るべき人がいたから。

敵がいたから。


だが、今は違う。

戦が終わる。

敵も味方も変わる。

昨日までの正しさが、明日も正しいとは限らない。


それでも――

胸の中には消えていないものがあった。


柊の温もり。

伊織の声。

永重から託された言葉。

そして、今。

自分のために左腕を失った月心。


夕霧はゆっくり息を吸った。

「……生きます」

月心の眼が僅かに細くなった。

「そうか」

それだけだった。

褒めもしない。

問い返しもしない。

ただ、その一言を受け取った。


風が吹いた。

川面を渡った風が、二人の間を抜けていく。

血の匂いをさらっていく。

東の空が少しずつ明るくなっていた。


夕霧は思った。

命を懸けるということは、自分が誰かを守ることだけではない。

誰かに命を託されること。

誰かに生きろと言われること。

そして――

その命を、次へ持っていくことなのだ。


柊の死を無駄にしないために。

伊織の言葉を裏切らないために。

永重の命を果たすために。

そして、月心が失った左腕に報いるために。


夕霧は立ち上がった。


夜が明ける。

戦の終わりが、近づいていた。




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