6-16 丹波亀山【夕霧】
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2026.8.18 文章構成含め、全体的に改稿しました。
三人が永重の家へ戻ると、門前に人影が二つあった。
いずれも笠を深く被っている。
顔は見えない。
だが、ただの客ではないことだけは、門を遠くから眺めただけでも知れた。
立ち方が違う。
身じろぎ一つせず、それでいて周囲の気配を絶えず拾っている。
永重は歩みを緩めなかった。
門まで来ると、ほんのわずかに目を動かした。
それだけだった。
二人の笠の男がほとんど同時に頭を下げる。
言葉はない。
永重はそのまま門をくぐった。
重兼と半佐も続く。
二人の男も音を立てずに後へ従った。
玄関へは向かわなかった。
永重たちは庭先へ回った。
昼の名残を帯びた風が庭木の葉をかすかに揺らしている。
家の中は静まり返っていた。
永重は縁側に腰を下ろした。
その左右に重兼と半佐が控える。
向かいには、笠を被った二人が片膝をついた。
重兼は鯉口こそ切っていない。
だが、左手は刀の柄に添えられている。
何かあればいつでも抜ける位置だった。
永重はそれを見ていた。
しかし、何も言わない。
やがて庭に風が一筋、通り抜けた。
「早かったな」
永重が口を開いた。
二人の男は黙っている。
「既に察しておろうが、今この家には誰も居らぬ。申せ」
その声に促されるように、片方の男が笠へ手を掛けた。
ゆっくりと外す。
現れたのは、日に焼けた男の顔だった。
男は笠を脇へ置き、両手をついて深く頭を下げる。
「改めまして……月心でございます」
それから、隣の者へ目を向けた。
「こちらは……」
促され、もう一人も笠を取った。
白い顔が現れる。
女だった。
女もまた両手をつき、静かに頭を下げる。
「夕霧と申します」
声が、庭の静けさに溶けた。
その声音は思いのほか柔らかかった。
女がわずかに顔を上げる。
その瞬間だった。
「――くのいちか」
重兼の声が低く落ちた。
女は何も答えなかった。
重兼を見ることもなく、静かに目を伏せている。
永重はその顔を見た。
顔立ちははっきりしていた。
美しい。
だが、それだけではない。
表情が読めない。
何を考えているのか、その目からは何一つ掴めなかった。
その隣では、半佐が口を半ば開いたまま女を見ている。
「半佐」
永重が呼ぶと、半佐はびくりと肩を揺らした。
「……はっ」
慌てて姿勢を正す。
重兼が小さく息を吐いた。
「頼明殿は何と?」
永重が問う。
月心が答えた。
「二つのみ、言付かっております」
「申せ」
「一つは、ご支援への深い御礼」
そこで月心は一度言葉を切った。
「もう一つは――これより永重様に仕え、戻ることは不要、とのことです」
庭に沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは重兼だった。
「……伊賀者が、一人に仕えるのか?」
声には明らかな警戒があった。
伊賀と甲賀。
同じ忍びとはいえ、その在り方は大きく異なる。
甲賀は特定の主君に仕える。
一方、伊賀は複数の依頼を受け、契約によって働く者が多い。
仕える相手を一人に定めることを、重兼は容易には信じられなかった。
月心が答えようとした。
だが、その前に夕霧が口を開いた。
「……我らは、出が伊賀であるのみでございます」
静かな声だった。
「伊賀者ではございません」
重兼の目が細くなる。
夕霧はそれ以上何も言わなかった。
永重は二人をしばらく見つめた。
やがて、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「……あいわかった」
あまりにあっさりした言葉だった。
重兼が永重を見る。
「そなたらには、きちんと扶持を与えて雇おう」
月心の眉がわずかに動いた。
「条件は半佐と同様だ」
「……」
「励んでくれ」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
重兼でさえ、何かを言おうとして口を閉じる。
半佐は目を丸くしている。
そして、当の二人も同じだった。
忍びというものは、表立って尊ばれる存在ではない。
必要とされる。
恐れられる。
利用される。
だが、それと敬われることは別だった。
月心は顔を伏せたまましばらく動かなかった。
やがて、低い声が漏れる。
「……まことで?」
「嘘を申してどうする」
永重は何でもないことのように答えた。
夕霧は顔を上げなかった。
膝の上で組んだ手だけが、わずかに強く握られている。
重兼がたまらず口を挟んだ。
「若殿。さすがにそれは……」
永重が重兼を見る。
「何だ」
「忍びでございますぞ」
「知っている」
「それも、伊賀の者です」
「それも聞いた」
重兼は言葉に詰まった。
永重は少しだけ笑った。
「重兼が警戒する気持ちはわかる」
そう言ってから、向かいの二人へ目を戻す。
「だがな」
声が少しだけ低くなった。
「表向き、この月心と夕霧は側付きだ」
月心が顔を上げる。
「そうであれば扶持を与えるのは普通のことだろう?」
重兼は黙った。
永重は続けた。
「私はまだ力不足だ」
その言葉に半佐が目を瞬く。
「皆に助けてもらうのではなく、教わらねばならぬ」
永重は自分の手を見た。
まだ若い手だった。
刀を握ることもできる。
筆を持つこともできる。
だがこの先、人の上に立つということがどういうことなのか。
それだけはまだ分かっていない。
「それに――」
永重は二人を見る。
「命をかけてもらうならば、なおさらだ」
月心の顔から、かすかな笑みが消えた。
「それを思えば報いるのは当然のことだ」
その言葉のあと、誰も口を開かなかった。
庭の木々が風に鳴る。
葉擦れの音だけが妙に大きく聞こえた。
月心はまだ信じ切れない顔をしていた。
こんな話は聞いたことがない。
忍びに扶持を与える。
それだけならば、まだ分かる。
だが、自分たちの命を預かる者が、その命に値する報いを当然だと言う。
それが理解できなかった。
隣を見る。
夕霧は膝の上で手を組んだまま、永重を見ていた。
その目にもまだ警戒はある。
だが、先ほどまでとは何かが違っていた。
永重が言った。
「まぁよい」
そして、少し肩の力を抜く。
「そなたらが忍びであることは、ここに居る三人と次郎丸しか知らぬ」
「……はい」
「普段は私の側に仕えよ」
二人が頭を下げる。
「そして――」
永重は一拍置いた。
「そなたらも私を見極めよ」
月心の眉が動いた。
「……見極めよ、とは?」
問い返す声には、初めて明らかな戸惑いが滲んだ。
永重は答えた。
「私は主としてそなたらを試す」
その目が二人をまっすぐ捉える。
「そなたらは忍びとして、私が仕えるに足る男かを試せ」
重兼が、小さく息を呑んだ。
そんなことを言う主がいるのか。
主が家臣を試す。
それは分かる。
だが、自分自身を試させる主など聞いたことがない。
永重は気づいていないのか。
あるいは、気づいた上で言っているのか。
その顔からは判断できなかった。
「夕霧」
名を呼ばれ、女の肩がわずかに揺れた。
「そなたもだ」
夕霧は一瞬だけ目を瞬いた。
そして、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
先ほどまでの声とは違っていた。
静かだ。
だが、芯がある。
「その御覚悟――しかと見極めさせていただきます」
永重は頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
半佐は、ようやく我に返った。
先ほどから女に見惚れていたことを思い出したのか、慌てて口を閉じる。
背筋を伸ばし前を向く。
重兼はなお警戒を解いてはいない。
それでも、左手に添えていた刀の柄からほんのわずかに指の力が抜けていた。
風が縁側を吹き抜けた。
庭木が一斉にざわめく。
永重は空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い青が覗いている。
その空を見ながら、静かに息を吐いた。
胸の奥に何かが沈んでいる。
重い。
だが、不快ではなかった。
それが何なのか、永重にはまだ分からない。
ただ――これから自分は、人の命を預かっていくのだ。
そのことだけははっきりと感じていた。
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月心と夕霧には、それぞれ一室が与えられた。
二人は荷をほどくと、月心の部屋に集まった。
襖が閉じられる。
外の気配が遠くなる。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
やがて月心がぽつりと言った。
「――変わったお方だ」
夕霧は答えない。
月心は畳に手をつき、天井を見上げた。
「御頭の言われた通りだ」
「……」
「甘いお方だ」
夕霧がようやく顔を上げた。
「されど」
月心を見る。
「甘いだけのお方ではございません」
月心が苦笑した。
「そう思うか」
「はい」
夕霧の声には迷いがなかった。
「自らを試せ、と申される主君など聞いたことがございません」
「俺もだ」
「それに――」
夕霧は一度、言葉を探した。
「命を賭す覚悟を、口先の美辞ではなく……当然の理として語られました」
月心は黙った。
庭先で見た永重の顔が浮かぶ。
忍びを前にしても恐れなかった。
かといって、妙に有難がることもなかった。
ただ、自分たちが命を賭けるなら、その分だけ報いる。
まるでそれが当然であるかのように。
月心は低く息を吐いた。
「一番厄介だな」
「……はい」
「情に訴えるでもない」
月心は指を折るように言った。
「威で縛るでもない」
もう一つ、指を折る。
「忍びを道具として見てもいない」
夕霧は黙って頷いた。
「だからこそ厄介だ」
月心は苦笑した。
「こちらが勝手に考えさせられる」
しばし、沈黙が落ちた。
やがて月心が呟いた。
「……戻らぬでよい、か」
夕霧の指が膝の上でわずかに動いた。
「御頭の言葉とはいえ――」
月心は目を伏せる。
「石川を捨てる覚悟を問われたようなものだ」
その言葉に、夕霧はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「わたくしは……後悔しておりません」
「即答だな」
月心が笑う。
「はい」
夕霧は頷いた。
「月心様は?」
「俺か?」
月心は肩を竦めた。
「俺はまだ、半信半疑だ」
「……」
「だが――」
そこで言葉を切った。
縁側で見た永重の横顔が、脳裏に浮かんだ。
空を仰いでいた。
何かを背負うように息を吐いていた。
あの男は、自分たちの命を軽く考えているのではない。
むしろ、その重さを知っている。
だからこそあの言葉が出たのだ。
月心は目を細めた。
「試す価値は、十分にある」
夕霧の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「はい」
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その頃。
別室では、永重が文机の前に一人で座っていた。
目の前には書付がある。
筆もある。
だが、まだ一本も文字を書いていない。
胸に残る重みが消えなかった。
永重は筆へ手を伸ばしかけ、止めた。
――忍びを抱える、か。
それが何を意味するのか、理解していないほど若くはない。
疑念も危うさも、すべて承知の上だ。
月心。
夕霧。
二人の顔が浮かぶ。
そして、自分を見極めると言った夕霧の声。
永重は目を閉じた。
人に命を預けてもらう。
それは、ただ兵を増やすことではない。
その命が失われれば、自分の胸にもその重みが残る。
ならば――
その重みから逃げてはならない。
遠くで鳥が鳴いた。
永重は目を開けた。
筆を取り上げる。
硯の上で墨を含ませ、静かに紙へ向けた。
胸の重みは、少しも軽くなっていない。
むしろ、先ほどよりはっきりしている。
それでも。
その重みを抱えたまま、永重は前を向いた。
今はまだ何者でもない。
だからこそ、学ばねばならない。
人を使うのではない。
人と共に、この先へ進むために。
永重はようやく、筆を紙へ落とした。




