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【御礼60,000PV到達】戸侯記  作者: 和音
■第二章■ ~元服/天正大地震~

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46/253

6-16 丹波亀山【夕霧】

【編集】

2026.8.18 文章構成含め、全体的に改稿しました。


三人が永重の家へ戻ると、門前に人影が二つあった。


いずれも笠を深く被っている。

顔は見えない。

だが、ただの客ではないことだけは、門を遠くから眺めただけでも知れた。

立ち方が違う。

身じろぎ一つせず、それでいて周囲の気配を絶えず拾っている。


永重は歩みを緩めなかった。

門まで来ると、ほんのわずかに目を動かした。

それだけだった。


二人の笠の男がほとんど同時に頭を下げる。

言葉はない。

永重はそのまま門をくぐった。


重兼と半佐も続く。

二人の男も音を立てずに後へ従った。

玄関へは向かわなかった。

永重たちは庭先へ回った。


昼の名残を帯びた風が庭木の葉をかすかに揺らしている。

家の中は静まり返っていた。


永重は縁側に腰を下ろした。

その左右に重兼と半佐が控える。

向かいには、笠を被った二人が片膝をついた。


重兼は鯉口こそ切っていない。

だが、左手は刀の柄に添えられている。

何かあればいつでも抜ける位置だった。

永重はそれを見ていた。

しかし、何も言わない。


やがて庭に風が一筋、通り抜けた。


「早かったな」

永重が口を開いた。

二人の男は黙っている。

「既に察しておろうが、今この家には誰も居らぬ。申せ」


その声に促されるように、片方の男が笠へ手を掛けた。

ゆっくりと外す。

現れたのは、日に焼けた男の顔だった。


男は笠を脇へ置き、両手をついて深く頭を下げる。

「改めまして……月心(げっしん)でございます」

それから、隣の者へ目を向けた。

「こちらは……」

促され、もう一人も笠を取った。

白い顔が現れる。

女だった。


女もまた両手をつき、静かに頭を下げる。

「夕霧(ゆうぎり)と申します」

声が、庭の静けさに溶けた。

その声音は思いのほか柔らかかった。

女がわずかに顔を上げる。


その瞬間だった。

「――くのいちか」

重兼の声が低く落ちた。

女は何も答えなかった。

重兼を見ることもなく、静かに目を伏せている。


永重はその顔を見た。

顔立ちははっきりしていた。

美しい。

だが、それだけではない。

表情が読めない。

何を考えているのか、その目からは何一つ掴めなかった。

その隣では、半佐が口を半ば開いたまま女を見ている。


「半佐」

永重が呼ぶと、半佐はびくりと肩を揺らした。

「……はっ」

慌てて姿勢を正す。

重兼が小さく息を吐いた。


「頼明殿は何と?」

永重が問う。

月心が答えた。

「二つのみ、言付かっております」

「申せ」

「一つは、ご支援への深い御礼」

そこで月心は一度言葉を切った。

「もう一つは――これより永重様に仕え、戻ることは不要、とのことです」


庭に沈黙が落ちた。


最初に口を開いたのは重兼だった。

「……伊賀者が、一人に仕えるのか?」

声には明らかな警戒があった。


伊賀と甲賀。

同じ忍びとはいえ、その在り方は大きく異なる。

甲賀は特定の主君に仕える。

一方、伊賀は複数の依頼を受け、契約によって働く者が多い。

仕える相手を一人に定めることを、重兼は容易には信じられなかった。


月心が答えようとした。

だが、その前に夕霧が口を開いた。

「……我らは、出が伊賀であるのみでございます」

静かな声だった。

「伊賀者ではございません」


重兼の目が細くなる。

夕霧はそれ以上何も言わなかった。


永重は二人をしばらく見つめた。

やがて、口元にかすかな笑みを浮かべる。

「……あいわかった」

あまりにあっさりした言葉だった。


重兼が永重を見る。

「そなたらには、きちんと扶持を与えて雇おう」

月心の眉がわずかに動いた。

「条件は半佐と同様だ」

「……」

「励んでくれ」


誰もすぐには言葉を返せなかった。

重兼でさえ、何かを言おうとして口を閉じる。

半佐は目を丸くしている。


そして、当の二人も同じだった。


忍びというものは、表立って尊ばれる存在ではない。

必要とされる。

恐れられる。

利用される。

だが、それと敬われることは別だった。


月心は顔を伏せたまましばらく動かなかった。

やがて、低い声が漏れる。

「……まことで?」

「嘘を申してどうする」

永重は何でもないことのように答えた。


夕霧は顔を上げなかった。

膝の上で組んだ手だけが、わずかに強く握られている。


重兼がたまらず口を挟んだ。

「若殿。さすがにそれは……」

永重が重兼を見る。

「何だ」

「忍びでございますぞ」

「知っている」

「それも、伊賀の者です」

「それも聞いた」

重兼は言葉に詰まった。


永重は少しだけ笑った。

「重兼が警戒する気持ちはわかる」

そう言ってから、向かいの二人へ目を戻す。

「だがな」

声が少しだけ低くなった。

「表向き、この月心と夕霧は側付きだ」

月心が顔を上げる。

「そうであれば扶持を与えるのは普通のことだろう?」


重兼は黙った。


永重は続けた。

「私はまだ力不足だ」

その言葉に半佐が目を瞬く。

「皆に助けてもらうのではなく、教わらねばならぬ」


永重は自分の手を見た。

まだ若い手だった。

刀を握ることもできる。

筆を持つこともできる。

だがこの先、人の上に立つということがどういうことなのか。

それだけはまだ分かっていない。


「それに――」

永重は二人を見る。

「命をかけてもらうならば、なおさらだ」

月心の顔から、かすかな笑みが消えた。

「それを思えば報いるのは当然のことだ」

その言葉のあと、誰も口を開かなかった。


庭の木々が風に鳴る。

葉擦れの音だけが妙に大きく聞こえた。


月心はまだ信じ切れない顔をしていた。

こんな話は聞いたことがない。

忍びに扶持を与える。

それだけならば、まだ分かる。


だが、自分たちの命を預かる者が、その命に値する報いを当然だと言う。

それが理解できなかった。

隣を見る。

夕霧は膝の上で手を組んだまま、永重を見ていた。

その目にもまだ警戒はある。

だが、先ほどまでとは何かが違っていた。


永重が言った。

「まぁよい」

そして、少し肩の力を抜く。


「そなたらが忍びであることは、ここに居る三人と次郎丸しか知らぬ」

「……はい」

「普段は私の側に仕えよ」

二人が頭を下げる。

「そして――」

永重は一拍置いた。

「そなたらも私を見極めよ」


月心の眉が動いた。

「……見極めよ、とは?」

問い返す声には、初めて明らかな戸惑いが滲んだ。

永重は答えた。

「私は主としてそなたらを試す」

その目が二人をまっすぐ捉える。

「そなたらは忍びとして、私が仕えるに足る男かを試せ」


重兼が、小さく息を呑んだ。


そんなことを言う主がいるのか。

主が家臣を試す。

それは分かる。

だが、自分自身を試させる主など聞いたことがない。


永重は気づいていないのか。

あるいは、気づいた上で言っているのか。

その顔からは判断できなかった。


「夕霧」

名を呼ばれ、女の肩がわずかに揺れた。

「そなたもだ」

夕霧は一瞬だけ目を瞬いた。


そして、深く頭を下げた。

「……承知いたしました」

先ほどまでの声とは違っていた。

静かだ。

だが、芯がある。

「その御覚悟――しかと見極めさせていただきます」


永重は頷いた。

それ以上は何も言わなかった。



半佐は、ようやく我に返った。


先ほどから女に見惚れていたことを思い出したのか、慌てて口を閉じる。

背筋を伸ばし前を向く。

重兼はなお警戒を解いてはいない。

それでも、左手に添えていた刀の柄からほんのわずかに指の力が抜けていた。


風が縁側を吹き抜けた。

庭木が一斉にざわめく。


永重は空を見上げた。

雲の切れ間から、淡い青が覗いている。


その空を見ながら、静かに息を吐いた。

胸の奥に何かが沈んでいる。

重い。

だが、不快ではなかった。


それが何なのか、永重にはまだ分からない。

ただ――これから自分は、人の命を預かっていくのだ。

そのことだけははっきりと感じていた。




--------------------------




月心と夕霧には、それぞれ一室が与えられた。


二人は荷をほどくと、月心の部屋に集まった。

襖が閉じられる。

外の気配が遠くなる。


しばらく、どちらも口を開かなかった。

やがて月心がぽつりと言った。

「――変わったお方だ」


夕霧は答えない。

月心は畳に手をつき、天井を見上げた。

「御頭の言われた通りだ」

「……」

「甘いお方だ」


夕霧がようやく顔を上げた。

「されど」

月心を見る。

「甘いだけのお方ではございません」


月心が苦笑した。

「そう思うか」

「はい」

夕霧の声には迷いがなかった。

「自らを試せ、と申される主君など聞いたことがございません」

「俺もだ」


「それに――」

夕霧は一度、言葉を探した。

「命を賭す覚悟を、口先の美辞ではなく……当然の理として語られました」


月心は黙った。


庭先で見た永重の顔が浮かぶ。

忍びを前にしても恐れなかった。

かといって、妙に有難がることもなかった。


ただ、自分たちが命を賭けるなら、その分だけ報いる。

まるでそれが当然であるかのように。


月心は低く息を吐いた。

「一番厄介だな」

「……はい」

「情に訴えるでもない」

月心は指を折るように言った。

「威で縛るでもない」

もう一つ、指を折る。

「忍びを道具として見てもいない」


夕霧は黙って頷いた。

「だからこそ厄介だ」

月心は苦笑した。

「こちらが勝手に考えさせられる」


しばし、沈黙が落ちた。


やがて月心が呟いた。

「……戻らぬでよい、か」

夕霧の指が膝の上でわずかに動いた。

「御頭の言葉とはいえ――」

月心は目を伏せる。

「石川を捨てる覚悟を問われたようなものだ」


その言葉に、夕霧はしばらく黙っていた。

やがて、静かに言う。

「わたくしは……後悔しておりません」

「即答だな」

月心が笑う。

「はい」

夕霧は頷いた。

「月心様は?」


「俺か?」

月心は肩を竦めた。

「俺はまだ、半信半疑だ」

「……」

「だが――」

そこで言葉を切った。

縁側で見た永重の横顔が、脳裏に浮かんだ。


空を仰いでいた。

何かを背負うように息を吐いていた。

あの男は、自分たちの命を軽く考えているのではない。

むしろ、その重さを知っている。

だからこそあの言葉が出たのだ。


月心は目を細めた。

「試す価値は、十分にある」


夕霧の口元が、ほんのわずかに緩んだ。

「はい」




--------------------------




その頃。


別室では、永重が文机の前に一人で座っていた。


目の前には書付がある。

筆もある。

だが、まだ一本も文字を書いていない。

胸に残る重みが消えなかった。


永重は筆へ手を伸ばしかけ、止めた。


――忍びを抱える、か。


それが何を意味するのか、理解していないほど若くはない。

疑念も危うさも、すべて承知の上だ。


月心。

夕霧。

二人の顔が浮かぶ。

そして、自分を見極めると言った夕霧の声。


永重は目を閉じた。

人に命を預けてもらう。

それは、ただ兵を増やすことではない。

その命が失われれば、自分の胸にもその重みが残る。

ならば――

その重みから逃げてはならない。


遠くで鳥が鳴いた。


永重は目を開けた。

筆を取り上げる。

硯の上で墨を含ませ、静かに紙へ向けた。


胸の重みは、少しも軽くなっていない。

むしろ、先ほどよりはっきりしている。


それでも。

その重みを抱えたまま、永重は前を向いた。


今はまだ何者でもない。

だからこそ、学ばねばならない。

人を使うのではない。

人と共に、この先へ進むために。


永重はようやく、筆を紙へ落とした。




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