6-15 丹波亀山【憔悴】
【編集】
2026.8.18 文章構成含め、全体的に改稿しました。
翌朝――
永重、半佐、重兼の三人は、連れ立って登城した。
朝の城内はいつもと変わらぬように見えた。
行き交う小者の足音。
遠くから聞こえる馬の嘶き。
廊下を渡る風に障子がかすかに鳴る。
だが永重には、それらすべてがどこか上の空に聞こえていた。
登城するなり、永重は永勝への面談を申し入れた。
控えの間に通され三人はそこで待った。
一刻が過ぎた。
それでも呼び出しはない。
「……何事か起きたのでしょうか」
堪えきれず、半佐が口を開いた。
重兼は答えなかった。
床几に腰を下ろしたまま、両の手を膝に置き目を閉じている。
永重もまた、何も言わなかった。
やがて立ち上がると、凝り固まった肩をほぐすようにゆっくりと腕を伸ばした。
「父上――いや、殿もお忙しい身だ。
待つしかあるまい」
その言葉に、半佐がちらりと永重を見る。
元服してからというもの、永重は人前では永勝を「殿」と呼んでいた。
誰かにそう命じられたわけではない。
父と子であることと、主従であること。
その二つを混同させぬよう永重自身が決めたことである。
だからこそ、今の「父上」という一言が半佐には妙に可笑しかった。
思わず口元が緩む。
「左様ですね。失礼なことを申しました」
そう言って、半佐は板床へ座り直した。
だが、そこからさらに半刻が過ぎた。
そしてようやく廊下の向こうから声が掛かった。
「お呼びでございます」
三人は顔を見合わせることもなく立ち上がった。
部屋へ通される。
三人は畳の上に胡坐をかき、深く頭を下げた。
「面を上げよ」
聞き慣れた声だった。
永重は顔を上げた。
そして――止まった。
半佐も同じだった。
重兼だけが、僅かに眉を動かした。
永勝が、そこにいた。
しかし三人の知る永勝とは違っていた。
頬はこけ、目の下には濃い隈が浮いている。
いつもなら背筋を伸ばして座っているはずの身体も、今日は肘木に寄りかかっていた。
何より、その目に力がない。
一晩で、これほど人は変わるものなのか。
永重は胸の奥が冷たくなるのを覚えた。
「……殿、大丈夫でございますか」
声を掛けると、永勝はしばらく永重を見た。
そして口の端だけを僅かに上げた。
「……長いこと待たせたな。大丈夫だ」
笑ったつもりなのだろう。
だが、その笑みはあまりにも弱かった。
永重は何も返せなかった。
永勝もまた、しばし黙っていた。
やがて目を伏せる。
「――永重。皆も」
声の調子が変わった。
三人は自然と背筋を正した。
「これより言うことは、他言無用だ」
永勝は一度、息を整えた。
そして、言った。
「中納言様は……長くは持たぬやもしれぬ」
誰も動かなかった。
永勝は目を閉じた。
「大垣よりこちらへ戻られてのち、ここ最近は快方に向かっておられたのだが……」
そこで言葉が途切れた。
永勝の右手が、肘木の上で僅かに動く。
「先日の地震じゃ」
その一言だけで、三人には何のことか分かった。
あの揺れ。
大地そのものが唸り、城も屋敷も、人も物も、すべてを揺さぶったあの地震。
「御身体が弱っておられたところへ、ご心労も重なった」
永勝はゆっくりと息を吐いた。
「揺れの折、中納言様は御殿を出て庭へ避難なされた」
そこで永勝は一度、言葉を切った。
「だが、その際に足を取られ、転ばれた」
半佐が息を呑んだ。
「大事には至らぬと報せは受けた。
……その時は、そう思っていた」
永勝の声が少しだけ低くなった。
「だが、それ以来ずっと床に伏されておる」
誰も口を挟まない。
「今朝方は、ほとんど御言葉も交わせぬほどの――」
そこで、声が途切れた。
永勝は唇を結んだ。
しばらく畳の一点を見つめている。
その横顔を見て、永重は初めて気づいた。
父は、恐れている。
一家の主としてではない。
一人の人間として。
そして、おそらくは息子にそれを悟られたくないのだ。
永勝は顔を上げた。
目には、先ほどまでにはなかった強い光が宿っていた。
「もしもの際には――」
低い声だった。
だが、三人の胸にははっきりと届いた。
「我ら藤懸家は、太閤殿下のもとに参る」
永重は、すぐには返事ができなかった。
胸の奥へ、重い石を落とされたようだった。
父が何を決めたのか。
それが意味するところを永重には分かっていた。
これまでと同じではいられぬ。
「……承知いたしました」
ようやく絞り出した声に、自ら覚悟を込める。
半佐も、重兼も、何も言わなかった。
ただ深く頭を垂れた。
永勝は三人を見回した。
「今後のことをしっかりと考えねばならぬ」
それだけ言うと、再び肘木へ身体を預けた。
目を閉じる。
もう話すことはない、というように。
永重は一礼した。
そして、続けて自分から申し出た。
近江の石川頼明から届いている援助の求めについて米と塩を送る。
それに加え、炭も送る。
また、自らの扶持から新たに側付きを二人雇いたい。
一つ一つを告げるたびに、永勝は短く頷いた。
いつものような明瞭な返答ではない。
「……そうか」
「はい」
「そなたの考えるようにいたせ」
最後だけは、はっきりとした声だった。
「承知いたしました」
永重は頭を下げた。
三人は部屋を辞した。
廊下へ出る。
障子越しの朝日が、板敷の上へ細く差し込んでいた。
その光を見たところで、永重の足が止まった。
後ろにいた半佐も止まる。
重兼だけが二人より数歩先へ進んでいた。
やがて重兼も足を止めた。
振り返る。
「――言えなかった」
永重の声だった。
半佐が黙って見る。
「これ以上、ご心配をお掛けすることは出来ぬ」
永重は障子の向こうへ目を向けた。
その先には、先ほどの父がいる。
「月心らが忍びであることは、当面伏せておく」
重兼は何も言わない。
「……足利公の件もだ」
永重は一度、言葉を止めた。
それがどれほど重大なことなのか、三人とも分かっている。
「特にこの件は、我々ではどうすることも出来ぬ」
言い終えると、永重は障子を見た。
ほんの一瞬だった。
それから踵を返した。
半佐も重兼も、何も言わずに続いた。
城を出ても三人の間に言葉はなかった。
朝の丹波は、よく晴れていた。
空は高く、雲も少ない。
遠くの山々までくっきりと見える。
穏やかな朝だった。
だからこそ、三人にはその静けさが不気味だった。
何かが起きる。
いや――
すでに、何かは始まっている。
そんな気がしてならなかった。




