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【御礼60,000PV到達】戸侯記  作者: 和音
■第二章■ ~元服/天正大地震~

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40/253

6-10 丹波亀山【新たな直臣】

【編集】

2026.8.18 文章構成含め、全体的に改稿しました。


寺の境内――


倒れた家々に仮の梁を渡し、崩れた道を塞いでいた大石を脇へ退ける。

それだけのことを終える頃には、日はすでに西の山の端へ沈みかけていた。


夕暮れの村には、いつもの夕餉の匂いも、戸を閉める音もなかった。

代わりに聞こえるのは瓦の崩れる乾いた音と、遠くで誰かを呼ぶ声。

それも次第に細くなり、村人たちは少しずつ寺へと集まってきていた。


三人はそれぞれの馬を境内の端にある木へ繋いだ。


馬も疲れている。

とりわけ地震の後からは何かを警戒するように耳を頻繁に動かしていた。

時折鼻を鳴らし、地面の匂いを探るように首を低くする。


境内の片隅では半佐が拾い集めた薪に火をつけた。

ぱち、と乾いた音がして、細い炎が立ち上がる。

火が少しずつ薪を舐めていく。

その明かりに照らされて湿った土の色がぼんやりと浮かび上がった。


風はない。

昼間まで大地を揺さぶっていたものが嘘のように、夜は静かだった。


「……随分と疲れましたな」

重兼が呟いた。

低い声だった。

疲労のためか、その声音には張りがない。

だがその奥には、今日一日を生き延びた者だけが持つ安堵があった。


永重は火へ両手を差し出した。

指先には土が入り込み、爪の間まで黒く汚れている。

「そうだな。谷の村は……思ったよりも被害が大きかった」

そう答えながら、永重は炎を見つめた。


瞳の奥には、まだ昼間の光景が残っている。

崩れた斜面。

土砂に呑まれかけた家。

泣き叫ぶ人々。

そして、いつ動くとも知れぬ山肌。

思い出すだけで胸の奥が僅かに強張った。


「下手をすれば、あの斜面ごと村が押し流されるところでした……」

半佐が新しい薪を一本、火へくべた。

火の粉がぱっと跳ねる。


「某も、あの土砂には肝を冷やしました」

重兼が頷く。

「無理に突っ込んでおれば、こちらが巻き込まれていた」

「……そうだな」

永重はそれだけ答えた。


火の向こうを見つめる。

あの時、助けに走り出そうとした。

目の前で人が土に埋もれようとしていたのだ。

武士としてではない。

一人の人間として、手を伸ばしたかった。


だが――

足を止めた。


もし土砂がもう一度崩れれば、自分だけではない。

半佐も、重兼も、そこへ駆け寄った村人たちもすべて巻き込まれる。


助けるために走ることと、皆を死なせないこと。

その二つが、あの瞬間には同じではなかった。

永重は、あの判断が正しかったのかまだ分からずにいた。


「馬は敏感ですな」

重兼がふいに言った。

「土の匂いや、地の下の僅かな震えまで感じ取っておるのでしょう。

人には聞こえぬものまで聞いているのやもしれませぬ」

そう言って、繋いだ馬へ目を向ける。

「……永重殿の馬、夜光。確かに良い馬です」

永重が苦笑した。

半佐は無言で頷いている。


薪が弾ける音だけが、三人の間に落ちた。

しばらく誰も口を開かなかった。


境内の端では、避難してきた村人たちが身を寄せ合っている。

子供を抱いた女。

腕を布で巻いた老人。

家から持ち出せた僅かな荷物を胸に抱えた者。


皆、疲れ切っていた。

だが眠ることもできず、時折空を見上げている。

また揺れるのではないか。

山が崩れるのではないか。

そんな不安を抱えたまま、夜を迎えていた。


「……某は、ここ丹波の榛原郷の出身でしてな」

重兼がぽつりと口を開いた。

永重は顔を上げた。

半佐も重兼を見る。


「明智日向守の丹波平定では、敵方におりました」

重兼は火へ視線を戻した。

「……まあ、色々とありましてな。

今は永勝様にお仕えしております」


そこで言葉を切った。

薪の赤い熾が崩れる。


「今日の地震の後、永勝様に呼ばれました。

そしてこう言われたのです」

重兼の目が永重へ向いた。

「これより永重殿と一緒に行動せよ、と」

永重は黙って聞いていた。


「……そこで見極めよ、と」

「見極める?」

半佐が訊いた。

重兼は頷いた。

「そうだ」

火を挟んで、永重を見る。

「永重殿に仕えるか、このまま永勝様に仕えるか。

見極めて、選べ、と」

永重の眉が僅かに動いた。

「それで……重兼殿は如何なされる?」

半佐が再び訊く。


重兼はすぐには答えなかった。

火を見つめている。

しばしの間、その横顔には何の感情も浮かばなかった。


やがて、重兼は片膝を立てていた姿勢を正した。

背筋を伸ばす。

両手を揃える。

そして、深く頭を下げた。

「永重殿……」

一度、言葉を止めた。

「いえ」

顔を上げる。

「永重様」

その呼び方だけで、半佐には何が起きたのか分かった。


「これより某を、御側に置いて頂きたく存じまする」

「何故だ?」

永重が問う。

重兼は、またすぐには答えなかった。


焚き火の中で薪が崩れた。

赤い火の粉が一つ、ふわりと舞い上がり夜気へ消えていく。


「……今日のことを見て、でございます」

重兼の声は静かだった。

「揺れの後、人は皆永重様を見ておりました」

永重は黙っている。

「命令を待っていたのではない」

重兼は火越しに永重を見た。

「どう動くのか。それを見ていたのです」


永重の脳裏に昼間の村が蘇った。

土埃。

泣き声。

助けを求める手。

自分を見つめていた、無数の眼。


「土砂が動いた折、永重様は迷われた」

重兼は続ける。

「助けに走りたいお気持ちと、皆を危険に晒してはならぬという理。

その二つを同時に抱えておられた」

一度、息を吸う。

「そして――止まられた」

その言葉だけが、妙に重かった。

「あれは、出来そうで出来ぬことです」


半佐が静かに目を伏せた。

半佐自身も、あの時永重が踏み出すのではないかと思っていた。

そして、もし踏み出していたなら自分も後を追っていた。


主が行くなら自分も行く。

それが家臣というものだ。

だからこそ、永重が止まったことの意味を今になって思う。


「武で押し切る者もおります」

重兼の声が続いた。

「情に流される者もおります」


火が重兼の頬を赤く染める。


「永重様は、そのどちらもなさらなかった」

重兼は一度、目を伏せた。

「某は丹波で、多くの戦を見てまいりました」

その声音には僅かな苦みが混じっていた。

「勝つための戦もございました。

負けぬための戦もございました」

そして

「守るための戦も」

そこで言葉を切る。

「……ですが、守られたはずの村が、守られなかったこともございます」


誰も口を挟まなかった。


遠くで、子供が一度だけ咳き込んだ。

「今日、永重様は刀を置かれた」

重兼が言った。

「武士が、土を掻くために」

永重の目が僅かに揺れた。

「あの時点で、某の中では答えが出ておりました」

重兼は再び深く頭を下げた。

「某は、勝つためだけの御方には仕えませぬ」

低い声だった。

「生き残った者が、次の日を迎えられる御方に仕えたい」

重兼は顔を上げた。


その眼差しは、今までとは違っていた。

武士が主を品定めする目ではない。

これから自分の命を預ける相手を見る目だった。


「永重様の――若殿の背は今日、前にございました」

静かな言葉だった。

「恐れから退かず、されど無謀に走らず」

重兼の口元が僅かに緩む。

「その背であれば、某は戦場でも預けられまする」

再び頭を下げた。


ぱちり、と焚き火が鳴った。

永重はしばらく火を見つめていた。

やがて、ふっと息を吐く。


「……ちと買いかぶりすぎだな」

重兼が顔を上げた。

永重は笑っていた。

「そこまでのものではないぞ、某は」

そう言って、永重は立ち上がった。


疲れの残った身体を一度伸ばす。

それから重兼を見下ろした。

「……ただ」

永重の声が夜気に落ちた。


「自らが名を残すことよりも、良いと思うことのため主のために動きたい」

少し照れたように笑う。

「父にも言われたことだ」


そう言うと、永重は重兼の正面へ身体ごと向き直った。

「重兼殿――」

ほんの僅か、間を置く。

「いや、多紀重兼」

名を呼ぶ。


「これより、よろしく頼む」

そして永重も頭を下げた。

重兼の目が、僅かに見開かれる。

やがて、その顔に深い笑みが浮かんだ。

「若殿、よろしくお願いいたしまする」

重兼は深く伏した。


それから身体を半佐へ向ける。

「半佐」

「はっ」

「共に、よろしく頼む」

重兼が頭を下げた。

「重兼殿、よろしくお願いいたします」

半佐も慌てて頭を下げる。


三人の男が、焚き火を前に深々と頭を垂れていた。


それは主従の契りというには、あまりにも静かなものだった。

これから先、幾度も命を預け合うことになる者たちの始まりがあった。


永重が顔を上げる。

夜はすでに深まりつつあった。


境内の端には、避難してきた村人たちが身を寄せ合っている。

かすかな寝息。

誰かの小さな囁き。

そして、時折聞こえる咳。

泣いていた子供も、いつしか声を失っていた。

母親の胸に顔を埋め、ようやく眠りについたらしい。


夜光が繋がれた木の下で小さく鼻を鳴らした。


半佐が焚き火へ薪を一本くべる。

炎が一段高くなった。


永重は空を見上げた。

雲はない。

澄み切った夜空には星がいくつも瞬いている。

昼間、大地があれほど大きく揺れたことなど星々は知らぬ顔だった。


人の世がどれほど騒がしくとも、空は変わらない。

だが、人は変わる。

今日を境に何かが変わった。

永重はそう思った。


焚き火の向こうには、重兼がいる。

その隣には半佐がいる。

そして、そのさらに向こうには、明日を待つ村人たちがいる。


永重は火へ手をかざした。

冷え始めた指先に、じんわりと熱が戻ってくる。


夜は静かだった。

だが、その静けさの中で、新しい主従の時が確かに動き始めていた。

焚き火は、静かに燃え続けていた。




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