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【御礼60,000PV到達】戸侯記  作者: 和音
■第二章■ ~元服/天正大地震~

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39/253

6-9 丹波亀山【見廻り】

【編集】

2026.8.17 文章構成含め、全体的に改稿しました。


三騎は城下を抜けた。


城門を背にすると、道はゆるやかに領内へ伸びている。

つい先ほどまで人の往来で賑わっていた城下とは違い、こちらには妙に音が少なかった。

馬蹄が土を打つ音だけが乾いた街道に淡く響く。


永重は手綱を握りながら、足元へ目を落とした。

道には轍が残っている。

いつもなら気にも留めぬほどのものだ。

だが今日はその線がところどころ不自然に歪んでいた。

地面そのものが、わずかに押し動かされたように見える。


道端の石仏もそうだった。

苔むした台座の上で、いつもと変わらぬ顔をしている。

だが、よく見れば僅かに傾いている。


ほんの少し。

気をつけていなければ見過ごしてしまうほどの変化である。


それがかえって永重には不気味だった。


大きく壊れたものは目につく。

目につけば人はそれに対処できる。

怖いのは、目に見えぬほどの変化だった。


地の底で何かが動いた。

その結果だけが、こうして静かに地表へ現れている。



やがて最初の集落が見えてきた。

人の気配は村に入る前から感じられた。


家々の戸は半ば閉ざされている。

軒下には人が立っていたが、誰も大声では話していない。

三騎の姿を認めると、皆が一斉にこちらを見た。


安堵なのか、警戒なのか。

どちらともつかぬ表情である。


幼子を抱いた女が、深々と頭を下げた。

その隣では老人が杖を突きながら道端へ身を寄せる。

「御武家様が見廻りに来てくださったぞ」

誰かが声を上げた。

それまで張りつめていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。


永重は馬を止めた。

愛馬の夜光の首を軽く叩き、それから静かに地へ降りる。

「怪我人は出ておらぬか」

近くにいた庄屋風の男が、慌てて駆け寄ってきた。

「はっ……幸い、大事には至っておりませぬ。

土壁が少々崩れ、井戸の縁石がずれた家が二、三。

それと牛が驚いて柵を壊したくらいでございます」


「そうか」

永重は頷いた。

視線を村の奥へ向ける。


崩れたという土壁の前には、土と藁屑が掃き集められていた。

誰かが既に手を入れたらしい。

井戸の周囲にも人が集まり、ずれた石を確かめている。


大事には至っていない。

そう聞いたところで、永重の胸に安堵が広がることはなかった。

今は無事でも次に揺れぬとは限らぬ。


「まだ揺れることも考えておけ。

火の扱いには十分気をつけよ。

それから、傷んだ屋根や高い場所には不用意に近づくな」

「ははっ」

庄屋が深く頭を下げる。


永重が再び夜光に跨る間、その様子を少し離れたところから重兼が見ていた。


何も言わない。

ただ、その眼だけが村のあちこちを静かに追っていた。

三騎は再び進んだ。



集落を抜けると、小川が見えてきた。

その上に架かる木橋の手前で永重は馬を緩めた。


橋板が一枚、外れている。

脇へ寄せられ、その周囲には若い衆が集まっていた。

縄と木槌を手にしているところを見ると、既に修繕に取りかかっているらしい。


「通行に支障は?」

半佐が声をかけた。

若者の一人が振り返り、胸を張る。

「今しがた直りました。馬も通れます」


言葉通り橋は渡れそうだった。

永重は礼を言い、三騎でゆっくりと橋へ乗り入れる。


板が、ぎしりと鳴った。

夜光の脚が一瞬だけ止まりかけた。

永重は手綱を緩める。

橋は揺れなかった。


川はいつもと変わらぬ顔で流れている。

陽を受けた水面が細かく光り、その下を小魚が走った。


その静けさが、永重には妙に心に残った。


「……揺れの割には、整っている」

重兼がぽつりと言った。

独り言のような声だった。

「日頃の備えのおかげだろう」

永重は前を向いたまま答えた。

「そうかもしれませぬな」

それきり、重兼は口を閉ざした。


橋を渡り終える。

その先には田畑が広がっていた。



畦には細いひびが走っている。

場所によっては、その裂け目が蛇のように長く伸びていた。


それでも水路は生きていた。

水は濁ることなく、細い流れとなって田へ向かっている。


農夫たちは鍬を手にしたまま、三人を見送っていた。

誰も声をかけない。

ただ、目だけが追ってくる。


永重は胸の奥でひとつ息を吐いた。

――少なくとも、この辺りは持ちこたえている。


夜光の歩みも変わらなかった。

ただ、普段よりわずかに慎重である。


蹄が土へ触れるたび、夜光の耳が小さく動いた。

馬は人間より先に地の異変を感じることがある。

永重はそれを知っていた。

だからこそ、手綱に伝わる微かな動きを見逃さぬようにしていた。


その時、重兼の馬が鼻を鳴らした。

重兼は手綱を引き、馬を静める。

その仕草には迷いがなかった。


「次は谷向こうの村へ向かいましょう」

半佐が言った。


「あちらは地盤が弱い」

永重は答えた。

「見ておかねばならぬ」

重兼が短く頷く。

三人は再び馬首を揃えた。

街道を進む。


空は相変わらず青く、雲ひとつない。

だというのに、何かがおかしい。

鳥の声が途切れ途切れだった。

風もない。

いや、吹いているのかもしれない。

そう思うほどに弱い。

木々の葉はほとんど動かず、陽射しだけが地上へ降り注いでいる。


静かだった。

あまりにも静かだった。


永重は、ふと空を仰いだ。

青空のどこにも異変はない。

それでも胸の底に、言葉にならぬものが残っている。

――地は、沈黙している。

その沈黙が、かえって怖かった。


やがて道は谷へ下り始めた。

その途端、先ほどまでとは明らかに様子が変わった。


街道の土が柔らかい。

夜光の蹄が沈むたび、ぬちゃり、と水を含んだ土が鳴った。

道脇の斜面には、草の根ごと剥がれ落ちた土が帯のように露出している。


永重は手綱を引いた。

夜光の歩みが遅くなる。

「……ここは揺れを強く受けていますな」

半佐が低く言った。

「谷は力の逃げ場がござらぬ」

重兼が答える。

短い言葉だった。

だが、それだけで十分だった。


三騎は速度を落とし、慎重に坂を下っていく。

やがて谷向こうの村を見下ろせる場所へ出た。


永重は馬を止めた。

眼下に村がある。


村そのものは、そこにあった。

だが――

永重は息を詰めた。


いくつかの家屋が地面へ沈んでいる。

倒れてはいない。

それが、かえって異様だった。


屋根がわずかに傾いている。

柱が一本、真っ直ぐであるはずのものが目に見えて歪んでいる。

土蔵には大きな亀裂が走り、その周囲の壁土が剥がれ落ちていた。

村の中央には人だかりができている。


「下りるぞ」

永重が言った。

夜光を促す。

谷底へ近づくにつれて、匂いが濃くなった。

湿った土。

潰れた木。

そこへ、かすかな血の臭いが混じっている。


村へ入った途端、泣き声が聞こえた。

若い女が地面に座り込んでいる。

その腕に抱かれているのは幼子だった。


額には布が巻かれている。

血は止まっているらしい。

だが布は赤く染まっていた。


「薬師か施薬僧は?」

永重が問う。

年嵩の男が首を横に振った。

「……おりませぬ」

声が震えていた。

「この揺れで、隣村へ渡る橋が崩れまして……。

人手も足りずまだそこに埋まっておりまする」

「生きているのか」

「声はします。完全に埋まったわけでは……」

男の言葉が途切れた。


永重は村を見回した。

その視線が一軒の家で止まる。

裏手の斜面から流れ出した土に押され、家の半分が埋まっていた。


永重は馬を降りた。

刀を外し、地面へ置く。


「道具を持ってこい!」

声が村中へ響いた。

「梁は無理に引くな!

土を少しずつ退かせろ!

中の者には声をかけ続けよ!」

人々が動き始めた。

永重も瓦礫の前へ膝をついた。


指を土へ差し込む。

冷たい。

そして重い。

湿った土が爪の間へ入り込む。

それでも手を止めなかった。


誰かの声がする。

かすかだ。

だが、生きている。

「もう少しだ!」

永重は声を張った。

「こちらも聞こえておるぞ!」


土を除く。

木を退ける。

やがて、泥にまみれた手が現れた。


「そこだ!」

何人もの手が伸びる。

しばらくして、一人の男が土の中から引き出された。


意識はある。

男は荒い息を吐きながら、永重を見た。

「……助かった……」

その一言を口にした男の頬を、涙が伝った。

涙は土で汚れた顔を筋になって流れた。


周囲から安堵の息が漏れる。

永重も、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

助かった。

そう思った。


だが――。

その安堵は長くは続かなかった。


地の底から音がした。

ごく低い。

遠くで巨木が軋んでいるような音。

いや。

音というより、腹の底へ直接響いてくる震えだった。


永重が顔を上げる。

「まただ!」

誰かが叫んだ。


斜面を見る。

先ほどから不自然に盛り上がっていた土が、ゆっくりと動いていた。


ずるり。

土の塊が、一度だけ沈む。


その瞬間、永重の背筋に冷たいものが走った。


「退け!」

叫んだ。


次の瞬間だった。


斜面が崩れた。

土砂が一気に流れ落ちる。

量は決して多くない。

それでも勢いがある。


一直線に、村の端にある家へ向かった。

家の柱が軋む。

一本が折れた。

屋根が沈む。

人の叫び声が上がった。

「――!」


永重は駆け出そうとした。


その腕を、強く掴まれた。

「待て!」

重兼だった。

「巻き込まれるぞ!」

「放せ!」

永重が振りほどこうとする。


その目の端で、斜面の別の箇所が動いた。

土が落ちた。

ほんの一瞬遅れていれば、自分もそこへ呑み込まれていた。


永重の足が止まった。


行け。

助けろ。

そう叫ぶものが胸の内にいる。


だが、行けば死ぬ。

自分一人の死ではない。


後ろには村人がいる。

助けを待つ者がいる。

理性と感情が、胸の中で激しくぶつかった。

永重は拳を握った。

爪が掌へ食い込む。


やがて、土の動きが止まった。

静かになった。


残ったのは、半ば潰れた一軒の家。

そして、その中から聞こえる泣き叫ぶ声だった。


「……半佐」

永重は低く言った。

「応急の手当てを続けよ」

「はっ」

「重兼殿。

これ以上崩れぬか、斜面を見てくれ」


重兼は一瞬だけ永重を見た。

その眼差しには、何か言いたげなものがあった。

だが、何も言わない。

ただ頷いた。


「承知いたした」

重兼は斜面へ向かった。

足元の土を確かめるように一歩ずつ進んでいく。

その背中は、先ほどよりわずかに前のめりになっていた。


永重はそれを見送り、村人たちへ向き直った。

「怪我人を集めよ!」

声を張る。

「今すぐ直せぬ家の者は寺へ移す!

夜になる前に火と水を確保せよ!」


村人たちが動いた。


「糧秣はこちらで用意する。遠慮は要らぬ!」

混乱の中にいた人々が、その声を頼りに動き始める。


倒れた家は一軒。

死者は今のところいない。

だが、それを喜ぶにはまだ早い。

谷には湿った土の匂いが満ちていた。


人の声が重なり、泣き声が響き、足音が行き交う。

生きている者たちが、生きるために動いている。

その光景を永重は黙って見つめた。


ふと空を仰ぐ。


青い。

どこまでも澄み渡っている。

雲ひとつない。

陽は何事もなかったかのように地上を照らしている。


永重は目を細めた。

これほど穏やかな空が、今はひどく残酷に思えた。


空は何も知らない。

地の底で何が起きたのかも。

人が土に埋まり、家が潰れ、誰かが泣いていることも。

ただ青く、そこにある。


永重は再び村へ目を戻した。

そして、土に汚れた手をゆっくりと握り直した。




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