6-9 丹波亀山【見廻り】
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2026.8.17 文章構成含め、全体的に改稿しました。
三騎は城下を抜けた。
城門を背にすると、道はゆるやかに領内へ伸びている。
つい先ほどまで人の往来で賑わっていた城下とは違い、こちらには妙に音が少なかった。
馬蹄が土を打つ音だけが乾いた街道に淡く響く。
永重は手綱を握りながら、足元へ目を落とした。
道には轍が残っている。
いつもなら気にも留めぬほどのものだ。
だが今日はその線がところどころ不自然に歪んでいた。
地面そのものが、わずかに押し動かされたように見える。
道端の石仏もそうだった。
苔むした台座の上で、いつもと変わらぬ顔をしている。
だが、よく見れば僅かに傾いている。
ほんの少し。
気をつけていなければ見過ごしてしまうほどの変化である。
それがかえって永重には不気味だった。
大きく壊れたものは目につく。
目につけば人はそれに対処できる。
怖いのは、目に見えぬほどの変化だった。
地の底で何かが動いた。
その結果だけが、こうして静かに地表へ現れている。
やがて最初の集落が見えてきた。
人の気配は村に入る前から感じられた。
家々の戸は半ば閉ざされている。
軒下には人が立っていたが、誰も大声では話していない。
三騎の姿を認めると、皆が一斉にこちらを見た。
安堵なのか、警戒なのか。
どちらともつかぬ表情である。
幼子を抱いた女が、深々と頭を下げた。
その隣では老人が杖を突きながら道端へ身を寄せる。
「御武家様が見廻りに来てくださったぞ」
誰かが声を上げた。
それまで張りつめていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。
永重は馬を止めた。
愛馬の夜光の首を軽く叩き、それから静かに地へ降りる。
「怪我人は出ておらぬか」
近くにいた庄屋風の男が、慌てて駆け寄ってきた。
「はっ……幸い、大事には至っておりませぬ。
土壁が少々崩れ、井戸の縁石がずれた家が二、三。
それと牛が驚いて柵を壊したくらいでございます」
「そうか」
永重は頷いた。
視線を村の奥へ向ける。
崩れたという土壁の前には、土と藁屑が掃き集められていた。
誰かが既に手を入れたらしい。
井戸の周囲にも人が集まり、ずれた石を確かめている。
大事には至っていない。
そう聞いたところで、永重の胸に安堵が広がることはなかった。
今は無事でも次に揺れぬとは限らぬ。
「まだ揺れることも考えておけ。
火の扱いには十分気をつけよ。
それから、傷んだ屋根や高い場所には不用意に近づくな」
「ははっ」
庄屋が深く頭を下げる。
永重が再び夜光に跨る間、その様子を少し離れたところから重兼が見ていた。
何も言わない。
ただ、その眼だけが村のあちこちを静かに追っていた。
三騎は再び進んだ。
集落を抜けると、小川が見えてきた。
その上に架かる木橋の手前で永重は馬を緩めた。
橋板が一枚、外れている。
脇へ寄せられ、その周囲には若い衆が集まっていた。
縄と木槌を手にしているところを見ると、既に修繕に取りかかっているらしい。
「通行に支障は?」
半佐が声をかけた。
若者の一人が振り返り、胸を張る。
「今しがた直りました。馬も通れます」
言葉通り橋は渡れそうだった。
永重は礼を言い、三騎でゆっくりと橋へ乗り入れる。
板が、ぎしりと鳴った。
夜光の脚が一瞬だけ止まりかけた。
永重は手綱を緩める。
橋は揺れなかった。
川はいつもと変わらぬ顔で流れている。
陽を受けた水面が細かく光り、その下を小魚が走った。
その静けさが、永重には妙に心に残った。
「……揺れの割には、整っている」
重兼がぽつりと言った。
独り言のような声だった。
「日頃の備えのおかげだろう」
永重は前を向いたまま答えた。
「そうかもしれませぬな」
それきり、重兼は口を閉ざした。
橋を渡り終える。
その先には田畑が広がっていた。
畦には細いひびが走っている。
場所によっては、その裂け目が蛇のように長く伸びていた。
それでも水路は生きていた。
水は濁ることなく、細い流れとなって田へ向かっている。
農夫たちは鍬を手にしたまま、三人を見送っていた。
誰も声をかけない。
ただ、目だけが追ってくる。
永重は胸の奥でひとつ息を吐いた。
――少なくとも、この辺りは持ちこたえている。
夜光の歩みも変わらなかった。
ただ、普段よりわずかに慎重である。
蹄が土へ触れるたび、夜光の耳が小さく動いた。
馬は人間より先に地の異変を感じることがある。
永重はそれを知っていた。
だからこそ、手綱に伝わる微かな動きを見逃さぬようにしていた。
その時、重兼の馬が鼻を鳴らした。
重兼は手綱を引き、馬を静める。
その仕草には迷いがなかった。
「次は谷向こうの村へ向かいましょう」
半佐が言った。
「あちらは地盤が弱い」
永重は答えた。
「見ておかねばならぬ」
重兼が短く頷く。
三人は再び馬首を揃えた。
街道を進む。
空は相変わらず青く、雲ひとつない。
だというのに、何かがおかしい。
鳥の声が途切れ途切れだった。
風もない。
いや、吹いているのかもしれない。
そう思うほどに弱い。
木々の葉はほとんど動かず、陽射しだけが地上へ降り注いでいる。
静かだった。
あまりにも静かだった。
永重は、ふと空を仰いだ。
青空のどこにも異変はない。
それでも胸の底に、言葉にならぬものが残っている。
――地は、沈黙している。
その沈黙が、かえって怖かった。
やがて道は谷へ下り始めた。
その途端、先ほどまでとは明らかに様子が変わった。
街道の土が柔らかい。
夜光の蹄が沈むたび、ぬちゃり、と水を含んだ土が鳴った。
道脇の斜面には、草の根ごと剥がれ落ちた土が帯のように露出している。
永重は手綱を引いた。
夜光の歩みが遅くなる。
「……ここは揺れを強く受けていますな」
半佐が低く言った。
「谷は力の逃げ場がござらぬ」
重兼が答える。
短い言葉だった。
だが、それだけで十分だった。
三騎は速度を落とし、慎重に坂を下っていく。
やがて谷向こうの村を見下ろせる場所へ出た。
永重は馬を止めた。
眼下に村がある。
村そのものは、そこにあった。
だが――
永重は息を詰めた。
いくつかの家屋が地面へ沈んでいる。
倒れてはいない。
それが、かえって異様だった。
屋根がわずかに傾いている。
柱が一本、真っ直ぐであるはずのものが目に見えて歪んでいる。
土蔵には大きな亀裂が走り、その周囲の壁土が剥がれ落ちていた。
村の中央には人だかりができている。
「下りるぞ」
永重が言った。
夜光を促す。
谷底へ近づくにつれて、匂いが濃くなった。
湿った土。
潰れた木。
そこへ、かすかな血の臭いが混じっている。
村へ入った途端、泣き声が聞こえた。
若い女が地面に座り込んでいる。
その腕に抱かれているのは幼子だった。
額には布が巻かれている。
血は止まっているらしい。
だが布は赤く染まっていた。
「薬師か施薬僧は?」
永重が問う。
年嵩の男が首を横に振った。
「……おりませぬ」
声が震えていた。
「この揺れで、隣村へ渡る橋が崩れまして……。
人手も足りずまだそこに埋まっておりまする」
「生きているのか」
「声はします。完全に埋まったわけでは……」
男の言葉が途切れた。
永重は村を見回した。
その視線が一軒の家で止まる。
裏手の斜面から流れ出した土に押され、家の半分が埋まっていた。
永重は馬を降りた。
刀を外し、地面へ置く。
「道具を持ってこい!」
声が村中へ響いた。
「梁は無理に引くな!
土を少しずつ退かせろ!
中の者には声をかけ続けよ!」
人々が動き始めた。
永重も瓦礫の前へ膝をついた。
指を土へ差し込む。
冷たい。
そして重い。
湿った土が爪の間へ入り込む。
それでも手を止めなかった。
誰かの声がする。
かすかだ。
だが、生きている。
「もう少しだ!」
永重は声を張った。
「こちらも聞こえておるぞ!」
土を除く。
木を退ける。
やがて、泥にまみれた手が現れた。
「そこだ!」
何人もの手が伸びる。
しばらくして、一人の男が土の中から引き出された。
意識はある。
男は荒い息を吐きながら、永重を見た。
「……助かった……」
その一言を口にした男の頬を、涙が伝った。
涙は土で汚れた顔を筋になって流れた。
周囲から安堵の息が漏れる。
永重も、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
助かった。
そう思った。
だが――。
その安堵は長くは続かなかった。
地の底から音がした。
ごく低い。
遠くで巨木が軋んでいるような音。
いや。
音というより、腹の底へ直接響いてくる震えだった。
永重が顔を上げる。
「まただ!」
誰かが叫んだ。
斜面を見る。
先ほどから不自然に盛り上がっていた土が、ゆっくりと動いていた。
ずるり。
土の塊が、一度だけ沈む。
その瞬間、永重の背筋に冷たいものが走った。
「退け!」
叫んだ。
次の瞬間だった。
斜面が崩れた。
土砂が一気に流れ落ちる。
量は決して多くない。
それでも勢いがある。
一直線に、村の端にある家へ向かった。
家の柱が軋む。
一本が折れた。
屋根が沈む。
人の叫び声が上がった。
「――!」
永重は駆け出そうとした。
その腕を、強く掴まれた。
「待て!」
重兼だった。
「巻き込まれるぞ!」
「放せ!」
永重が振りほどこうとする。
その目の端で、斜面の別の箇所が動いた。
土が落ちた。
ほんの一瞬遅れていれば、自分もそこへ呑み込まれていた。
永重の足が止まった。
行け。
助けろ。
そう叫ぶものが胸の内にいる。
だが、行けば死ぬ。
自分一人の死ではない。
後ろには村人がいる。
助けを待つ者がいる。
理性と感情が、胸の中で激しくぶつかった。
永重は拳を握った。
爪が掌へ食い込む。
やがて、土の動きが止まった。
静かになった。
残ったのは、半ば潰れた一軒の家。
そして、その中から聞こえる泣き叫ぶ声だった。
「……半佐」
永重は低く言った。
「応急の手当てを続けよ」
「はっ」
「重兼殿。
これ以上崩れぬか、斜面を見てくれ」
重兼は一瞬だけ永重を見た。
その眼差しには、何か言いたげなものがあった。
だが、何も言わない。
ただ頷いた。
「承知いたした」
重兼は斜面へ向かった。
足元の土を確かめるように一歩ずつ進んでいく。
その背中は、先ほどよりわずかに前のめりになっていた。
永重はそれを見送り、村人たちへ向き直った。
「怪我人を集めよ!」
声を張る。
「今すぐ直せぬ家の者は寺へ移す!
夜になる前に火と水を確保せよ!」
村人たちが動いた。
「糧秣はこちらで用意する。遠慮は要らぬ!」
混乱の中にいた人々が、その声を頼りに動き始める。
倒れた家は一軒。
死者は今のところいない。
だが、それを喜ぶにはまだ早い。
谷には湿った土の匂いが満ちていた。
人の声が重なり、泣き声が響き、足音が行き交う。
生きている者たちが、生きるために動いている。
その光景を永重は黙って見つめた。
ふと空を仰ぐ。
青い。
どこまでも澄み渡っている。
雲ひとつない。
陽は何事もなかったかのように地上を照らしている。
永重は目を細めた。
これほど穏やかな空が、今はひどく残酷に思えた。
空は何も知らない。
地の底で何が起きたのかも。
人が土に埋まり、家が潰れ、誰かが泣いていることも。
ただ青く、そこにある。
永重は再び村へ目を戻した。
そして、土に汚れた手をゆっくりと握り直した。




