6-9 丹波亀山
三騎は城下を抜け、領内へと続く街道へ入った。
地面に残る轍の線がわずかに歪み、道端の石仏が少し傾いている。
ただそれは、気をつけて見なければ見過ごしてしまうほどの変化だった。
最初の集落に入ると、人の気配はすぐに感じられた。
家々の戸は半ば閉ざされ、軒先に立つ者たちは馬上の三人を見て、安堵とも警戒ともつかぬ表情を浮かべる。
幼子を抱いた女が深々と頭を下げ、老人が杖を突きながら道端に寄った。
「御武家様が見廻りに来てくださったぞ」
誰かが声を上げると、張りつめていた空気がわずかに緩んだ。
永重は馬を止め、夜光の首を軽く叩いてから下馬した。
「怪我人は出ておらぬか?」
近くにいた庄屋風の男が慌てて前に出る。
「はっ……幸い、大事には至っておりませぬ。
土壁が少々崩れ、井戸の縁石がずれた家が二、三……牛が驚いて柵を壊したくらいで」
永重は頷き、崩れたという土壁の方へ視線を向けた。
壁の下には、掃き集められた土と藁屑が寄せられている。
既に応急の手当ては済んでいるようだった。
「まだ揺れることも考えられる、今しばらくは火の扱いと高所には気をつけよ」
「ははっ」
そのやり取りを、馬上の重兼が無言で見下ろしていた。
集落を抜けると、小川にかかる木橋が見えてきた。
橋板の一枚が外れ、端に寄せられている。
小川の流れ自体は変わらず、濁りもない。
その橋の袂には若い衆が集まり、縄と木槌を手にしていた。
「通行に支障は?」
半佐が声をかけると、若者の一人が胸を張る。
「今しがた直しておりました。馬も通れます」
実際、橋は問題なく渡れそうだった。
永重は礼を述べ、三騎でゆっくりと橋を渡る。
橋板がわずかに鳴ったが、揺れはなかった。
そのとき、重兼がぽつりと口を開いた。
「……揺れの割には整っている」
独り言のような声音だった。
「日頃の備えのおかげだろう」
永重は前を向いたまま応じる。
「そうかもしれませぬな」
それ以上、重兼は何も言わなかった。
さらに進むと、田畑が広がる。
畦道にひびが走っている箇所はあるものの、水路は生きており、水は静かに流れている。
農夫たちは鍬を持ったまま立ち止まり、通り過ぎる三人を見送っていた。
永重は胸の奥でひと息ついた。
――少なくとも、この辺りは持ちこたえている。
夜光の歩調は終始安定していた。
地面の違和感を感じ取っているのか、わずかに慎重ではあるが、永重の手綱に迷いなく従っている。
重兼の馬が、ふと鼻を鳴らした。
重兼は手綱を引き、静かにそれを制する。
その仕草は手慣れていた。
「次は、谷向こうの村へ向かいましょう」
半佐が言う。
「あちらは地盤が弱い。見ておかねばならぬ」
永重が答えると、重兼は短く頷いた。
三人は再び馬首を揃え、街道を進む。
空は相変わらず澄んでいたが、どこか落ち着かない静けさがあった。
鳥の声が途切れがちで、風も吹いているのかいないのか分からぬほど弱い。
地は、沈黙している。
谷へと下る道へ入ると、そこは先ほどまでとは明らかに様子が違っていた。
道の土は柔らかく、蹄が沈むたびに水を含んだ音を立てる。
道脇の斜面には、草ごと剥がれ落ちた土が帯のように露出していた。
永重は夜光の歩みを抑え、慎重に馬を進めた。
「……ここは、揺れを強く受けていますな」
半佐が低く言う。
「谷は力の逃げ場がござらぬ」
重兼が短く応じた。
三人はやがて、谷向こうの村を見下ろす場所に出た。
見下ろした瞬間、永重は無意識に息を詰めた。
村は、そこにあった。
しかし――いくつかの家屋が、微妙に沈み込んでいる。
倒壊はしていない。
だが、屋根の傾きが不自然で、柱の一本が明らかに歪んでいる家もあった。
土蔵の壁には大きな亀裂が走り、剥がれ落ちている。
村の中央では、人だかりができていた。
「下りるぞ」
永重が言い、夜光を促す。
谷底に近づくにつれ、空気が変わった。
土と湿った木の匂いに、かすかな血の臭いが混じっている。
村に入ると泣き声が耳に届いた。
若い女が、地面に座り込んでいる。
その腕の中には、額を布で押さえられた幼子がいた。
血はすでに止まっているようだが、布は赤く染まっている。
「薬師か医師は?」
永重が問う。
「……おりませぬ」
年嵩の男が答えた。
「この揺れで、隣村へ渡る橋が崩れまして……
人手も足りず、まだそこに埋まっておりまする……
声はするので完全に埋まってはおりませんが……」
永重は歯を食いしばり、視線を巡らせた。
家の一軒が、裏手の斜面から流れ出た土に押され、半ば埋もれている。
永重は馬を降り、刀を外して地に置いた。
「道具を持ってこい!
梁は無理に引くな、声を絶やすな!」
指示を飛ばしながら、永重は瓦礫に膝をついた。
土は湿って重く、指先に冷たさが残る。
しばらくして、土の中から男が引き出された。
意識はある。
「助かった……」
男はそう呟き、涙と土で顔を濡らした。
周囲から、安堵の息が漏れる。
だが、喜びは長く続かなかった。
地面が、わずかに鳴った。
ごく低く、腹の底に響くような音だった。
「まただ!」
誰かが叫ぶ。
永重は咄嗟に周囲を見回した。
斜面の上――
先ほどから不自然に盛り上がっていた土が、ずるりと動く。
「退け!」
永重の声と同時に、土砂が崩れ落ちた。
量は多くない。
だが、一直線に、村の端の家へと流れ込む。
家屋は耐えきれず、柱が折れ、屋根が沈んだ。
叫び声。
永重は駆け出そうとしたが、その腕を掴まれた。
「待て!」
重兼だった。
「巻き込まれるぞ!」
一瞬、永重は振りほどこうとした。
だが、次の瞬間、斜面の別の箇所から土が落ちるのが見えた。
――止まれ
理性と感情が胸の内で激しくぶつかる。
やがて、土の動きは収まった。
残ったのは、潰れた一軒の家と、泣き叫ぶ声。
永重は拳を強く握りしめた。
「……半佐。応急の手当を続けよ。
重兼殿、これ以上崩れぬか斜面を見てくれ」
重兼は一瞬だけ永重を見たが、すぐに頷いた。
「承知いたした」
重兼は斜面へ向かい、地を確かめるように歩いた。
その背は、先ほどよりもわずかに前のめりだった。
永重は村人たちの方へ向き直る。
「怪我人を集めよ。
今すぐ直せぬ家の者は、寺へ移す。
夜になる前に火と水を確保せよ。糧秣はこちらで用意する」
村人たちは混乱の中でも、その声に従い動き出す。
倒れた家は一軒。
死者は、今のところ出ていない。
谷には、湿った土の匂いと、人の声が満ちていた。
空は変わらず澄んでいる。
そのことが、かえって残酷に思えた。




