4-4 行徳寺【朗報】
【編集】
2026.8.7 文章構成含め、全体的に改稿しました。
笛の音が、境内の静寂を鋭く裂いた。
一息置く間もなかった。
薪を割っていた者は斧を放り、井戸で水を汲んでいた者は桶をそのままにする。
境内のあちらこちらで続いていた作業は一斉に止み、足軽たちは槍や盾を掴むと本堂前へ駆け戻った。
誰一人として声を上げぬ。
ただ笛の意味だけは皆が知っていた。
松丸も長松も半佐も、人波に交じって本堂前へ急ぐ。
一方で兵庫助だけは逆へ走った。
迷いはなかった。
見張り番の詰める寺門へ一直線に駆ける。
行徳寺の境内は広い。
本堂から門までは一町ほど。
普段なら遠く感じるその道も、この時ばかりは瞬きほどの短さであった。
「――何があった」
門へ着くなり兵庫助が問う。
その声だけが、かすかにこちらまで届いた。
見張り番は息を整える間も惜しむように何事かを告げ、境内の外を指さす。
兵庫助はその先へ目を向けた。
しばし動かぬ。
やがて静かにこちらを振り返る。
「皆、そのまま控えよ。
――性慶殿、長松、松丸、こちらへ」
短く告げると、再び門外へ視線を据えた。
「参ろう」
性慶が歩み出る。
松丸、長松、そして松丸の後ろに半佐が続いた。
四人は足早に寺門へ向かう。
門まであとわずか。
その刹那であった。
木立の向こうから、鎧兜に身を固めた騎馬武者が三騎、音もなく姿を現した。
境内は深い木々に囲まれている。
土は柔らかく、蹄の響きは葉擦れに呑まれていた。
だからこそ、不意を突かれた。
松丸らは思わず足を止めて槍を構える。
その動きを兵庫助は横目で捉えた。
振り返ったのは顔だけ。
無言のまま左腕を静かに差し出す。
それだけで制止の意は十分に伝わった。
松丸は槍先をわずかに下げる。
兵庫助は再び騎馬武者へ向き直った。
三騎の背には旗竿が結わえられている。
風を受け、旗がゆっくりと翻る。
描かれていたのは――
千成瓢箪。
羽柴家の旗印であった。
張り詰めていた空気が、わずかに揺らぐ。
三騎は門前で馬を止めると、揃って下馬し片膝を着いた。
先頭の武者が深々と頭を垂れる。
「――広瀬兵庫助様とお見受けいたす!」
「いかにも」
兵庫助は声色一つ変えずに応じる。
「我ら、羽柴家の伝令にございます」
武者は顔を上げるや、抑えきれぬ昂ぶりをそのまま声に乗せた。
「まず申し上げます!
羽柴筑前守様、変を聞かれ西より引き返され、摂津・山城境の山崎にて明智日向守を討ち果たされましてございます!」
その一言が落ちる。
誰も口を開かなかった。
ただ息をのむ音だけが、境内に満ちた。
武者はなおも続ける。
「さらに筑前守様は近江へ軍を進められ、阿閉貞征・貞大父子を降し、長浜城に在った妻木範賢らも降伏いたしました。
すでに軍はお戻りにございます!」
兵庫助は目を伏せた。
胸の奥で何かがほどける。
「……まことか」
絞り出すような声であった。
「相違ございませぬ。
我らは行徳寺御住職より三之丞様へ宛てられた文をご覧になった、美濃守小一郎様のご指示により急ぎ参じました」
兵庫助は大きく息を吸い込んだ。
そして静かに頷く。
「承知した。
遠路まことにご苦労であった。
これより御方様方へお伝えする。
しばし境内にて休まれよ」
「はっ」
松丸と長松、半佐に目配せする。
三人はすぐに馬の手綱を取り、伝令たちを本堂へ案内した。
兵庫助はその背を見届けると、少し遅れて門へ着いた性慶と目を合わせる。
互いに言葉はない。
それでも十分であった。
「――これより御方様方へお伝えいたします。
共に参りましょう」
二人は並んで本堂へ歩き出す。
その途中、本堂前では足軽たちがなお固唾をのんで兵庫助を見つめていた。
兵庫助は歩みを止めない。
ただ一言だけ、腹の底から響く声を放つ。
「――帰れるぞ」
一瞬。
誰も意味を測りかねた。
だが次の瞬間、その言葉が胸へ落ちた。
歓声が爆ぜる。
槍を天へ突き上げる者。
その場に膝をつく者。
顔を覆って泣く者。
笑いながら隣の肩を叩く者。
幾日、幾月と張り詰めていたものが、一斉にほどけた。
歓喜の渦は、本堂を越えて境内いっぱいへ広がっていった。




