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【御礼60,000PV到達】戸侯記  作者: 和音
■第一章■ ~旅立ち/本能寺の変~

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22/253

4-4 行徳寺【朗報】

【編集】

2026.8.7 文章構成含め、全体的に改稿しました。


笛の音が、境内の静寂を鋭く裂いた。


一息置く間もなかった。

薪を割っていた者は斧を放り、井戸で水を汲んでいた者は桶をそのままにする。

境内のあちらこちらで続いていた作業は一斉に止み、足軽たちは槍や盾を掴むと本堂前へ駆け戻った。


誰一人として声を上げぬ。

ただ笛の意味だけは皆が知っていた。

松丸も長松も半佐も、人波に交じって本堂前へ急ぐ。


一方で兵庫助だけは逆へ走った。

迷いはなかった。


見張り番の詰める寺門へ一直線に駆ける。

行徳寺の境内は広い。

本堂から門までは一町ほど。

普段なら遠く感じるその道も、この時ばかりは瞬きほどの短さであった。


「――何があった」

門へ着くなり兵庫助が問う。

その声だけが、かすかにこちらまで届いた。


見張り番は息を整える間も惜しむように何事かを告げ、境内の外を指さす。

兵庫助はその先へ目を向けた。


しばし動かぬ。

やがて静かにこちらを振り返る。

「皆、そのまま控えよ。

――性慶殿、長松、松丸、こちらへ」

短く告げると、再び門外へ視線を据えた。


「参ろう」

性慶が歩み出る。

松丸、長松、そして松丸の後ろに半佐が続いた。

四人は足早に寺門へ向かう。


門まであとわずか。

その刹那であった。


木立の向こうから、鎧兜に身を固めた騎馬武者が三騎、音もなく姿を現した。

境内は深い木々に囲まれている。

土は柔らかく、蹄の響きは葉擦れに呑まれていた。

だからこそ、不意を突かれた。


松丸らは思わず足を止めて槍を構える。

その動きを兵庫助は横目で捉えた。

振り返ったのは顔だけ。


無言のまま左腕を静かに差し出す。

それだけで制止の意は十分に伝わった。

松丸は槍先をわずかに下げる。


兵庫助は再び騎馬武者へ向き直った。

三騎の背には旗竿が結わえられている。

風を受け、旗がゆっくりと翻る。


描かれていたのは――

千成瓢箪。

羽柴家の旗印であった。


張り詰めていた空気が、わずかに揺らぐ。

三騎は門前で馬を止めると、揃って下馬し片膝を着いた。

先頭の武者が深々と頭を垂れる。

「――広瀬兵庫助様とお見受けいたす!」

「いかにも」

兵庫助は声色一つ変えずに応じる。

「我ら、羽柴家の伝令にございます」


武者は顔を上げるや、抑えきれぬ昂ぶりをそのまま声に乗せた。

「まず申し上げます!

羽柴筑前守様、変を聞かれ西より引き返され、摂津・山城境の山崎にて明智日向守を討ち果たされましてございます!」


その一言が落ちる。

誰も口を開かなかった。

ただ息をのむ音だけが、境内に満ちた。


武者はなおも続ける。

「さらに筑前守様は近江へ軍を進められ、阿閉貞征・貞大父子を降し、長浜城に在った妻木範賢らも降伏いたしました。

すでに軍はお戻りにございます!」


兵庫助は目を伏せた。

胸の奥で何かがほどける。

「……まことか」

絞り出すような声であった。


「相違ございませぬ。

我らは行徳寺御住職より三之丞様へ宛てられた文をご覧になった、美濃守小一郎様のご指示により急ぎ参じました」


兵庫助は大きく息を吸い込んだ。


そして静かに頷く。

「承知した。

遠路まことにご苦労であった。

これより御方様方へお伝えする。

しばし境内にて休まれよ」

「はっ」


松丸と長松、半佐に目配せする。

三人はすぐに馬の手綱を取り、伝令たちを本堂へ案内した。


兵庫助はその背を見届けると、少し遅れて門へ着いた性慶と目を合わせる。


互いに言葉はない。

それでも十分であった。

「――これより御方様方へお伝えいたします。

共に参りましょう」

二人は並んで本堂へ歩き出す。


その途中、本堂前では足軽たちがなお固唾をのんで兵庫助を見つめていた。

兵庫助は歩みを止めない。

ただ一言だけ、腹の底から響く声を放つ。

「――帰れるぞ」


一瞬。

誰も意味を測りかねた。

だが次の瞬間、その言葉が胸へ落ちた。


歓声が爆ぜる。

槍を天へ突き上げる者。

その場に膝をつく者。

顔を覆って泣く者。

笑いながら隣の肩を叩く者。


幾日、幾月と張り詰めていたものが、一斉にほどけた。

歓喜の渦は、本堂を越えて境内いっぱいへ広がっていった。




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