②序章
近江国。
天正元年(1573年)、羽柴秀吉は浅井長政の籠もる小谷城を攻め落とし、その武功をもって近江十二万石を拝領した。
秀吉は、かつて今浜と呼ばれていた地を「長浜」と改め、そこに城を築く。これが長浜城である。
やがて秀吉の嫡子・秀勝もまたこの城に入れられ、その傅役を務める藤懸家も城下に屋敷を構えることとなった。
武者が去り、家の中にようやく静けさが戻る。
張り詰めていた息を大きく吐き出したのち、松丸は言った。
「母上。まずは某が参り、話を聞いてまいります」
そう言うが早いか、腰の小太刀に手をかけ、土間へと降りる。
慌ただしく草履に足を通そうとした、そのとき。
「待ちなさい」
低く、しかし凛とした声が飛んだ。
華は同じようにひと息つくと、奥の間へ姿を消し、ほどなく一領の着物を抱えて戻ってきた。
「まずはこれに着替えなさい。その間に、心も少し鎮めましょう」
そう言って松丸を手招きし、丁寧に畳まれていた着物を広げる。
松丸はそのとき、ようやく己の姿を省みた。
身なりも乱れ、平静とは程遠い。
胸の内を見透かされたような思いに、わずかな羞恥が込み上げる。
嫡男とはいえ、このときの松丸は、いまだ元服も済ませぬ十歳の童であった。
折しも近江は、四方を味方に囲まれている。
羽柴勢は中国攻めに総力を挙げて臨んでおり、国元に残るのは老いた者や女子供がほとんどである。
藤懸の屋敷に残っているのも例外ではない。
嫡男松丸をはじめ、母の華は二十七。
妹の志野は六つ。
弟の治郎丸が八つ、三郎太は四つ。
そして、まだ言葉もおぼつかぬ、末の妹お珠が二つになったばかりであった。
幼き者ばかりを抱え、藤懸家を守るお役目は華の双肩にのしかかっていた。
松丸が感じている焦りもまた、嫡男としてその重みを知らず知らずのうちに受け取ってのことに他ならなかった。
着替えを済ませると松丸はふう、大きく息を吐いた。
胸の内に渦巻いていたざわめきも、わずかながら鎮まったようである。
「母上、これより城へ参ります」
そう言って頭を下げ、草履に足を通した。
「何事が起ころうとも、決して取り乱してはなりませんよ。
常に心を静め、事の次第を受け止めなさい」
華は凛とした眼差しで、我が子をまっすぐに見据えた。
「はい。心得ております」
松丸もまた視線を逸らさず、静かに応えた。
草履を履き終え、戸を開けて外へ出る。
門をくぐった途端、城下の空気は一変した。
人々は皆、ただならぬ気配を察したかのように、城を目指して足早に行き交っている。
その波の中へ、松丸も身を投じ、城へと歩を進めた。




