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【御礼60,000PV到達】戸侯記  作者: 和音
■第一章■ ~旅立ち/本能寺の変~

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1-1 長浜城【石川長松】

【編集】

2026.8.5 文章構成含め、全体的に改稿しました。


天正十年(1582年)水無月(6月)上旬――長浜城 藤懸松丸(10歳)



北近江の要衝に築かれたその城は、淡海乃海(琵琶湖)の青を抱くように水際へ張り出していた。


長浜城。

北近江(おうみ)に位置し、淡海乃海(あふみのうみ)(琵琶湖)にせり出して築かれた水城であり、中山道(なかせんどう)に近く、北国街道に通じる陸上交通の要衝(ようしょう)でもあった。


城内には水門が設けられ、湖上へ船が出入りできる構造を備えており、軍事および商工業に関わる物資輸送において水運を活かした機能を有していた。

城郭は三重の堀を巡らせて本丸を防御し三層の天守がそびえている。


城下町は小谷城下の住民を移住させて形成されており、姉川(あねがわ)南岸に居住する国友(くにとも)鉄砲鍛冶を掌握し支配体制を強化する上でも有利な立地であった。



その長浜城が、この日はまるで別の城のようであった。


城門をくぐるなり、松丸は思わず足を止める。

普段なら聞こえるはずの商人の声も城下の笑い声もない。


代わりに響くのは、

「急げ!」

「鎧櫃を運べ!」

「馬を引け!」

という鋭い怒声ばかりであった。


足軽たちは槍束を肩に駆け、小者は鎧櫃を抱えて板敷きを走る。

荷車には兵糧俵や火薬樽が積み上げられ、軋む音を立てながら城内を行き交っていた。

城全体が、大きな獣のように唸りながら目を覚ましたかのようである。


十歳の松丸にも、それがただ事ではないことだけはわかった。

門番の近くで指図をしていた武士を見つけると、駆け寄って深く頭を下げた。

「登城の仰せに従い、参上いたしました。

いずこへ参ればよろしいでしょうか」


武士は忙しなく振り返ったが、童姿の松丸を見ると表情を和らげた。

「家中の者か。それなら本丸じゃ。急ぎなされ」

「かたじけのうございます」

もう一度頭を下げ、松丸は足早に本丸へ向かう。



廊下を渡るたび、人影が忙しく行き交う。

誰もが足を止めない。

誰もが険しい顔をしていた。


本丸の大広間へ通されると、すでに家臣たちがひしめき合っていた。


鎧姿の者、まだ着替えも済ませぬ者、息を切らして駆け込んできた者。

広間には重苦しい熱気がこもっている。


「何事じゃ」

「さっぱりわからぬ」

「京で何かあったらしい」


囁きは波紋のように広がるが、誰一人として確かなことは知らない。

松丸は広間の隅に小さな空きを見つけ、静かに腰を下ろした。


胸の奥が落ち着かなかった。

何かが起きた。

それだけは皆が知っている。

だが、その"何か"が見えぬからこそ、人々の不安は膨らんでいく。


「おう、松丸殿」

声に顔を上げると、一人の少年が隣へ腰を下ろした。

「長松(ちょうまつ)殿。ご無沙汰しております」


石川長松。

美濃鏡島城主・石川家光の四男であり、羽柴家に仕えて近江へ来ていた。

まだ十二歳。

頬には幼さが残るものの、その眼差しだけは武家の子らしい強さを宿している。

年も近く、顔を合わせれば自然と言葉を交わす仲であった。


「何が起きたのでしょう」

松丸が声を潜める。

長松は首を横へ振った。

「わからぬ。されど、この騒ぎじゃ。吉事ではあるまい」

その一言が、胸の内へ冷たい石を落としたように響く。


その時だった。

「皆の者、静まれ!」


奥から鋭い声が飛んだ。

ざわめきは潮が引くように消え失せる。


広間の正面へ歩み出たのは、加藤三之丞(さんのじょう)教明であった。

居並ぶ家臣たちをゆっくりと見渡し、一度息を置いてから口を開く。

「皆の者。急ぎ登城いたしたこと、まこと大儀である」

静まり返った広間にその声だけが響く。


「昨日、京にて変事が起きた」


誰かが息を呑んだ。

「本能寺にて異変ありとの注進が届いておる。

されど仔細はいまだ定かならず。

急ぎ諸方より注進を集めておるところじゃ」


広間の空気が一気に張り詰めた。


本能寺。

その名を聞いただけで、誰もが胸騒ぎを覚える。


「ゆえに、すべての者は直ちに戦支度を整えよ。

いかなる命が下ろうとも、即座に動けるよう備えられよ」

三之丞の言葉は簡潔であった。

それだけに重かった。


誰も口を開かない。

開けなかった。


松丸は拳を膝の上で強く握る。

京で変事――。

信長公がおられる都で、いったい何が起きたというのか。

幼い頭では思いも及ばない。


だが、この城を覆う張り詰めた空気だけは肌を刺すように伝わってくる。


「今は詮議の時ではない。各々、持ち場へ戻れ」

そう言い残すと、三之丞は静かに広間を後にした。


しばし沈黙が流れる。


やがて誰からともなく立ち上がり、鎧の緒を鳴らしながら広間を出ていく。

その音だけがやけに大きく耳へ残った。


松丸も長松と目を合わせた。

互いに何も言わない。

言えなかった。


誰もまだ知らない。


京で起きたその一夜の変が、天下の行く末を覆し、無数の人々の運命を書き換えることを。

そしてその大きな奔流は、幼い二人にも容赦なく迫ろうとしていた。




加藤三之丞教明は、賤ヶ岳の七本槍の一人である加藤嘉明の父です。

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