3-8 美濃道中
誤記修正しました。
今須峠を抜けた一行の前方に、遠目ながら関ヶ原宿の家並みが見え始めた。
先ほどの襲撃からここまで、追撃の気配はない。
殿をつとめ後方に注意を払っていた松丸と長松の目にも、街道を行き交う数人の旅人が映るだけで不審な動きは見当たらなかった。
雨は上がったものの、空はいまだ厚い雲に覆われ曇天のままである。
時刻はすでに昼八つ、未の刻も半ばであろうか。
襲撃への警戒は解かぬままではあったが、一行は兵庫助の指揮のもと混乱することなく進んでいた。
遅れる者もいない。
そのとき、前方から兵庫助が馬を進めて殿へとやって来た。
「不審なことはないか?」
馬上のまま歩調を合わせて問われ、長松が答える。
「今のところ異常はありませぬ」
松丸も深くうなずいた。
「そうか……松丸、長松」
兵庫助は馬を降り、手綱を引き二人と並んで歩きながら名を呼んだ。
「先ほどは二人とも大儀であった」
穏やかにそう言うと、まず長松に目を向ける。
「本格的な戦いは初めてであったろう。
慌てず、恐れず、よく後背を見てくれた」
長松は歩みを止めぬまま、無言で深く頭を下げた。
続いて兵庫助は松丸を見る。
「そして松丸。そなたもよく働いた。
弓を射られれば普通は身が竦むものだ。
それを、敵を抑えるまで動いた……大したものだ」
前を見据えたままの兵庫助の言葉に、松丸は震える声で答えた。
「……違うのです」
二人が驚いて松丸を見る。
「某は……怖うございました。
稽古とはまるで違い、身体も震えました。
ただ……初めて『覚悟』というものをした気がするのです」
その言葉を聞き、兵庫助の表情は驚きから柔らかな笑みへと変わった。
「そうか……松丸、長松」
再び前を見据え、静かに言う。
「怖いものを怖いと言えること。
それを受け止め『覚悟』と呼べること。
それは、武士として決して悪いことではない」
そう言うと兵庫助は馬に飛び乗り、言葉を続けた。
「臆病と呼ぶ者もおろう。だが違う。
恐れや痛みを口にできるのは、そなたが強いからじゃ。儂はそう思うぞ」
兵庫助の言葉に松丸は思わず唇を噛んだ。
鼻の奥がつんとした。
長松は横目で松丸を見やり、ほんのわずかに口元を緩める。
それは笑みとも安堵ともつかぬ表情だった。
「……恐れを知る者は、仲間を見捨てぬ」
馬上から兵庫助が続ける。
「己の命の重さを知っておるからこそ、他人の命も量れる。
戦場で最も危ういのは怖れを知らぬ者よ」
そう言い残すと兵庫助は手綱を引き、再び前方へと馬を進めた。
雲間からわずかに光が差し、湿った街道の先に関ヶ原宿の屋根並みがはっきりと見えてくる。
人の往来も増え、馬の嘶きや荷車の軋む音が遠くから風に乗って届いた。
松丸は深く息を吸い吐いた。
まだ足は重く、身体の端々に痛みは残っている。
(これが……覚悟、か)
隣を歩く長松がぽつりと低く言う。
「生きて着いたな」
松丸は小さくうなずき、前を見た。
関ヶ原宿はもうすぐそこだった。
ここまでに登場した主な人物です。
※()カッコ内は「3-8 美濃道中」時の年齢です。
○藤懸 松丸(10)
この物語の主人公。元服前の藤懸家嫡男。
○藤懸 永勝(30)
松丸の父で藤懸家当主。羽柴秀吉の嫡男・秀勝の傅役。
羽柴家の中国攻めに参加している。
○藤懸 華(27)
松丸の母。当主留守中の家を守っている。
○藤懸 志野(6)
松丸の妹。自由闊達な性格で元気一杯。
○藤懸 次郎丸(8)
松丸の弟で藤懸家次男。
○藤懸 三郎太(4)
松丸の弟で藤懸家三男。
○藤懸 珠(2)
松丸の妹で藤懸家次女。
●石川 長松(12)
羽柴家の奉公人。美濃鏡島城主である石川家光の四男。
今回の美濃行きに同行している。
●広瀬 康親(24)
兵庫助。胆力に富み部下からの信望も厚い。
秀吉の覚えもめでたく、三之丞の指示により今回の美濃
行き一行を差配している。
●性慶(34)
称名寺住職。
今回の美濃行きに同行している。
●加藤 教明(47)
三之丞。のちの賤ヶ岳の七本槍の一人である加藤嘉明の父。
秀吉の与力であり矢島にて300石を与えられている。
中国攻めによる主君不在時に起こった変に際し、急遽
長浜城の城代のような役割を担っている。




