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戸候記  作者: まさごろう
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3-4 美濃道中


昨日までの快晴が嘘であったかのように、その朝は夜明けとともに細雨が降り出し、しとしとと止む気配もなく降り続いていた。

低く垂れこめた空からは晩春特有の湿り気が漂い、肌にまとわりつく。


長浜城に集められてから三日。

京で変が起きて四日目の朝であった。


この頃になると市井にも様々な風聞が飛び交い始めていた。


――信長公、ならびに信忠公は討たれたという。

――安土城は炎に包まれ焼け落ちた。

――明智光秀、征夷大将軍に就くとの噂。

――岐阜城もまた落ちたらしい。


いずれも、人の口から口へと伝わる噂に過ぎず、真偽のほどは定かでない。


だが、明智日向守光秀が謀反を起こし、右府信長様の行方が知れぬこと。

安土城が攻められたこと。

そして、この長浜城が明智勢の手に落ちたこと――

これらだけは、もはや疑いようのない事実であった。


昨夜、兵庫助より齎された長浜落城の報は、確かに衝撃ではあった。

されど松丸の胸中は、思いのほか静かであった。


戦は起きなかった――。


口に出して言えることではないが、正直なところ松丸は安堵していた。

母や弟たち、家族が皆無事である。

それこそが、今の松丸にとって何よりの吉報であった。


やがて出立の支度が整い、松丸ら一行は円乗寺本堂前に静かに居並んだ。

雨に濡れた石段は鈍く光り、境内には水音のみが満ちている。


ほどなくして、奥の方より兵庫助を先頭に、御方様方が本堂脇の廊下を伝い姿を現した。


本堂前の階段に立つと、兵庫助は一同を見渡し、


「皆、準備は整っておるな?」


と声をかけた。


松丸らは揃って「おう」と短く応える。


兵庫助はひと呼吸置き、言葉を継いだ。


「さて、これより我らの向かう先だが――」


一瞬の間。

雨音がやけに大きく聞こえた。


「池田紀伊守様の居城、大垣城を目指す」


その言葉に、松丸らはふたたび揃って「おう」と応えた。



御方様方をふたたび輿に乗せ、一行は円乗寺を出立した。

出立してしばらくしたのち、前方より兵庫助がこちらへ馬を寄せてきた。


「長松、松丸、これからのこと話しておく」

そう言うと兵庫助は馬を降り、手綱を引きながら共に歩き始めた。


「先程申した通り大垣城へ行く。

が、大垣城に至るには今須宿から垂井峠を抜け行かねばならぬ。

美濃、ここより東はそれほど乱れてはおらぬと思うが峠越えせねばならん」


ぶるると馬が嘶いたため、なだめながら一呼吸置き、

「今日のうちに一気に抜けたい」


中山道を通り大垣まではおおよそ5里から5里半程度である。

輿もいる隊とはいえ、この行軍速度なら行けない事は無い距離だ。


「しかし、何が起きるかはわからん」


西美濃は他と比較し治安も安定している地域ではある。

されど、今はその常が通じない。


「明智の動き次第では、どこに敵が潜んでおるか分からん。

賊も出よう。落人も、野伏もな」


兵庫助はそう言って、松丸の顔をちらと見た。


「何かあれば、まず御方様方を守れ。

そして斬ることより、生き延びることを考えよ」


長松は黙ってうなずいた。

胸の奥で、かすかに何かが引き締まるのを感じる。


「はい」


短く答えたその声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


兵庫助はそれを確かめるように一度だけ頷き、再び馬上へ戻った。




一行は雨に煙る街道を進む。

田畑はすでに田植えを終え、水を張った田面が鈍色の空を映している。

時折農家の軒先から人影が覗くが、誰も声を掛けてはこない。


視線だけが、静かにこちらを追っていた。


松丸は殿(しんがり)を歩きながら、無意識に柄に手を掛けていた。

鞘越しに伝わる冷たさが、現実を思い出させる。


――これからどうなるのか。


思考はそこへ行き着きそうになるたび、松丸は首を振った。

考えても、答えは出ぬ。

今はただ歩くしかない。


雨脚は弱まる気配を見せぬまま、

やがて道は次第に勾配を増し、今須宿へと近づいていった。


垂井峠は、もう遠くない。


その先に何が待つのか、

それを知る者は、この一行の中に一人もいなかった。





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