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転生隠者のまったり生活日記  作者: ひらえす


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9/9

9.異世界のスープと黒パンのランチセット


 月に一度の神殿詣では、セカイさんとの約束だった。

 けれど神殿があるのは、城塞都市バルガの中。

 そこへ入るには冒険者証の提示が必要で、その冒険者証を維持するには、

 定期的なギルドへの納品――つまり“仕事の記録”が欠かせない。


 リッカが外に出る理由は、ただそれだけだった。

 祈るためと、記録を絶やさないため。

 本当は、誰とも会わずに山で静かに過ごしていたい。

 けれど約束を守るために、そして“名義上の冒険者”でいるために、

 月に一度だけ、彼女は人の町へ降りてくる。


 転移の光が消えると、冷たい風が頬を撫でた。

 森の中。街道から少し離れた転移地点だ。

 冬の近い空気が、肌を刺すように冷たい。

 リッカは外套の裾を押さえ、息を白く吐いた。


 山の家からここまでの距離は、徒歩なら二週間ほど。

 それでも、転移を使えば数瞬だ。

 便利なのに、来るたびに疲れる。

 空気の密度が違いすぎるのだ。

 人の多い土地の気配に、体が慣れていない。


(……さっさと済ませよう)


 自分に言い聞かせながら、街道を歩く。

 やがて見えてくるのは、木柵の関所。

 門番が二人、焚き火を囲んでいた。

 リッカの姿を見つけると、片方が軽く手を挙げる。


「おや、今月も来たのか。神殿かい?」


「ええ。……通してもらえますか」


「もちろん。記録だけ付けとくよ」


 簡単なやり取りだけで通してもらえる。

 もう彼らも、彼女が何者か知っている。

 関所を抜けると、冷たい空気にパンとスープの匂いが混ざった。

 城塞の内側から漂ってくる人の匂い。

 それだけで、胸の奥が少しざわつく。


 石畳を踏みながら、リッカはギルドへ向かった。

 昼下がりの古い二階建ての建物。

 入口の扉を押すと、金属の鈴が小さく鳴る。

 中は思ったよりも明るい。

 奥のカウンターでは、アーバンが帳簿をめくっていた。


「おや、リッカさん。神殿の帰りかい?」


「ええ。今月も、キノコと薬草を持ってきました」


「助かるよ。冬支度の時期で、乾燥が追いつかなくてね」


 アーバンは慣れた手つきで秤を出し、淡々と作業を進めた。

 その落ち着いた声が、妙に心地よかった。

 リッカは、買い取りを終えると軽く会釈した。

 ――本当なら、このまま帰るつもりだった。


 だが、アーバンがふと思い出したように言った。


「そうだ、食堂のばあさんが呼んでたよ。

 “ランチ、ちょっと残ってるからリッカちゃん呼んできて”って」


「……私を?」


「そう。たまには食べてけってさ。

 スープが余ると、もったいないだろう?」


「……お気持ちだけで」


「まあまあ。断るのはあとにして、顔くらい出してやんな」


 アーバンの口調は柔らかかった。

 押しつけがましくもなく、ただいつもの調子だ。

 リッカは短く息を吐いて、扉の方を見た。

 行くかどうか少し迷って――結局、歩き出していた。


 ギルドの隣、石壁づたいに小さな暖簾がかかっている。

 扉を開けると、ふわりと温かい空気と匂いが流れ込んだ。

 薪の香りと、煮込みスープの匂い。

 そのどちらも、山にはない匂いだった。


「まあまあ、ほんとに来たのかい! アーバンの言葉が効いたねぇ」


 奥から女将が顔を出した。

 丸い体つきに、柔らかい笑い声。

 リッカは少し身を縮めて、静かに言う。


「……ありがとうございます。お気持ちだけで……」


「はいはい、言うと思った。残りもんだけど、温かいよ」


 女将は笑って、奥へと引っ込んでいく。

 リッカは壁際の席に腰を下ろした。

 窓の外では、灰色の空の下を人が行き交っている。

 ざわめきと足音。

 世界がこんなにも音に満ちていたことを、少し忘れていた。


 木の皿が置かれる。

 スープと黒パン。

 根菜とキャベツ、挽き肉の団子。

 湯気の向こうに、素朴なコンソメの匂いが立ちのぼる。


「チーズ塗っといたからね。パンは固いから、スープに浸して食べな」


「……ありがとうございます」


 女将は「ゆっくりお食べ」とだけ言って、奥へ戻った。

 匙を手に取り、スープをひと口。

 塩気が舌に触れ、体の奥まで染みていく。

 外気で冷えていた指先が、少しずつ戻ってくる。

 一度カリッとリベイクされたチーズとパンをスープに浸して口に運ぶと、酸味と油が混ざり合う。


(……温かい)


 喉が鳴った。

 胸の奥に何かが灯ったようにぽわりとあたたかくなった。

 それは懐かしさにも、安心にも似ていたが、

 すぐに冷めていく儚い火だった。


 食べ終える頃には、外の風の音が聞こえていた。

 店内は静かで、暖炉の薪がぱちぱちと弾ける。

 その音を聞いていると、ほんの少しだけ心が落ち着いた。


「どうだい? 口に合ったかい」


 いつの間にか女将が隣に立っていた。

 リッカは小さく頷く。


「はい。おいしかったです」


「それはよかった。また来なさいな。冬はひとりで籠もると冷えるよ」


 その言葉に、なんと返せばいいかわからなかった。

 リッカはただ会釈して、席を立った。


 扉を押すと、外の風が冷たい。

 灰色の空、石壁の上に舞う白い雲。

 けれど胸の奥には、確かに温度が残っていた。


 世界の中に、自分の呼吸がある。

 それだけを確かめるように、リッカはゆっくりと息を吐いた。

 白い吐息が空に溶けていく。


(……来月も、ちゃんとバルガに……)


 それは誰にも聞こえないほど小さな声だったが、

 確かにこの世界の空気の中に溶けていった。



本日のご飯

ギルドに併設された食堂&酒場にて。


・季節野菜と挽き肉団子のスープ(塩気強めの素朴なコンソメ)

・黒パンと発酵乳脂(クロテッドチーズ風)

・高原の井戸水(冷たく澄んでいて、ほんのり甘い)

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