11.なんでもない朝のバターロールとコーヒー
今回は、バターロールとコーヒーだけの朝ごはんです。
特別なことは何も起こりません。
山奥のログハウスで、リッカがのんびり朝食を食べるだけのお話です。
少しだけ丁寧に淹れたコーヒーと、アイテムボックスから出したバターロール。
そんな朝をお楽しみください。
朝。
リッカはアイテムボックスから、五つ入りのバターロールの袋を取り出した。
袋越しに、まだほんのりとしたパンの温もりが残っている気がする。焼きたてではないはずなのに、指先に柔らかい弾力の記憶が伝わってくるようだった。
皿は出さない。
袋を開けると、ふわりと甘い香りが立ちのぼった。小麦の香ばしさと、控えめなバターの匂いが混ざり合って、朝の空気に溶けていく。
ひとつ摘まむと、指の腹にやわらかく沈み込む。軽く押すだけで形が変わるほどの柔らかさだ。
それから、少しだけいいコーヒー豆を取り出して挽いた。
豆を砕く音は小さく、けれど確かに耳に残る。挽きたての粉からは、深い苦味とほのかな酸味が混ざった香りが一気に広がった。
お湯を沸かし、ペーパーフィルターに粉を入れる。
湯気が立ちのぼるたび、空気が少しだけ湿り気を帯びる。指先に触れるカップの縁はまだ冷たく、これから温まっていくのが分かる。
最初に少しだけお湯を注いで、蒸らす。
じわり、と粉が膨らみ、香りが一段と濃くなる。焙煎された豆の匂いが、部屋の中にゆっくりと満ちていく。
その間に、バターロールをひと齧り。
歯が沈んだ瞬間、外側の薄い皮がかすかに弾け、中の生地がふわりとほどける。舌の上でバターの油分がじんわりと広がり、ほんのりとした甘さが後から追いかけてくる。
もうひと齧り。
口の中に残るパンくずが、柔らかくほどけていく感触を楽しみながら、リッカは湯の様子を見る。
頃合いを見て、細くお湯を注ぐ。
ぽたり、ぽたりと落ちる濃い色のコーヒーが、フィルターの中で静かに染みていく。落ちるたびに、香りが少しずつ変わり、苦味の輪郭がはっきりしていくのが分かる。
その間も、またパンを齧る。
口の中の温度はパンのぬくもりで少し上がり、そこへコーヒーの香りが重なっていくのを想像する。
急がず。
けれど、わざわざ待ちもしない。
コーヒーが落ちきる頃には、最初のバターロールは半分ほどなくなっていた。
濃いめに淹れたコーヒーをカップに注ぐと、立ちのぼる湯気が鼻先をかすめる。苦味の強い香りが、朝の空気を一瞬だけ引き締めた。
カップを軽く持ち上げると、外側の熱がじんわりと手のひらに伝わる。
「よし」
そこでようやく、朝ごはんの始まりだ。
とはいっても、皿はない。
バターロールの袋と、濃いコーヒーが一杯。
それだけで十分だった。
まず、コーヒーをひと口。
「……うん。濃い」
少し苦い。
けれど、それがいい。
口の中に残ったバターロールの甘みとバターの風味が、コーヒーの苦味でちょうどよく締まる。
リッカは袋から二つ目を取り出した。
ふかふかしたパンをちぎることもなく、そのまま齧る。
ひと口。
コーヒー。
またひと口。
これだけで、ちゃんと朝ごはんになる。
卵を焼こうとか、スープをつけようとか、そんなことは考えない。
今日はこれが食べたかったのだ。
それなら、それでいい。
リッカは椅子の背にもたれながら、窓の外へ目を向けた。
山の朝は静かだった。
風が木々を揺らす音が、ときどき聞こえる。
誰かに呼ばれることもない。
急いでどこかへ行く必要もない。
コーヒーが冷める前に飲まなければならない理由すら、別にない。
ただ、温かいうちの方がおいしいから飲む。
「……平和だなあ」
ぽつりと呟いて、またパンを齧った。
そういえば、昔もこうしてコーヒーを飲んでいたような気がする。
もっと慌ただしく。
何かをしながら。
あるいは、次にすることを考えながら。
そんな気がした。
けれど、誰といたのか。
何をしていたのか。
そこまでは、やっぱり出てこない。
「まあ、いいか」
思い出せないものを無理に掘り返しても仕方がない。
今は、コーヒーがおいしい。
バターロールもおいしい。
それで十分だ。
二つ目を食べ終えて、リッカは三つ目に手を伸ばした。
そこで一瞬、止まる。
「……五個入りなんだよね」
全部食べようと思えば食べられる。
たぶん。
しかし、朝から五個はさすがに多いような気もする。
リッカは少し考えた末、三つ目を取り出した。
「三個までは朝ごはん」
誰に言い訳をしているのかは、自分でも分からなかった。
コーヒーをひと口飲んで、リッカは窓の外へ目を向けた。
ログハウスの外には、朝の山が広がっている。
ここは国境近くの山奥だ。
人里からは遠く、わざわざ用事でもなければ誰かが訪ねてくるような場所ではない。
周囲を囲むのは、どこまでも続く木々と、その向こうに重なる山並み。
朝の光を受けた葉の先にはまだ露が残り、ときおり風が吹くたび、細かな雫がきらきらと落ちていく。
そして、ログハウスのすぐ前には小さな畑がある。
ハーブ畑だ。
もっとも。
「……半分くらい、いまだに何なのか分からないんだけど」
リッカはコーヒーを飲みながら呟いた。
緑の濃いもの。
銀色がかった細い葉を伸ばすもの。
丸い葉を地面いっぱいに広げているもの。
紫色の小さな花を咲かせるものもあれば、触るだけで強烈な香りを放つものもある。
前世でも見たことがあるようなものも、いくつかは混じっている。
けれど、それ以上に多いのが、リッカの知らない植物だった。
この世界にしかないハーブなのだろう。
薬になるもの。
料理に使えるもの。
お茶にできるもの。
魔物避けになるもの。
中には、魔力を含んでいるらしいものまである。
植えた覚えのないものが勝手に生えていることも珍しくない。
そして何より、よく育つ。
「まあ、元気ならいいか」
何とも大雑把な管理だった。
必要になれば摘む。
分からないものは、とりあえず放っておく。
増えすぎれば少し刈る。
その程度だ。
それでもハーブたちは毎年好き勝手に芽を出し、好き勝手に広がっている。
リッカとしても、それで困ることはなかった。
コーヒーをもうひと口。
苦味が舌に残る。
そのままバターロールを齧りながら、風に揺れる畑をぼんやり眺める。
今日も、特に急いですることはない。
それは、とてもいいことだった。
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本日の朝食メニュー
アイテムボックスより、
バターロール(5個入り)
コーヒー(グアテマラブレンド・粉)
お読みいただき、ありがとうございました。
今回は本当に、バターロールを食べてコーヒーを飲んでいるだけでした。
でも、リッカにとっては、こうして何も急がず、自分のためだけに朝の時間を使えることそのものが、かなり贅沢なのかもしれません。
次回も、たぶん大きなことは起こりません。
のんびりした異世界暮らしに、またお付き合いいただけましたら嬉しいです。




