第五話 釣りなのです~トトキ vs 魚たち~
手元のリールから釣り糸が、勢いよくシュルシュルと出て行きます。
「……」
ここの水深からすると、そろそろ団子が着底するはず。
そう思った矢先、糸にかかっていた張力がフワリと弛みました。
「っ!」
すかさずベイルアームを下ろして軽くリールを巻き、釣り糸に程よい張りを持たせます。
棒浮き『紅き天啓』は団子の重みによって、その大半を海中に沈めています。
それが割れると同時に、棒浮きの大半が海上へと現れることになるのです。
これもまた、浮きの使い方の一つです。
海水に溶け崩れて、団子エサの中からオキアミが現れる。
その瞬間が最も魚のかかりやすいタイミング。
まずはそこに集中します。
「……」
どんなに些細な情報も逃さないために、全神経を釣り竿へと引き絞ってゆきます。
今の私は産卵期の鯉のごとく、微かな振動にも敏感な状態。
しっかりと両手に伝わってきます。
規則的な波の振動と、ランダムな潮風がもたらす竿の揺れ。
集中力の上昇とともに、私と海以外が全て止まってゆく。
そこは高周波の耳鳴りにも似た、硝子みたいに結晶質な世界。
……そろそろ来る。
そう思ってから11秒後、『紅き天啓』が浮き上がりました。
誤差が大きい。
想定していた海流の強さを、プラス修正します。
その後、暫く待ってもアタリはありません。
ひとまずリールを巻いて、仕掛けを引き上げます。
勝負所は本命エサが飛び出した瞬間。
ただ待つより手数を増やすほうが、より釣れやすいと判断したのです。
再びオキアミを団子に包んで、海中へと投入します。
……そろそろかな。
誤差5秒後、浮きが海面に現れます。
さらに海流の情報を修正。伴って投入済みの撒き餌も、拡散具合が変動します。
思ったより拡がっているかもしれません。
そう思った途端、手元に微細な違和感が走ります。
「スッ」と一気に沈む棒浮き。
すかさず竿を上げてアワセます。
アタリ具合と引きの弱さからして、それなりに小物です。アジでしょうか?
なんにせよ、リールを巻き終わるまで余裕が出来たので説明するのです。
「アタリ」というのは、魚たちがエサを口に入れたり、ツンツンと口でつついたりする時の浮きの動きや、竿への振動のことを言います。そして「アワセる」というのは、魚がエサを口に含んだタイミングを見計らって竿を動かし、グイッと針を魚の口に刺し込むことを言います。
これをしないと、エサごと針を吐き出されたり、途中で針が外れたりします。
いわゆるバラシ、というやつです。引きが強い魚が掛かった時ほど、バラシてしまうとテンションが下がります。逃した魚は大きいのです。
さて、海面付近に魚影が見えてきました。
太陽光に照らされて、キラキラと銀色に光っています。
魚の動きに合わせて、
「んっ」
釣り上げました。
手の平に収まったそれは、やっぱりアジさんです。
サイズは12㎝くらいでしょうか。
この程度の大きさなら、『対チヌ戦用究極ロッド1.5号』の敵ではありません。
「ナイスだ、ときとき!!」
後ろのほうで陽毬ちゃんが歓声を上げています。
さっそく針から外して、アジさんを投げ渡しました。
「とっきん、ナイスパス!」
普段の元気な動きとは対照的な、流れるように無駄のない手捌きで魚をキャッチ。
用意してあった大水槽にそっと放します。
この間、約3秒。
魚に可能な限りダメージを与えない、ソフトなタッチと手早さを両立した動きです。
釣った魚を新鮮に保つには、調理の寸前まで元気に生かしておくのが一番なのです。
こうして陽毬ちゃんにパスするのがいつものパターンです。
足元にあんなサイズの水槽があったら邪魔すぎるのです。さらに言うと、投げ渡してしまえば直ぐにエサを付け直して釣りが再開できるので、効率よく手数が稼げます。
そして陽毬ちゃんも、場合によっては釣りが終わる前に調理を開始するので、一石二鳥です。
あと、魚をじーっと見ているとインスピレーションが湧くのだそうです。
なんと一石三鳥でした。
さて、オキアミと団子を付け終わりました。
さっきと同じポイント、前方の窪みあたりに投入するのです。
―――チャポン
団子が割れるのを待ちます。
投入した角度などから着地点を予測、修正した海底の情報を基に、割れるタイミングを見計うのです。
…。
……。
………割れる。
確信が脳を過ぎったと同時に『紅き天啓』が浮かび上がります。
「うん」
おおむね良好です。と思ったのも束の間、竿に「ちょん、ちょん、」と微細なアタリが伝わってきます。
「……!」
来ました!チヌは完全に喰いつく前にエサをついばむのです。しかもこの傾向は大物であればあるほど多く見られます。彼らの警戒心の強さを物語る習性です。
一匹のチヌを釣る。
今あるのはそれだけ。
集中力を引き絞ります。
ピリピリとした硬質な空間。
私とチヌ以外が止まってゆく。
―――ちょん、ちょん、ちょん、、、
……来る!
―――ぐぐっ!
一気に浮きが沈む。右へと走る糸。
完璧なタイミングで竿を左へ。
―――ぐぐ、ぐんっ!
過去最高のアワセです!針の食い込んだ手応えはバツグン。会心の出来!!
「おー!!いけ、釣り上げろトトっちゃん!!!」
すかさず陽毬ちゃんの応援が飛んできます。きっと、私の気配が変わった事を察したのでしょう。
さすがの観察眼です。ついつい嬉しくなってしまうのです。
「ふぅ~」
……ここで深呼吸を一つ。
調子に乗ってはいけません。
穏やかなる事を学ぶのです。
気を抜いてバラシてしまえば、もう目も当てられません。
釣り上げるまでが、釣りです。
リールを巻きつつも神経を尖らせて観察し、相手の動きを汲み取って竿を動かします。
1メートル、2メートルと糸を巻き取り、チヌとの距離がじわじわと近くなってゆく。
竿を引く力が軽めなので、サイズは物足りないかもしれません。
仕方ないです。
次こそ大物を釣り上げてやるのです!
などという、浅ましい考えが脳裏を過ぎった時でした。
海面近くまで来たソレの姿がチラッと見えたのは。
私の背中を、ホオジロザメ級の悪寒が駆け回ります。
「っん」
つい生唾を飲みます。
正直、これ以上リールを巻きたくないです。
……とはいえ、このまま磯で立ち尽くす訳にも行きません。
仕方なく、全速力で糸を巻き取ります。どうせならさっさと終わらせるのです!
海面ギリギリまで引っ張られてきたソイツを、無造作に引き上げます。
はたして糸の先に付いていたのは、
「oh……あんまりぜ、トトキさんよぉ」
陽毬ちゃんが力なく崩れ落ちます。
釣り糸に「ぷらーん」とぶら下がるは、丸々と膨れたフグでした。
私も、どっと疲れが来ました。もうグッタリです。
失念していました。
チヌとフグはアタリが似ているのです。
「フグは、フグだけはあかんのやでぇ…」
陽毬ちゃんがエセ関西弁になっています。
まだ若い故、彼女はフグ調理師免許を持っていないのです。
美味しいのに、
目の前にいるのに、
絶対に調理できない。
料理が命の彼女にとって、フグは天敵と言っても良い存在なのです。
物凄い勢いでテンションが下がる私と陽毬ちゃん。
……しかし、本当の悪夢はここからなのでした。