第九話 釣りなのです~トトキ vs チヌ~3
現在時刻は17:52。
あと30分で魚たちの食欲がピークを迎え、そこからは次第に減退して行くことになります。
もちろん、目前の巨大チヌだって例外ではありません。
早く釣り糸を垂れなくては、この千載一遇のチャンスを棒に振ってしまいます。
さっさと海流の上手側に本命のエサを投げ入れたい。
そんな誘惑に身がジリジリと焦がされます。
しかし、急いては必ず仕損じます。
欲を持ちながらも冷静に。
釣りにおいて穏やかなる事を学んできた、その成果をここにぶつけるのです。
状況を分析するに、今の位置でチヌに釣り針をかけたとしても直ぐ傾斜の奥に飛び込まれ、その高低差を利用して釣り糸を岩に擦れさせてくるでしょう。
そうなれば、ただでさえギリギリの細さしかない釣り糸はひとたまりも無いのです。
もっと小柄なチヌであれば、適当に泳ぎ回って抵抗するくらいが相場でしょうが、今回のように年季の入った魚は身の守り方も心得ているものです。
この大きさになるまで生き延びてきただけの事はある、といったところです。
もっと太い糸を持ってくるべきでした。
とはいえ無い物ねだりな上に、沖釣り並みのサイズを相手取ると予想するのは流石に難しいのです。
ならば、どうするか。
御察しの通り、撒き餌で誘き出すことにします。
このチヌも口を開けたまま動こうとせず、エサが自動的に入って来るのを待つ姿勢です。
その巨大な魚体と年季の入った色合いが相まって、岩の塊を相手にしているような気にさせられます。
これ、動くんでしょうか?
「……穏やかなる事を学べ」
いいえ、動くはずです。これはただの魚です。岩塊ではないのです。
「すぅぅ……はぁぁぁ」
深呼吸してから心象風景を広げて、凪いだ心を手繰り寄せます。
さあ、最適解を再計算です。
…
……
………。
「おいで、最適解」
導き出した道程に順って、チヌの上流域に撒き餌として団子エサを追加します。
ただし、突如として増えると怪しむかもしれません。
しかし今は時間がありません。可能な限り多めに与えたいので、警戒心を刺激しないギリギリをこの『瞳』で見極めながら投入してゆきます。
しばらく集魚剤たっぷりの撒き餌を摂取すれば食欲スイッチが入るはずです。
それに、もうすぐ夕方のマズメ時、夕マズメになります。
そうすれば、いわゆる活性が高まった状態になって活動的になるのです。
いかに経験豊富な巨大チヌとはいえ、活性と食欲が同時に高まれば、ほぼ間違いなく動く。
小ぶりな団子を投入しながらも、注意深く相手を観察をし続けます。
―――マズメ時まで25分
今はまだ動く気配がありません。
ただただエラが悠然と開閉されるだけです。
―――マズメ時まで10分
まだ動こうとしません。
寄ってきた小魚が巨大チヌにビックリして逃げて行きました。
―――マズメ時まで2分
やはりまだ動こうとしません。
―――そして、マズメ時
変化なし。
まったく動こうとしません。
「……」
どうするべきか。このまま待ってもジリ貧かもしれません。糸切れのリスクを冒して勝負に出るべきか、あるいはチヌの頭上から撒き餌してフカセ釣りに切り替えるか。いや、それとも……あるいは……。数々の手法が脳内を駆け巡っては溢れかえりぐるぐると目が回るような酩酊感と強烈な焦燥感が心を支配してさながら釣具箱をひっくり返したかのように煩雑な
「……っ、だめっ!!」
想定通りにならない不安に翻弄される自分を自覚して、全てをリセットする為に自ら喝を入れます。
危なかったです。あのまま行けば、思考能力が低下したまま判断を下して、あやうく自滅するところでした。
落ち着かなくてはいけません。
……まずは、再計算なのです。
…
……。
「うん」
出ました。
今の状況であってもやはり、このまま待つのが最善だと思われます。
ただ、撒き餌の構成を変えつつチヌの反応を伺ってみようと思います。
まずは配合エサを『チヌ殺し』に変更してみるのです。
いえ、本当に殺すわけではないですよ?誉め殺しとか殺し文句とか、そういう方向の「殺し」です。
大仰な名前が付けられているだけあって、チヌを誘き寄せる能力には定評のある配合エサです。
ただ、かなりの確率で他の魚も誘き寄せてしまいます。もはや魚殺しに改名すべき商品だと思います。
それゆえチヌだけを狙い撃つ場合は、使うタイミングが難しいのです。
ただし、今回に限って言えばその例に漏れます。
これだけ巨大なチヌが鎮座していれば、他の魚が寄り付くこともないでしょう。ふらりとやって来ても直ぐに逃げ去るはずなのです。
そうと決まれば善は急げ。
『チヌ殺し』で作った団子エサを投入します。
あ、釣り針にもオキアミと団子を付け直しておかなくては。
そう思って陸上にある私の身体が作業に入った矢先、目前のチヌから放たれるプレッシャーが跳ね上がりました。
「っ!」
チヌの両眼が海中にある私の瞳を覗き込んだ、ような気がしました。
気のせいだとは思います。けれど、目が合った時に感じた獰猛な笑みの気配は、この心の中へと焼き付けられているのです。
とにかく、確かなのは事を述べるならば。
大きく気後れした瞬間を見計らったかのようなタイミングで、巨大チヌは投げ込んだばかりの団子エサへとロケットスタートを切ったのでした。
「?!」
まずいです!
早く釣り針付きのエサを、いや追加の撒き餌を入れるべきか、それとも
……違います。
同じ轍は踏みません。
冷静に再計算を開始します。
「……よし」
計算に従って幾つかのポイントに団子エサを投入します。
一方、初めの『チヌ殺し』を投入した場所に到達した巨大チヌは、そのスピードを保ったまま団子エサにタックルします。
衝撃にひび割れて、直ぐさま溶け出してしまう団子エサ。
中から飛び出したエサを瞬く間に食べ切って、そそくさと退散しようとしています。
しかし、無償でエサをやった覚えは無いのです。
更なるエサを求めて何処かへ行こうとするチヌを包み込むように、三方向から『チヌ殺し』の煙幕が押し寄せます。
必ず無防備になってしまう食事という行為を速攻で終えるのは、野に生きる者が持つべき最低限のサバイバル術です。
その為に食欲スイッチをいきなり全開にした、その戦法は称賛に値します。
しかしそれ故に、もはや食欲に抗う事は困難を極めます。
その状況での配合エサによる煙幕。もはや逃れる事はできません。
そして、狙い済ませたタイミングで投下される針付きの団子エサ。
抗う事なくタックルを敢行し、そして中から現れたのは、他よりも極めて大きな一匹のオキアミ。
そんな、明らかに怪しいオキアミを。
けれど食欲に支配された巨大チヌは疑う事なく一飲みにしました。
「くふふ!」
チヌめ、私を笑った事を後悔しなさい。
ここからは私のターンです!




