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ぼくは、てをひろげた





 傷付きたくなくて

 傷つけられたくなくて


 拒んで



 強く強く閉じた目を

 強く強く抱えた膝を


 そっと、

 ほどけば。





+++




「おーい、チノさぁーん」


 窓の外から声が掛かり、僕は本から顔を上げた。

 風が吹いて翻るカーテンへ近付き、二階の窓から顔を出す。

 下から、僕へと向かって、元気よくぶんぶんと腕を振る人影があった。

 淡い土色の髪と、炎の色をした瞳を持っている少年。

 カエンだ。


「遊びに行きませんかー」


 近くで見たらきっと目が潰れるだろう程に眩しい笑みを浮かべて、彼は言う。

 小さく頷いて、それからすぐに窓辺を離れた。

 待たせたらいけない。早く行こう。

 ほんの数日前、僕は丘の上でカエンに会った。

 それまでは接点なんてなかった。

 土手を転がり落ちて気絶していたカエンを見つけたのは僕だけど、あの時は会話すらしていない。

 それで、丘で会ったあの日、何故か、泣かれて。

 彼の聖火と同じ色の瞳から零れた涙は、とても綺麗だった。

 その後、何故だか僕に笑いかけてくれた彼は、それからどうしてだか僕の所へやって来るようになった。

 僕の前で、彼は笑う。

 太陽みたいに眩しくて、いつも僕は目を逸らすけれど。


「おや、チノ。出掛けてるのかい?」


 廊下を駆けて行くと、ウテン様が応接間から声を掛けてきた。

 開け放された応接間のソファに座る相手に、僕は立ち止まり、頷いて答える。

 僕の仕草に、ウテン様は何故か目を細めた。


「……あまり、遅くなったら駄目だよ? 心配するからね」


 囁くのは、優しくて穏やかな声だ。

 目を上げることが出来ずに、ただ頷くことを繰り返す。

 そして、一度頭を下げてから、また走った。

 袖を引っ張って、自分の素肌が触れないようにしながら玄関のドアを開く。

 カエンは、玄関の前で待っていてくれた。

 風が吹いて、土色の長い髪を揺らす。

 括ってもいない無造作な髪を少し邪魔そうに首を振って後ろへ追いやり、炎色の目が僕を見た。


「支度、速いですね」


 笑んだ声は柔らかい。

 カエンは僕へ近付いて、首を傾げながら僕の顔を覗き込んだ。


「今日は、湖と森と、どっちが良いですか?」


 二つにまで絞り込まれたその選択肢は、これから僕達が行く行き先だ。

 僕は、ただ曖昧に首を振る。何処でもいい。カエンが選んでくれればいい。

 カエンは、ちょっと困ったように笑った。


「……じゃあ、湖に行きましょうか」


 そう言って、カエンは歩き出した。

 僕はそれについて行く。

 少しだけ離れて、でも、あまり離れ過ぎたりせずに気をつける。

 何かをカエンが話しかけて、それに僕は頷いたり首を振ったりした。

 話している間、カエンは僕の方を見るから、それで会話は成立する。

 声を出さないですむことに、僕は、酷く安堵していた。

 やがて、そうしながら歩いていた僕達は、湖に辿り着いた。

 日の光を水面が弾いて、魚がいるのかあっちこっちで波紋が出来ている。


「やっぱり、ここは綺麗だ!」


 カエンは声を上げて、靴だけ脱いで湖の方へ駆けた。

 ズボンの裾を濡らしながら、冷たいと叫んで、楽しそうに笑う。

 それは、水面が弾く陽光と混じって、とても眩しい。

 そう、とても。


「……チノ、さん?」


 目を伏せた僕に気付いて、カエンがこっちへ近付き、顔を覗き込んできた。


「チノさんも入りませんか?」


 気持ち良いですよと言う囁きに、首を振る。

 こんなに綺麗な湖に僕が入って、汚れてしまったら申し訳が無い。

 魚だっていい気はしないだろうし、カエンだって、もう入る気がしなくなるかもしれない。

 折角、あんなに楽しそうだったのに。

 僕の答えを見たカエンは、僕へそれ以上勧めなかった。

 ただ少しだけ困ったように笑って、そのまま一度湖へと戻る。

 それから、湖の水を両手で汲み上げて、こっちへとやって来た。


「チノさん、手を出して?」


 言って、カエンも手を出す。

 戸惑いながらその下に手を差し出すと、カエンが、器のようにしていたその手を開いた。

 指や掌の間から冷たい水が零れて、僕の両手に降り注ぐ。

 冷たい。

 濡れた手を見る僕に、カエンは笑う。


「ね? 冷たくて、気持ち良いでしょう?」


 その笑みは晴れやかで、煌めく水面にも似た眩しさを持っている。

 僕は、ゆっくりと目を伏せた。

 キラキラと綺麗な聖火の瞳。

 柔らかで優しい声。

 それらはとてもとても眩しくて、僕はいつも、目を逸らす。

 カエンは、湖の方へ戻った。

 水を弾いて、楽しげに笑う。

 僕は、その姿を見てから、綺麗な水に濡らされた醜悪な両手へ視線を移した。

 水に濡れた所は、日に照ってキラキラしている。

 そこだけ、綺麗に見えた。

 例え、カエンにその意図が無かったとしても。

 気紛れなのだと、分かっていても。

 水面のキラキラした光とその笑みが眩しくて、僕はまた目を逸らす。

 だって、あんまりにも眩しかった。

 ずっと見ていたら、この顔にある痣ごと焼け爛れて消えてしまいそうだった。

 だから、僕は、太陽から目を逸らした。





+++




 カエンは、毎日来るわけじゃない。

 カエンがやって来なかったその日、僕は一人森の中を歩いていた。

 夜、雨が降ったんだろうか。湿った香りがする。

 嫌いじゃないその香りの中を、ぼんやりと歩いた。

 森の奥で張り詰める、凛とした空気は嫌いじゃない。

 とても清浄なその空気は、吸い込めばこの体を内側から作り変えてくれそうだ。

 清らかとは言えなくても、少しは汚れの薄まった体になれそうだ、なんて考える。

 実際には、雪の中に落とした墨みたいに醜さが目立つだけだと、分かっていた。

 それでもこの空気が嫌いじゃないから、僕は森を歩く。

 静かな静かな森の中には、僕が立てる足音ぐらいしか聞こえない。


「……ふぇ……っ」


 だから、か細いその泣き声が、酷く大きく聞こえた。

 驚いて足を止め、片方しか開いていない視界で周囲を見回して、それがすぐ傍の茂みからだと分かった。

 子供の声だ。

 小さな小さな、赤ちゃんの声だ。

 何で、こんな所に?

 戸惑いながら、そっと茂みに近付く。

 そこには、小さな子供が座っていた。

 柔らかそうな薄緑色の髪は産毛みたいで、ぷくぷくした白い頬だ。

 淡い色の肌着を着ているその子はすごく小さくて、涙混じりの大きな目で、晴れ渡った空を睨んでいた。


「……うー……っ」


 小さいのに、泣くのを堪えるように歯を食い縛っている。

 でも、涙はその深緑の瞳から幾つも零れて、その腕や服を濡らしていた。

 何の精霊の子なんだろう。

 額にある石は淡い緑色だから、草か花か、それとも風だろうか。

 考えている内に踏み出してしまったらしく、僕の足下で茂みが揺れて音がたった。

 それに気付いて、小さな子供がこっちを向く。

 ほんの少しの沈黙の間、僕達はじっと見つめ合ってしまった。


「……あぅー」


 それから、にっこりと笑う子供。

 抱き上げてくれと言いたげに、甘えるようにその手を伸ばして。

 苦しくて、僕はそれに応じてあげられない。

 まるで酸素が薄くなったみたいだ。

 苦しい。

 この子がこんな風に笑ってくれるのは、僕が誰なのかを知らないからだ。

 まだ理解できないくらい幼いからだ。

 だったら、触れられない。触れられる筈が無い。

 もしも、僕のことを憶えていて。

 僕が『忌み子』だと知って。

 この愛らしい子供の瞳が、いつか軽蔑と侮蔑と恐れを宿したら。

 それが、とても恐い。

 体中竦んで身動き一つとれない僕に、不思議そうに首を傾げて、子供がぎこちなく立ち上がる。

 頭が重たそうな小さい体で、それでも立ち上がって、ふらふらと蛇行しながら僕へ近付いてくる。


「うー」


 にこにこ笑って、また僕へ手を伸ばす。

 駄目だ。

 苦しい。


 やめて。


「……ああ、やっと見つけた」


 小さな子供が僕へ触るその直前に突然風が吹いて、声が空から降って落ちた。

 顔を上げると、ほっとした顔で笑う男の人が、宙に浮いていた。

 長い黒髪。空色の瞳。穏やかな微笑みの、風の精霊。

 セイクウ様だ。

 見上げる僕の視線を受け止めながら、セイクウ様は浮遊したまま子供を拾い上げ、その広い胸に抱き込んだ。


「心配したぞ? まだまっすぐ歩けもしないのに、勝手に飛び回るんだから。わんぱくだねお前は」


 叱る、というよりは面白がる顔で、セイクウ様は子供の顔を覗き込む。

 そして、その子のあどけない顔に苦笑してから、ふと僕へ目を向けた。


「おはよう、ウテンの養い子。散歩かな?」


 そよ風みたいな、柔らかい声。

 優しい瞳と、穏やかな笑み。

 それが見ていられなくて、目を伏せる。


「ああ、紹介しようかな。この子は僕の息子。フウキって言うんだ」


 可愛いだろう? と囁く柔らかな声音が聞こえる。

 そうか、あの子はセイクウ様の御子息だったんだ。

 思いながら、どうにか努力して、そっと目を上げた。

 目の前にあるのは、笑みだ。

 柔らかで優しげで暖かな、笑み。

 喉の奥を何かが鬱いでしまったように、息がし辛い。

 苦しい。

 恐い。


「……どうしたんだい?」


 あからさまに顔色を変えてしまったんだろう。戸惑ったセイクウ様が、心配そうに訊ねた。

 それすら、恐い。

 恐い。

 僕は、首を左右に振ってなんでもないと意思表示し、そして大きく頭を下げた。

 それから踵を返し、走り出す。

 あんなにも優しいあの人から、離れたかった。

 恐い。

 恐い。

 恐い。

 ウテン様の言葉もあの子の目も、カエンの笑みも、僕は恐かった。

 どうしてそんなに優しくするのかと、不思議でならなかった。

 あの日ほかの人たちがそうしたように、後でこの手から取り上げるのに。

 どうして。


「……っ」


 闇雲に、僕は走った。

 帰り道が分からなくなっても構わない。

 とにかく走った。

 森の中は、木や草が生い茂っていた。

 だから、分からなかった。

 ただひたすら走り続けて、更に前へと踏み込んだ、その足の下に大地が無いなんて。

 一瞬、僕は空を飛べたのだったろうかと、そんなどうでもいい事を考えた。




+++





 がんがんと、頭が痛くて目を開ける。

 目の前には、空と崖があった。

 崖は結構な高さだ。

 あんな所から落ちたら死ぬかも知れないな、なんて考えてから、辺りに漂う血の臭いに築く。

 ああ、そうか。僕は、あそこから落ちたのか。

 頭が痛いから、多分頭を打ったんだろう。

 でも、僕は死んでいない。高さは足りないらしい。

 思い、起き上がろうとして、体に力が入らないことに気付く。

 何だか、背中も痛い。

 どうにか動く目だけを、きょろりと動かした。

 茶色く変色して乾涸びた少し丈のある草花の上に、赤黒い醜悪な液体が広がっていた。

 僕の血だ。

 多分、頭をぶつけた時に出たんだろう。自覚すると、頭の痛みが酷くなった。

 結構、傷は大きいのかもしれない。

 僕の体から拳程度の幅までの周囲は、草花が全て枯れ萎れていた。血を浴びている所も、そうでない所もだ。

 一生懸命努力して右手を動かし、まだ青々としている草に触れる。

 すると、すぐにそれも枯れた。

 代わりに、ほんの少しだけ、体の痛みが和らぐ。

 茶色くしおれたそれを見ながら、溜息を一つ吐いた。

 死なないのなら、僕は大怪我をするべきじゃないのだと、改めて思う。

 昔から、こうなのだ。

 僕が生まれて、何処かに捨てられて、一人だった頃からだ。

 周りの人達は不憫に思って、優しくしてくれた。

 僕は魔法石が無くて痣があって、精霊かどうかも怪しい見てくれだったけれど、それでも優しくしてくれる人達は居たんだ。

 でも、あの日。

 あの日、僕は、とても大きな怪我をした。

 そして、助けてくれた優しい人達を、殺しかけたのだ。


「……っ」


 僕には、奇妙な能力がある。

 自分が負った傷を、周囲から奪ったエネルギーによって治すのだ。

 あの時は、草や花では無かった。

 死にかけたこの身が欲しがったのは、精霊の体を流れるエネルギーだった。

 精霊の証も無くて、呪われた術と力を持つ、忌み子。

 怪我をしなければ害を及ぼしたりしない、とは思う。

 けど、本当にそうかは分からない。

 触られたら、すぐにエネルギーを絞り取られて死んじゃうのかも知れない。

 優しかった人達は、みんな、僕から離れていった。

 事情を知らぬ子供達は、大人が全て僕から遠避けた。

 一人になってしまった僕を、引き取ってくれたのはウテン様だった。

 優しい方だと、思う。

 でも。

 でも、だから、恐い。

 あの、差し出して貰えた掌が。

 あの、向けて貰えた笑顔が。

 ある日突然憎悪と共に向けられたら、僕はきっと絶望する。

 あの時みたいに。

 周り全てに憎悪しか見つけられなかった、あの日みたいに。

 でも、きっと、それはいつか起こることだ。

 僕はゆっくりと体から力を抜いた。

 ずきずきと体が痛む。頭から足の先まで、あちらこちら怪我をしているのかもしれない。 

 誰かが僕を見つける前に意識を失いそうだなと、そんな風に思った。

 ここが何処なのかは分からないけれど、森の中で、それも多分奥の方で。

 きっと、誰も僕を見つけたりなんてしない。

 世界に僕は必要無いから、僕を誰かが見つける偶然なんて起きないに違いない。

 それでいい気がした。

 後何時間も、何日も、何年も、あの館の中で怯えるのはつらい。

 いつか見捨てられるのだと、それは確信できたから、その瞬間を怯えるのがつらい。

 だったら、さっさとここで終わらせてしまったらどうだろうか。

 そうだ。

 そうだ、それが良い。

 思いながら目を閉じる。

 汚らしい暗闇に一瞬カエンの顔が浮かんで、彼が血まみれの僕を見て顔をしかめたら悲しいなと、ふとそんなことを考えたのを最後に。

 僕の意識は、闇の底へ沈んで溶けた。





+++





「おい、大丈夫か?」


 そんな声に意識を揺り起こされて、僕は目を開けた。

 体中が痛い。頭が、特に痛い。

 ああ、そういえば高いところから落ちたのだっけ。

 ぼんやりと思いながら見上げた視界の中に、逆さまの顔が映っている。

 誰だろうか。

 色々な緑色がその房ごとに分かれて複雑な色合いを出している髪に、エメラルドの瞳。浅黒い肌。

 見たことの無い顔だった。

 僕に近付いてくるなんて、この子は僕の事を知らないのだろうか。

 折角、顔半分を隠すような包帯を巻いて、僕の顔を知らない人が見ても分かるようにしているのに。


 僕は忌み子です。近付かないで下さい。


 そう言って歩いている自覚があったのだけれど、まだ足りなかったのだろうか。

 彼は屈み、何かを言う。けれど酷くその音は遠くて、よく聞き取れない。

 申し訳なくて眉を寄せると、彼の色の黒い手が僕へと伸びた。

 驚いて、目を見張る。

 触る気だろうか。

 止めたいけれど、声を出したらこの子は不快になるだろう。

 どうにか退こうと体を動かして、走った痛みに息を詰める。

 尋常じゃないくらい痛い。

 僕の様子を見てか、彼は僕へ触れる前にその手を止めた。

 それから立ち上がって、また、何かを言う。

 ばたばたと音がしたと思ったら、走っていく。

 逃げ出してくれたのだと気付いて、知らず篭っていた力が抜けた。

 きっと、僕が忌み子だと気付いたのだ。

 良かった。

 苦しめなくて、殺さなくて、本当に良かった。

 痛む掌を握って、息を吐く。

 頭は動かせないくらいに痛い。

 こんなに痛いのでは、あの子が触ったら、きっとあの子の体を巡るエネルギーの全てを僕は吸収してしまっただろう。

 そんなことが起こったら、きっと、子供なんて死んでしまう。

 そんなことが起きなくて良かった。

 ここを子供が通りかかるなんて思わなかったけど、もう大丈夫。

 あの子はもう、ここへは来ないだろう。

 思いながら目を閉じる。

 すぐにやってきた睡魔は、何だか恐ろしいくらいに冷たかった。




+++




「……こっち、こっち!」


 また、声に起こされた。

 今度は、多分僕に向けられた物じゃない。

 よく人の通る場所だったのかと、眉を寄せながら目を開ける。

 度々人を不快にさせるのは、僕だって嫌だ。

 開いた片目の世界で、さっきの子供がこっちへと走って来ていた。

 後ろに、二人くらい人を連れている。

 どうして戻ってきたのだろうか。

 思いながらその後方から続く二人の内の一人を見て、僕は目を見開いた。


「チノさん……!」


 カエンだ。

 大地の色に似た髪を振り乱した彼は、僕の方へと駆け寄って、僕の傍へ屈んだ。

 顔が青い。どうしたのだろうか。

 カエンは僕へと手を伸ばし、でも触れる前に止めて、後ろを見る。

 僕もつられてそちらを見て、そこに立っているその子供に気付いた。

 さっきの男の子が連れて来た二人の内の、カエンでなかった方だ。

 水色の髪をした、水の精霊の子供だった。耳が魚のヒレみたいだ。

 綺麗だなと思いながら、湖の深いところと同じ色をしたその目を見る。

 男の子だろうか、女の子だろうか。

 水の精霊は生まれた時は両性だと本で読んだけど、このくらいの年齢だったら性分化は終わっているはずだ。


「なあスイキぃ、早く治してやってよ」


 ソプラノの声をした男の子がそう呼んで、その子がスイキと言うらしい、と知る。

 彼もしくは彼女が頷いて、僕へと近付いた。

 白くて細い指が、屈んだその子から伸ばされる。

 触れるか触れないかのところで止まったその手には、指と指の間に薄く皮膜があった。水かきだ。

 何か、暖かいものが、その掌から発される。

 その暖かさは傷に染みて、そして優しくて、穏やかな流れだったけれど、そんなことに気を取られてる場合じゃなかった。

 だって、その指は僕の肌や髪や血の傍にあるのだ。少しでも身動けば触れてしまうほどに近くにだ。

 綺麗なこの指が汚れてしまったらと思うと、気が気じゃない。

 それに、苦しそうな顔をしている。

 傷を治したがっている僕の体が、僕の意思などお構いなしに、この子の体からエネルギーを搾取しているのだ。


「……おい、スイキ、大丈夫か?」


 肌の黒い男の子が、心配そうに友達へと近寄る。

 それを合図にして、スイキと言う名前のその子は自分を僕から引き剥がした。尻餅を付いて、僕から離れる。

 きっと驚いただろうと思いながら見つめたその瞳には、けれど僕が慣れ親しんでいた視線とは違うものが宿っていた。

 申し訳なさそうなその瞳に、そっと瞬きをする。

 どうしてだろう。

 僕が忌み子だと、分かった筈だ。

 分からなくても、普通じゃないと、感じた筈だ。

 なのに、どうして。


「……すまない」


 君は何もしていないのに。


「なぁ、治った?」


 男の子が、友達へ近付いて言う。

 スイキという名前のその子は、首を横に振り、男の子からそっと離れた。


「血を止めて、痛みを消して……それで、精一杯だ」


 応急処置、という奴だろうか。

 そういえば、その指に気を取られて忘れていたけれど、痛みが大分無くなっている。これが、彼もしくは彼女の力なのだろうか。


「……まだ、動かしたら危険かも知れない。父様を呼んだ方が良いな」


 僕を見てから、スイキはそう言った。

 そして、男の子を手振りで促す。


「行くぞ、モクカ。急げ」


「あ、うん。ヤカン……じゃなかった、カエン。ちゃんと看てろよ!」


「……ああ」


 何だか良く分からない会話をして、スイキと言う名前の子供と、モクカと言うらしい肌の黒い男の子が走り去り、後には僕とカエンが残された。


「……チノ、さん」


 カエンが、囁きながら僕の方へと体を寄せた。

 膝が、汚い血溜まりに触れて汚れる。

 けれど、それすら厭わない様子で、カエンは僕の顔を覗き込んだ。


「……チノ、さん。……チノ……チノ……ッ!」


 泣いてしまいそうな炎色の瞳が、僕を見た。

 その手が伸びて、しっかりと僕の頬に触れる。

 驚いて、僕は身を捩った。まだあちらこちら痛いけれど、さっきより全然ましだ。

 起き上がって、彼の手から逃れるために後退る。

 その時に触れた植物が枯れたのが、感触で分かった。

 嫌な思いをさせるだろうと申し訳なく思いながら、けれど近付こうとする彼を制止する為に、ずいぶんと久しぶりに口を開く。

 吐き出した言葉は喉に絡んで、みっともなく掠れた。


「さ……わら、な……い、で」


「……チノ……」


「ぼ、僕に……さわ、さわら、ない、で」


 どうか、お願いと。

 それはただの懇願だった。

 僕は今、怪我をしている。血も多分、足りない。

 体が求めるエネルギーは、カエンの幼い体のものでは全然足りない。きっと、吸い尽くす筈だ。

 制御は出来ない。

 出来たら、こんなに恐ろしくはない。

 だから、触らないで欲しい。

 カエンは、座ったまま、黙っていた。


「……」


 そして、枯れた草花を見て。

 その上に広がる、血液を見て。

 さっきしんなりと枯れた草を、覗いて。

 僕を見て。


「……言うこと、ききたくない」


 まっすぐな目をして、そう言った。

 その手が、僕の方へと伸びる。


「きかない」


 宣言したカエンの声を、僕は耳元で聞いた。

 僕は、抱き締められていた。

 驚いて体を動かすけれど、カエンは離してくれない。それどころか、その腕に力が入る。

 苦しそうな息遣いが聞こえ出した。やっぱり、僕はカエンのエネルギーを吸い出しているのだ。


「……はな、れ、て……!」


 慌てて、更に身を捩る。もがく。

 それでも、カエンはその腕を緩めない。

 ただひたすら、僕を抱き締める。

 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう!

 焦って、怖くて、僕は目を潤ませた。

 無理矢理体の間に手を入れて、申し訳ないけれどカエンの胸を強く押しやった。

 けれど、傷で力が出ないのか、元々非力だからか、カエンはびくともしない。


「やめ、て……!」


 君が死んだらどうするのだ。

 殺したら、どうしたらいいのだ。

 短い時間、僕とカエンの中で攻防があって、それから暫くして、カエンが体を離した。

 僕は殆ど自由を取り戻したけれど、カエンの手がまだ僕の左腕を捕まえていることに気付く。

 引っ張っても、離れない。

 泣き出したい気分になりながら、カエンを見る。


「……!」


 放して、と言うつもりだった。

 けれどそれを飲み込ませたのは、カエンの笑みだった。

 柔らかで暖かで優しげな、僕が一番怖いと思う、穏やかな笑み。

 体を強張らせた僕の腕から、ゆっくりとカエンの手が離れていく。


「……楽に、なった?」


 囁きは、優しい。

 とても優しい。


「少しでも、楽に、なった?」


 その問いは、そのまま僕へ衝撃を与えた。

 それは、つまり。


「……知って……?」


 僕の、この特異な体質を、知っているのはごく一部のはずなのに。

 カエンは、微笑んでいる。

 穏やかで暖かで優しげな、僕が得体の知れない化け物だと、分かっていて向けてくれる笑顔。

 僕のことを知っているのなら、その笑みは、今までの行動は全て、憐れみだったのだろうか。

 僕に話しかけたのも僕を外へ誘ったのも僕に構ったのも僕を抱き締めたのも、全部全部全部。

 全てが?


「……」


 ありがたいことの筈だった。

 憐憫だなんて、そんな感情を、こんな僕へ向けてくれるなんて。

 なのに、なんで。


「……っ」


 どうして、涙が出るのだろうか。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しかった。

 胸が潰れてしまったみたいだ。

 突然泣き出してしまった僕を、カエンが眺めている。

 いつかと逆だと、僕は思った。

 丘の上で泣いているカエンの傍に僕が居た時と、丁度逆だ。

 カエンが、また手を伸ばしてきた。

 触れられるのを避けたくて僕は逃げようとしたけれど、その前にカエンの指が僕の頬に添えられていた。

 流れ落ちた僕の涙を拭うように、その指は動く。

 その手には力が無くて、やっぱり彼のエネルギーを相当奪ってしまったのだろうと、僕は自覚した。今だってたぶん、そうだ。


「……なぁ、チノ」


 少し口調の違うカエンが、口を開く。少し砕けた感じだ。

 今までが他人行儀だったのか。それとも、罵る為の下準備だろうか。

 その業火色の瞳に憎悪や嫌悪を見つけるのが怖くて、僕は強く目を閉じた。離れて欲しくて、彼の指から顔を背ける。

 今度は簡単に、それは離れた。

 カエンが囁く。

 

「良かったな」


 ぽつん、と。

 投げて寄越されたその言葉の意味が分からなくて、僕は目を開く。

 目の前にあったのは、優しい瞳と、悪意の欠片も無い暖かな笑みだ。


「全部に好かれるなんて、凄いことだ。よかったな、チノ」


 カエンは繰り返す。

 やっぱり、分からない。


「……全部?」


 恐る恐る問うと、カエンは大きく頷いた。


「大地も、風も、草も、火も、光も……全部だ。全部が、チノの事が大好きなんだって、教わった」


「だい、すき?」


 それは、僕にはなじみの無い単語だった。

 だいすき。

 すき。

 好き?

 全てが?

 誰を。

 僕を?


「……あり、え、ない」


 ゆるゆると首を振る。

 有り得ない。

 だって、僕は呪われている。

 他者のエネルギーを吸い取って殺してしまうような、身勝手な化け物なのだ。

 どうして、そんな僕を好きだというような存在がいるだろう。

 否定する僕に、カエンは言う。


「精霊の属性は、額の魔法石で決まるだろ?」


 言葉に、今度は頷いた。

 知っている。精霊は、皆、額に魔法石を持っている。生まれた時からだ。それによって、司る力が変わる。

 そして、その精霊の証を、僕は持っていない。

 僕は異端の呪いを受けた子供だから。


「でも、チノにはそれが無い」


 こくんと、また一つ頷く。


「だから。チノは、司る力を遮って仕分けるものが無いから、全てが使えるんだよ」


 僕は、じっとカエンを見た。

 子供を騙す理屈を言った子供が、信じてないだろう、と眉を寄せる。


「冗談じゃないぞ? ほら、チノ。手を貸して?」


 言葉と共に力無い手が手首を掴み、枯れた草の上に導かれる。


「こいつが、もう一度上を向けるように、願ってみて?」


 それは、草や花の精霊の仕事だ。

 僕は首を振る。

 なのに、大丈夫だから、とカエンは囁いた。


「少しだけでも、良いからさ。な?」


 僕はカエンを見た。

 カエンは笑っている。

 でも、手を離してはくれない。

 言う通りにしないと、きっとずっと、この手はそのままだ。

 まだ、僕の怪我は完全に治っていないのに、そうやって触り続けていたら、あの日のように、きっとカエンも倒れてしまう。

 だから、僕は目を閉じた。

 茶色に変色して枯れたその草が、首をもたげ、色を取り戻し、空へ向かって起き上がるように。

 ただ、そう願った。


「…………もう、良いよ」


 少しの沈黙の後、カエンがそう声を掛けた。

 だから、目を開ける。


「……!」


 そこには、青々として佇む、僕が枯らしてしまった筈の草があった。


「凄いよな。これが、チノの力なんだって」


 驚いている僕へ告げて、カエンは僕の手を離した。

 僕は、ただ、呆然と、草を見つめる。

 僕が蘇らせた、それを見つめる。


「……俺、チノが結構、大切なんだ」

 

 そんな言葉が耳を打った。

 驚いて視線を向けた先では、カエンが微笑んで僕を見ていた。


「怪我してるって聞いて、どうしようかと、思った」


 怖かったと、呟く声には真実が混じっているみたいで。


「助かってくれて、良かった」


 まだ完全には治っていないけれど、それでも彼がやって来た時よりは回復している僕を見ながら、カエンは言う。

 そして、糸が切れたみたいに横へ倒れた。その顔は青くて、疲れきって見える。


「……ごめんな、チノ。本当は、全部あげても良いんだけどさ」


 恐ろしいことを言いながら、カエンはそれでも笑っていた。

 それは、とても眩しい。


「チノが自分を責めて泣くなんて嫌だから、止めとくな」


 声も、優しい。

 いつかそれがひっくり返ったらと思うと、とても怖い。

 酷い言葉を吐かれて、嫌悪と侮蔑の眼差しを向けられた日を思い出せば、背中がぞくりと震えた。

 けれど。


「……うん。そう、して」


 そっと囁きながら、彼を見つめる。

 カエンは、少し目を丸くしてから、今度は嬉しそうに笑った。

 その笑みは、やっぱりとても眩しい。

 でも、僕は目を逸らさなかった。




+++




 傷付きたくなくて

 傷つけられたくなくて


 拒んでいたけれど


 強く強く閉じた目を

 強く強く抱えた膝を


 そっと、ほどいて


 いくらこぼしても良いからと言って

 この掌へ与えてくれる優しさを

 全部拒んできた それらを


 出来れば 今


 受け取っても良いのだろうか



 目の前で笑っている 君の 優しさを


 この手で受け取ってみても 良いだろうか




+++




 少しして。

 身動きした重傷人の僕と、無茶をして倒れていたカエンは、駆けつけてきた<水王>様に、とても怒られた。



 ……初めて、叱られた。 






END

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