5-2 この、面食い魔王!
「ここがザルミス地区ですか?」
「ああ、そうだ」
パルティオン地区を東に抜けてしばらく進むと、周囲の雰囲気が徐々に変わっていった。整備された広い歩道が、石畳の細い路地へとつながる。観光客の喧噪は遠のき、自分たちの足音だけが静かに響くようになった。
両側に並ぶ民家の窓は意匠を凝らした濃い色の木材で縁取られ、ウィンドウボックスにはゼラニウムやペチュニアなどの鮮やかな花々が咲き誇っている。それらを眺めながらぼんやりと歩いていると、ふと視界の隅を何かがキラキラと横切った。
(なんだろう?)
ファンタジー映画などで、妖精が飛び去る際に残す輝く鱗粉のような光の軌跡――まさしく、そんなイメージである。常に見えるわけではない。ふとした瞬間、こっそりと現れる。だから気のせいかもしれない。降り注ぐ陽光が眩しくて、ちょっとした錯覚を起こしているだけかもしれない。
「パパ――」
でもやっぱり気になるので、何でも知っている魔王に尋ねようと顔を上げた。そのとき。
「ホルロロロ!」
「ふぇっ?」
人の声、ではない。動物だろうか。そんな得体の知れない奇妙な鳴き声が、イリスたちの進行方向から聞こえてくる。ボリュームもどんどん上がっていく。つまり、こっちに近づいてくる!
「や、ヤギのような生き物です!?」
やがて茶色いヤギのような生き物が姿を現した。けれど、ヤギとは決定的に違う部分がある。角だ。とんでもなく長くて大きくて、やや内側に湾曲した角があるのだ。
その、どう見ても大人の威厳と迫力と体格をもったヤギのような生き物が、なぜかこちらめがけてものすごい勢いで走ってくる。
(つまりピンチなのでは? これは危険なのでは?)という疑問が脳裏をかすめたが、それも一瞬だけだ。だって隣にはマオがいるので。当たり前のようにひょいっと抱え上げられてしまえば、もう何も怖くない。
すっかり悟りを開いたイリスの目の前で、土煙を立てて突進してきたヤギのような生き物が急ブレーキをかける。そうして「ホニュロロロ……」と、甘えた声を出しながら、イリスを抱き上げているマオの腿に頬を寄せた。
「こっ、この方、パパのお知り合いですか?」
なんかめちゃくちゃなついてます、とヤギのような生き物とマオを交互に見つめながら確認する。
「ああ、彼女は――」
「ハイジさ―ん! ハイジさん、どこー? なんで急にどっか行っちゃったのー? そっちに餌なんてないよー?」
マオの返答に被さるように、ヤギのような生き物がやってきた方向から子どもの声が聞こえてきた。ぱたぱたという軽い足音と一緒に、イリスと同じ年くらいの少年が走ってくる。
胸当てつきのサスペンダーがくっついた革のハーフズボンという、ちょっと見慣れない服装が印象的だ。チエック柄のシャツに、ウール素材のジャケットを羽織っている。この地方の民族衣装かもしれない。
そして、おそらく飼い主だろう。「もー、ハイジさん! どうしちゃったの?」と、マオの足元にすり寄ったままのヤギのような生き物に声をかける。そして、そこで初めて気づいたというように、マオとイリスを見上げた。ぴたっ。男の子の時が止まる。
(あ、ダウンロードが始まった)と、イリスは咄嗟に思った。マオという存在の情報量が多すぎて、初めて見た人は受け止めるのに時間がかかるのだ。
でも、おかしい。マオはこの街に住んでいるはずなのに。この子とは初対面なのだろうか。まあ、大きな街だもんな。さすがに全員と面識があるはずもないか。
イリスがひとりで納得している間に、男の子はくるっと踵を返して走り出してしまった。追いかけてきたはずの、ヤギのような生き物――おそらく名前はハイジさん――を置き去りにして。
がびょん、と。イリスはショックを受ける。そんなにマオが怖かったのだろうか。でもあんなに全力で逃げなくてもいいんじゃないかな。呆然としながら背中を見送るイリスの耳に、その男の子の大声が飛び込んできた。
「かあちゃーん! みんなー! マオにいが隠し子連れてきたー!」
「マオ、実は結婚してて子どもまでいたんだって!」
「奥さんは深窓のご令嬢で、人前にはほとんど出なかったらしいよ」
「病弱で、ほぼ寝たきりで……」
「そのせいで、亡くなって……」
「じゃあ、マオさんは奥さんの遺言で隠し子を育てることになったってことなんですか?」
「そうなんだよ。でもどうやら奥さんが大金持ちのご令嬢で、跡継ぎ争いがあるらしい」
「だからマオにいは、命を狙われてるの?」
「ダカラマオオニイチャン、シバラクカエッテコナカッタ?」
「つまりマオ様は今、ドゴポリスタとピョンテロールとの間に生まれたピコペッカンの子を抱えて、逃亡生活を送ってらっしゃるのね!?」
「なんか知らんけど、次の新月の夜に世界の運命が決まるらしい! なんか知らんけど!」
男の子の後を追って、ハイジさんと一緒に小さな広場にたどり着くと、そこはたくさんの街の人たちであふれかえっていた。年季の入った噴水の近くには、さっきの男の子の姿がある。どうやら彼が輪の中心となって、マオの話題で盛り上がっているらしい。
どの人たちも(人型ではない魔物以外は)みな、男の子が来ているような衣装を身に着けている。女性の場合は、袖がパフスリーブになっているショート丈の白いブラウスと、腰をきつく締めるコルセットから広がるエプロンドレスだ。華やかな色彩も相まって、話に花を咲かせている人の渦が一層にぎやかに感じられる。
「少し落ち着いてほしい」
そんな人だかりへと、マオは何の躊躇もなく向かっていった。イリスを抱き上げたまま。ハイジさんを従えたまま。
そこへ、いっせいに集まる視線。いっせいに消える会話。あれだけ騒がしかった『チーム井戸端会議』が、まるで規律に厳しい軍隊のような俊敏な動きで、こちらを振り返る。――そして。
「マオだ! ホントにマオだ!」
「マオにい、久しぶり!」
「相変わらず、すこぶるいい男だねえ」
「来るなら来るって、ひとことくらい連絡よこせっての!」
再び、わっと盛り上がった集団が、口々に思い思いの感想を伝えようと集まってくる。瞬く間に取り囲まれて、イリスは思わずマオの首元をわしっとつかんでしまった。
なんか、みんなマオのこと知ってる! しかも、すっごい大歓迎されてる!
「驚いたよ、マルセルの言ってたとおりじゃないかい! あんた、いつの間に子どもなんかつくったのさ! あたしが若いころ散々モーションかけても全くなびかなかったくせに!」
ひとりの恰幅のいい女性が、腰に手を当てながらマオの顔を覗き込むように進み出る。どうやら本気で怒っているというよりは、冗談半分にからかっているらしく、すぐにニッと笑いながらマオの胸元を指先で突いた。
マルセルというのは、最初に会ったあの少年の名前だろうか。気がつけば女性の隣で、「だから言っただろ、かあちゃん」と、得意そうにふんぞり返っている。
「あ、あの、あの、違うんです! ぼくは、マオさんのお友達のおばあちゃんのカフェの人間の常連客の親戚の近所の子どもなんです! なので、隠し子とかじゃ全然ないんです!」
イリスは慌てて、以前も双子のアンバーサス相手に使った建前を叫んだ。「まだそれを続けるのか」と、言いたげなマオの視線に、「まだ続けます!」と、視線で返す。
「なーんだ、おかしいと思った。だって、マオにいだよ?」
「わしが生まれたころから、ずっとフリーじゃもんな。わしでさえ、ひ孫がおるのにな」
「マ、マ、マダチャンスアル、ヨ、ヨカッタ」
さっきから、こちらが何かを言うたびにギャラリーがリアクションをしてくれることが、ちょっとくすぐったい。それはマオに向けられた視線が、声が、みんな優しくて温かいからだ。街中から愛されているのだと、わかってしまったからだ。
思わず、ふふふっと笑いがこぼれる。マオにとってのここでの生活は、きっと楽しかった。そのことが、たまらなくうれしい。
「じゃあ、きょうはそのマオのお友達のおばあちゃんのカフェの人間の常連客の親戚の近所の子どもちゃんも一緒に、祭りに参加できるってことだね?」
「今年はてっきり帰ってこないかと思ってたよ! よかったね、ハイジさん!」
「ホルロロロ!」
マルセルの母親と、マルセルと、ハイジさんの言葉を聞いて、イリスはぱちぱちと目を瞬いた。「お祭り、ですか?」
「本格的な春の訪れを祝って精霊に感謝を捧げる祭りだ」と、マオが補足する。
「精霊?」
精霊とは、あの精霊のことだろうか。街の人たちがギルモンテを囲んでお祈りしている光景を想像しながら、イリスは首を傾げる。
「きみも来るでしょ? えっと、マオにいのお友達のおばあちゃんのカフェの――」
「イリス! イリスです!」
マルセルに声をかけられて、食い気味に返答する。ニッとうれしそうに笑う顔が、隣にいる母親によく似ていた。
「おれはマルセル! 絶対来てね、イリス!」
了承を得ようとマオを見上げれば、すぐにうなずいてくれた。なので「はい、絶対行きます!」と、大きな声で返事をする。
再び、周囲の輪から歓声が沸き上がった。「よかったよかった」「それじゃあ準備もラストスパートで頑張ろう!」「ほら、みんな撤収撤収! 夕方まで時間ないぞ!」「マオおにいちゃん、またね!」「あとで一緒に遊ぼう、イリスくん!」
それぞれが何かを言い残して、あるいはイリスたちに手を振りながら、その場を後にする。思わずホッと一息ついた――そのとき。
「あ、よかった。ここにいたんだ、二人とも。ごめんね、遅くなって。っていうか、この街の眞素ちょっと濃すぎない? キラキラを追ってきたら、案の定、魔王さまのところに続いてたよ。ふふ、おもしろっ」
頭の上には、確かに太陽がある。けれど、そのもうひとつの太陽は、細い路地からひょっこりと現れた。おしゃれなイラストが描かれた大きな紙袋を左手に持ち、イリスとマオに向かって右手を掲げながら。
ユラとは、ずっと一緒にいる。だから少しは、その輝きにも耐性がついたという自負もあった。そんなイリスでも、この瞬間、この場所で目にするユラはため息がでるほど眩しすぎた。まるで光の粒のようなものを全身にまとっているかのように。
(なぜだろう。旅行先で見る推しには、フィルターがかかるんだろうか)
そこで、ふと、周囲の音が消えたことに気づいた。不思議に思って辺りを見回すと、一度は解散しかけていた街の人たちが、みなユラを凝視しながら動きを止めている。あ、ダウンロードしてる。
いち早く受信を終えたのはマルセルの母親だった。彼女はこの状況をいったいどう解釈したのか、マオをまじまじと見つめ、そして一言。
「この、面食い魔王!」




