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暗闘  作者: 伊藤むねお
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ひとりあやとり

 書斎のドアが開いて久が顔を出した。正子伯母さんから電話だという。

「わかった。書斎で出る」

 辰巳は急いで自室に入り、液晶スクリーンのスイッチを入れた。すぐに姉の正子が現れた。小学校の教師を続けている正子は若々しく、還暦が近いというのに、ややもすれば四十代に見られることがあると本人が自慢するとおりだった。

「祐ちゃん。元気そうね。でもちょっと痩せたかな。仕事が忙しいの」

「ああ、まあね。なにか用」

「その後どうかと思って」

「その後って・・えっ? 何が」

 事件のことは家族以外には話していない。

「なによ。もう、忘れたの? 自分で電話をしてきておいて。ほら、ひとり綾取りよ。わたしはあれから色々やってみて、とうとう思いだしたわ。やってみせようか」

 正子が顔の前に広げた両手には、白い太い糸の輪が懸かっており、よく動く指が十本同時に動き出した。

「ああ、それか。そうだったね。ごめん・・・」

 辰巳の脳裏に火花のように閃いたものがあった。

「ごめん、姉さん。またあとで」

 少々乱暴にオフキーを叩くと呻くように呟いた。

「そうか・・・そうだったよ」

 ――あの男は、俺が手話で合図をしたといっている。そんなことが俺にできるわけがないのだが、そうかこれだったか。すっかり忘れていたが電車の中でやってたよう。

 辰巳は今ようやくにしてその答えを得たのである。


「警視、静野からです」

「佐野だ。ご苦労さん。うん、ほう・・・。なるほど。了解」

 佐野は受話器を置くと、メモをみんなに見せた。

「室長。辰巳さんのお宅まで静野に行って貰いました。糸をかけないで綾取りの指の動きを再現して貰い、どう読めるかを見てもらったのですが、その結果、指文字だと思って見れば不完全ながらこういう文字が読み取れるとの事です」

【は、ー、て、と、ん】の四文字がメモに書かれていた。

「そして、は、て、と、についてはその濁点がついた文字も含まれるそうですが、順番は全く自信が持てないそうです。ですから、これらの一部、または全部の組合せということになりますが、ええと」

 佐野はそこまで言うと笑いだしてしまった。その中にバードが含まれていることはもはや誰にもあきらかだった。

「辰巳も思い出すのが遅かった」

 遠山が苦笑いをしながらそう言うと、刑事たちからどっと笑い声があがった。



「今度のことでは感謝しているよ」

「いってくれるな。穴があったら入りたい心境なんだから」

「いやいや。もし辰巳があれを操作しなかったらと思うと未だに冷や汗が出るよ。それにあの画面を保存してくれたのが大きかった。咄嗟の時によく出来たものだと青山総研のSE連中がえらく感心していたよ」

 赤坂のレストランの一室である。遠山と辰巳は靜かに杯を合わせて祝着を賀した。

「それは嬉しいな」

「忘れていたが、あの事故と俺を結びつけたわけを話してくれ。ただのカンだけではないといってたが」

「ああ、ふたつほど閃いたことがあった。ひとつは、ここ一、二年ほど遠山が、俺から見ると行方不明になっていたことだ。なにか大きなことにひっかかっているなとは思っていた。もうひとつ。実は杉ビルの前で偶然遠山をみかけたことがあるんだ。完成ちょっと前だったかな。珍しく帽子を被ってサングラスまでかけていたので、敢えて声をかけなかったのだが、あの画面の中央にあったのが杉ビルだったろう。それでな」

「なんだ。見破られていたのか。あれでも変装していたつもりだったんだがなあ。がっかりだ」

「幼稚園から友達だった俺の目はごまかせないよ。俺の目はトンビの目なんだ」

 辰巳が胸をそらしてそういうと、遠山は飲みかけたビールをぶぶっと噴き出した。

「どうした。トンビの目と言ったのがそんなに受けるとはな。なんだか馬鹿に楽しそうだが」

「ああ楽しいとも。あははは。いやいや辰巳もしゃれたことをいうもんだと思ってさ」

「そうかね。時に大山氏までも自殺というのはどういうことなのだ。この業界では知らない者のない人だったよ。俺も一度会議で同席したことがあったが、ひとことひとことが理に叶っていて感心したものだ。彼が絡んでいたということか」

「それは」

 遠山の口は重かった。

「いいにくそうだな」

「すまん。いえないんだ」

「そうか。彼、疲れたのかなあ。遠山の仕事もそうだろうがITの世界というのもえらく疲れるんだよ。とりわけ四十を過ぎてからは辛い」

「ほう」

「進歩というのだろうが変化が早い、凄いんだ。ちょっと前のキャリアが全然役に立たなくなる。真面目なやつはそれに遅れまいと頑張るんだが保たないな。頭も体も」

「ITだけじゃないさ。世の中全体がそうだ。価値観の移ろいが早い。そこに棲む人間はみんなモロに影響を受ける。捜査もそうだ。端的にいえばこういうやつは怪しい、こういうやつは信じていいという経験がどんどん通用しなくなっていく」

 今度は俺もそこでミスった。実際、大山と矢木沢が実の兄弟だということを把握してなかった。致命的なミスだった。野々山の供述によれば、大山は柴田とその恋人とのことを前から知っていたという。大山がその情報を遠山に伝えなかったのはどのような意図に基づくものだったのか。それも含めて本人も柴田も死んだ今となってはこれ以上のことはもはや知るすべもない。捜査も幕引となった。しかし大山は警察官としての遠山史郎を知っていたはずだから初めて引き合わされたとき、その心中に大きく波打つものがあった、ということは想像に難くない。

「指揮をとった男は工科大学院を出た変わり種なんだが、捜査マニュアルに未来学の手法を導入すべきだと主張している。そうでないと経験が役に立たない、むしろ害になるとね。同感だ。俺も応援するつもりでいる」

「そうか。ときに、あのサングラスの男はどうなる」

 遠山はにやりと笑って目の前で手を振ってみせた。聞いてくれるな、という意味のようである。

「そうか。それもか」

「これは俺の想像だと思って聞いて欲しい。多分、名前も変えて別人として生きていくことになるだろう。だから辰巳もあの男のことは忘れてくれ。ただし辰巳に仕返しをするなどということは絶対にない。それだけは俺が保証する」

「わかった。それにしても日本の警察はたいしたものだ。公開捜査をしたわけでもないのに、どうしてあんな短期間に解決が出来たのだ。小説にあるような敵の内輪もめか」

「いや、それもあるが・・・」

「なんだ。スーパーマンでも現れたか」

「どちらかといえば、そっちだ」

「ほう。面白そうだな。でも、どうせ言えないのだろう」

「すまん。それが一番言えない」

「それが一番か、ほう・・・いいさ。色々と裏もあるのだろうしな。だけど遠山もこれで警視総監になれるのじゃないか」

「ははは、まさか。それどころか降格になった」

「なんと。どうしてだ」

「事件の発生を未然に防げなかったからだ。というのは実は表向きで、もう一度捜査現場にもどりたかったから俺の方から降格を申し出たんだ。長官も俺の処遇には困っていたらしく露骨にほっとした顔を見せたよ。近々辞令が出るから、これはもう言っても構わないのだが、降格したおかげで警視庁の刑事部長がやれる」

「降格して本庁の部長か。よくわからんがえらいな」

「えらくはないさ。でも楽しみさ。ときに、ひとり綾取りは完成したのか」

「正ちゃんが思いだして伝授してくれたよ」

「そうか。頭のいい人だったものなあ。ではそちらも一件落着だな。そうだ。それならサングラスの男からメッセージがあるぞ。ひとり綾取りをみたいそうだ」

「変わった男だな」

「向こうもそう言っていたそうだ」

 ふたりは声をあげて笑った。




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