涙涙涙
なんの前触れもなく扉が大きく開き、鋭い目をした見知らぬ男がひとり入ってきた。堺は目をこすった。
「あ、あなたは・・・もしや、伊能さん」
「残念ながら、わたしはこういう者だ」
男は苦笑し持っていたケースを開いて身分証明書を見せた。堺は食い入るようにそれを見つめていたが、床に額をつけて吹き出るように涙を流し、十秒ほどそうしていた。
大きく息を吸って顔を上げる。
「科捜研のあなたがどうして?」
「今は特捜班の指揮を取っている。わたしは君の命令者の指示によって君を救いに来た。念のため、君の姓名と命令者の姓名を言ってくれたまえ」
「わたしは堺公人。命令者は遠山史郎です」
佐野は肯くと、鋭い目を細めて微笑んだ。
「堺君。わたしがここに来れたのは、今君が口にした伊能さんのおかげなんだ。彼は君の妹さんから頼まれたのだそうだ」
「・・・そうだったのですか」
堺は自分の頬をつねってみたかった。いつのまにか佐野の背後にはコートを着た男達が数人立っており、中のひとりが携帯でなにかを喋っていた。
「まず、外の状況を話そう」
佐野の説明にはさすがに無駄がなかった。そこで語られた状況はまさに堺が案じていたそのものだった。
佐野はまた急遽呼び寄せた榎本が処置にあたっていること。そして未だに有効な手が打てないでいることを語った。
「あらまし以上ですが、どうですか」
「わたしの案じていたこと、そのままです」
「ということは、君は専門家の立場から最善の策も練っていたはずだ。遠山さんはそれに従えといっている。さあ、なんでも言ってくれ。君にはその権利があるのだ」
柴田は夢を見ていた。若葉の夢だった。男の子のような髪型をした若葉が柴田を見ながら手を振っている。若葉は白いTシャツの下で豊かな胸を弾ませ、手を振りながらゆっくりと映像のスローモーションのように真横に倒れた。
どうしたんだ、若葉!
首筋から吹き出た血がその胸を見る見るうちに赤く染めた。それでも若葉は柴田を見て微笑みながらひらひらと手を振っている。
若葉、動くな、そうだ、動いちゃいけないんだ。今、俺が行く。いいか動くなよ。そのままそのままじっとしてるんだ。
若葉の唇が動いた。若葉! 何を言いたいんだ。何だって? いや、口をきいちゃいけない。俺が、俺が今すぐ・・・
もつれる足を踏み出そうとした瞬間、柴田は右肩に激しい痛みを覚え、若葉は消えた。
柴田は床に敷かれた布団の上に寝かされていた。体を起こして眺めると、そこは元の部屋だった。少し離れた床の上にもうひとつ布団が敷かれていて、見知らぬ男がうつ伏せになって柴田の方を見つめていた。異様な臭気が鼻を衝く。
「目が覚めたか」
柴田は愕然とした。男は堺だった。すっかり面変わりしていたのと、自分の視力が回復していない為にわからなかったのである。
「堺・・・」
「好きでこうしているわけじゃない。おまえも出来るだけ体を動かさない方がいいぞ。もう三十時間も水だけなんだから。柴田、おまえは悪い奴と手を組んだなあ。あれから誰も来なかったが、本当は誰かおまえを助けに来るはずだったのじゃないか。おまえは捨てられたんだよ・・・俺もな」
柴田は左手を出し、目をこすって自分の腕時計を見た。十一月三十日だった。
「そうだ。明日はもう十二月だ。肩はまだ痛むか。抜けていたのだが一応入れておいてやった。悪く思うな。枕元にある弁当箱には水が入っている。それをすするといい。眠っているあいだも水だけは口から流し込んでおいてやった・・・臭いのはおまえの小便の匂いだ」
「・・・一一〇番はどうだった?」
「あれは芝居だ」
「そうか・・・壁を叩いてみたか」
「何度もやってみたが無駄だった。俺にはもうその力が残っていない。皮肉なことだが今や寝ていたおまえの方が、まだ少しは長生き出来そうだ」
弱々しく顔をゆがめて笑う堺の顔の頬や目の下には、もはや薄黒い影が現れていた。
「何日か、あるいは何ヶ月かあとに、誰かがこの部屋で干からびたふたつの死体を発見することになる・・・」
堺は話すのもやっととみえ、二、三度大きく息を吸って呼吸を整えた。
・・・・・・・
「柴田・・・呼んでいた〈わかば〉というのは女の名前か」
柴田は泣いた。体を横転させ堺から顔をそむけて泣いた。
堺は暫くのあいだ黙ってその背中を見ていた。
「その名前には心当りがある。三、四年前、アメリカで女子留学生が撃たれて死んだ。撃った奴が銃を持っていた、他には何の理由もなく。まことにもって傷ましい事件だった。その女か」
「・・・野々山若葉は俺の恋人だった」
「・・・そうか」
「堺、許してくれ。俺はどうかしていた。目が覚めた。俺が俺の電池を使ってやってみる。なんとしてでも外部に連絡を取るんだ。でないと、とてつもなく恐ろしい事が起きる可能性があるんだ」
「そうか。それでこそ柴田だ。これからポツポツと遺書を書こうとしているところさ。おまえのその言葉も書いておいてやる。見ろよ。ペンは割箸を削ったものでインクは醤油の残りだ。必要は発明の母というやつだな。よせよせ、柴田。もう遅いんだ。システムをクリーンにするには、たとえ俺とおまえが出られたところで、もう時間が足りない」
「いや、ソースのテープがあり、榎本さんがいれば、実は来ているんだが、これからでも何とか間に合う。テープは無傷で大林が自宅に保管しているはずだ」
「CG班の大林か。そうか、やはりな。暗い目つきが気になってたんだ」
堺はそう言うと勢いよく立ち上がった。
「・・・堺?」
柴田は愕然として堺を見上げた。
「よく言ってくれた柴田。もう時計の電池は要らないよ。それは若葉さんからの贈物だったやつだろう。裏にFROM WAKABAと彫ってあるじゃないか。大事にしろ。それから日付を一日もどせ。今日はまだ二十九日だ」
堺は足下のスニーカーを掴み上げるとドアに走り寄ってノックをした。ドアはすぐ開き、白いヘルメットを被った男達が入って来た。外にはコートを着た男達が居り目の鋭いひとりが携帯電話で何かを指示していた。堺が近寄ると男は言った。
「大林の自宅にはすでに別の班が向かった。君は杉ビルだ。さあ行こう」
「はい」
堺は応えると、救急隊員に、
「柴田を頼みます」




