ヒトマロ自白
マンションの横の薄暗いゴミ置き場。その奥のただの壁にしか見えなかった箇所がそっと内に開き、そこからひとつの黒い影が現れた。影は金網の扉を開いて外に出ると、隣のマンションの境のフェンスを身軽に越え、植え込みの下を縫って走りたちまち闇に紛れてしまった。
暗い路地を走りながら、いつもつけている黒髪の鬘をむしりとり内懐にねじ込んだ。そうしておいて今度はゆっくりとした歩調になってひょいと広い歩道に出た。飲み過ぎて朝帰りになったという酔客になりきっている。騒ぎを知って駆けつける野次馬の何人かとすれちがったが誰一人として怪しむものはない。遠くから消防自動車とおぼしきサイレンの音が聞こえてくる。
――ざまあみやがれ。
ヒトマロはいい気分だった。久しぶりに綱渡りをやったために心臓はまだ大きく弾んでいるがそれも快い。プラタナスの並木を伝いながら手を上げてタクシーを求めた。鬘のない頭が寒い。コートと帽子を忘れたのが悔やまれたが、そのくらいは今は辛抱せねばなるまい。
「もし」
ヒトマロは飛び上がるほどに驚いた。いつのまにそばにきたのか長身の男が立っている。
「なんだい」
びっくりするじゃないか。
ヒトマロはそれが刑事だとは全く思わなかった。道でも尋ねられるのだと思い横柄に応対した。
「早く用件をいいなよ。駅がどっちかってかい? 寒いじゃないか」
――こいつのコートを剥ぎ取ってやるか。
しかしその男はそういうことを許す相手ではなく、用件がちがっていた。
「うまくいったと思っているようだな。ヒトマロ」
な、なに!
驚愕したその右肩には、すでに男の手がかかっていた。ヒトマロは年は四十二だが学生時代にならした柔道を今でも続けている。暗い世界でノシてゆくには武闘も強くなければ睨みが利かない。掴まえられている肩もものかわ、強烈なフックを相手の鳩尾にかませようとした。が、その瞬間、体内のどこかで激しい衝撃が起きヒトマロは声もなくその場に崩れ落ちた。
その苦痛はヒトマロがかつて味わったことのない類のものだった。肩に置かれた手から加えられた力が、ヒトマロの鎖骨と肩骨を文字通りきしませたのである。ギシっという奇妙な感覚が肩のあたりでした。ヒトマロの思考力は激痛に押し出され、その苦痛の源を考えることさえも出来なかった。この世にこのような痛みがあるとは思ってもみなかった。
ふっと意識がもどった。万力を肩に噛ませた魔物が少し手加減を加えたようである。
「聞くことに答えろ。いいたくなければそれでもいい。折れた鎖骨を体から引き抜く」
うっ、と、やっと呼吸が蘇ったヒトマロは弱々しく首を振った。自慢の闘志と根性はもはや欠片ほども残ってはいなかった。
――ひ、ひとの鎖骨を引き抜くなんて・・・そ、そんな残酷な。
「堺らはどこだ」
「は、放してください」
ヒトマロは、自分が丁寧な言葉を使っていることを意識していない。
「どこだ」
「うっ、は、放して」
「どこだ」
ヒトマロは少しだけ、ほんのわずかだけいつもの根性を取り戻しかけた。しかし、その瞬間、今度は反対側の肩に再び地獄の苦痛がやってきた。ヒトマロは急いで首を縦にふった。
や、やめてくれ。ほんとうに死ぬ。
「あ、朝霞の自衛隊の裏の空き倉庫だ」
「目印は」
「ま、〇の中にカ・・・」
「依頼者はだれだ」
「サ、サワダです。名前以外は知りません。本当です。骨を抜き取るなどそんな・・・殺さないで、お願い・・お、お願いです」
ヒトマロは自分の吐瀉物で喉が詰まり、よだれと涙を流しながら哀願した。もはやこれっぽっちの強がりも見栄もなかった。
「もうひとつ。バードに毒を盛ったのはおまえの指図か」
「な・・・し、知らん。お、俺は知りません」
ヒトマロには実際なんのことかわからなかった。しかし、その返事が相手の気に入るわけがなく、ふざけるな、という怒りの責め苦が来ると覚悟をしたヒトマロだったが、意外にもすっと肩から手が除かれた。
「まあいい」
男の手のひらがヒトマロの体を這うと、あっという間に内ポケットから小物入れが引き出された。
「これはもらっておく」
ヒトマロは両膝をついたまま荒い息をつくと、辛うじて残っている力を振り絞って左手を背中に回した。右の肩から先はすでにすべての感覚が失われている。
――う、撃ち殺してやる。
男はその行動を見ていなかった。ポケットから携帯電話を取り出すと、ヒトマロに背中をみせたまま早口になにかを伝えた。
「き、きさまあ、こ、これを、みろ」
ようやく取り出した拳銃を構えたヒトマロは口元のよだれもそのままに震える手で銃口を相手に向けた。男はゆっくりと振り向くと慌てる様子もなく言った。
「安全装置が外れてない。骨の仇を討つチャンスをやろう。待ってやる」
ヒトマロの思考能力は最早ヒューズがぶっ飛ぶ寸前にあった。動かない右手の代わりに顎を使って安全装置をずらし、歯を使って撃鉄を起こすと、震える手で引き金に掛けた指に力をこめた。
それまで黙ってその様子を見下ろしていた男は、ヒトマロの人差し指の関節が白く変わった瞬間に靴先で銃を軽く蹴った。弾丸はヒトマロの頬を浅くそぎ落とし、左の耳を冬の新宿のどこかに持ち去った。
「いえ、大丈夫です。今、ヒトマロのやつがピストルで自殺を図ったものですから止めてやったところです」




