29.当主の決断
「そんなことはない! ジスレーヌがいてくれたから、私は幼い頃に命を落とさずにすんだ! そもそも毒殺するのであれば、あの頃の私は一番狙いやすかったはずだろう! それをせずに優しく話しかけてくれたのは、私に同情してくれたからだろう!?」
そんな重苦しい空気の中、ついに我慢できなくなったジスランが立ち上がり、床に座り込んだジスレーヌに向かって珍しく叫ぶようにそう告げる。その様子に驚いたのは言葉を向けられた本人だけではなく彼の向かいに座っていたピエールも同じだったようで、二人して目を見開きながらジスランの顔を見上げていた。
「ジスレーヌの存在を軽んじている子爵家との縁など、こちらから断ち切ってやればいい! 新しい当主は疑り深い性格だから気軽に手紙も出せなくなるとでも書いて送れば、なにも知らない向こうは納得するしかなくなる! 口実などいくらでも作ることは可能なのだから、そんなにも簡単に自分の命を諦めようとするな!」
言い切って肩で息をするほど興奮しているジスランと、それをただぼう然と眺めているだけのジスレーヌとピエール。そんな彼らの様子に、ブランディーヌはただ一人ひっそりと笑みを浮かべていた。まるで、こうなることをはじめから予想していたかのように。
「ジスラン様のおっしゃる通りですわ。そんなに簡単に自分の人生を諦めようだなんて、わたくしも許せませんもの」
ここで初めてブランディーヌはイスから立ち上がり、床に座り込むジスレーヌの前におもむろにかがみこむと、こう切り出したのだった。
「わたくしの好きにしていいのでしょう? それならばあなたには今まで以上に、侍女長としてしっかりと働いてもらうわ」
「……!? い、いえっ、ブランディーヌ様っ……、さすがにそれは……!」
「あら、どうして? 屋敷内の管理はわたくしに一任されているのだから、この決定は絶対なのよ。そうでしょう? ピエール」
「もちろんでございます」
使用人契約続行というあり得ない采配に、ある意味でジスレーヌだけが正論を口にする。だがそれを不思議そうな顔をしながら跳ねのけてみせたブランディーヌの問いかけに、あろうことか家令であるはずのピエールまでうなずいてみせたのだ。当然この状況には、ジスレーヌだけが困惑している。
「どう、して……。なぜですか……? 私はすでに、リッシュ伯爵家の方を四人も死に追いやっているのですよ……?」
「そうね。けれどあなた、ジスラン様だけは手にかけられないでしょう?」
「っ!!」
まるで図星をつかれたとでもいうようなその表情に、ブランディーヌは満足気に微笑んで見せた。それが答えだと言わんばかりに。
「似ていたのは名前の響きだけではなくて、その境遇も、だったのではなくて? だから自らの人生と重ねてしまって、どうしてもジスラン様にだけは毒を盛ることができなかった」
「…………っ」
その言葉に下唇を噛むジスレーヌの姿は、悔しそうというよりはただただ涙をこらえているだけのようにも見えて。そして濃い紅茶色の瞳の奥には、どこか喜びにも似た感情が見え隠れしていた。
「いいのよ、もう素直になって。彼らを手にかけたのはあなたの意思でもなければ、そもそも強い恨みすら抱いていなかったのでしょう? 本当に恨んでいたのなら、もっと早く彼らは命を落としていたはずだもの」
「っ……ブランディーヌ、様っ……」
そう、彼女もまた被害者だったのだ。本人が子爵家に利用されていると本気で思っていたのだということが判明した時点で、それは確定的な事実となっていた。
「わ、私はっ……、伯爵家の侍女として働き始めてから、ようやく普通に人として扱っていただけたのにっ……、それなのに、私はあの方々をっ……!」
その証拠に、今の彼女はブランディーヌと目を合わせることもなければ、口角も上がっていない。ただただ後悔の念だけを抱くその様子は、はたから見ていても痛々しいほどで。そしてだからこそ、過去にリッシュ伯爵家がしてきたことと同時に子爵家が彼女に行ってきたことも、全て許すべきではないと感じさせるのだった。
「そうね、確かにあなたは取り返しのつかないことをしてしまったわ。けれどそれは、正常な判断ができる状況下ではなかったからよ。自らの命が危険に晒されている状態で、他者の命を選び取るのは難しいことだもの。あなただけを責めることはできないわ」
「で、ですがっ……!」
「だからこそ、これからはその償いをしていってほしいの。今度こそ誠心誠意わたくしに……いえ。リッシュ伯爵家に仕えることで、今までの罪を清算していきましょう?」
「っ……!」
その優しさは、ある意味で残酷でもあった。罪を自覚させながらも罰らしい罰を与えず生きることを強要するということは、これからの彼女の人生には常に後悔がついて回るということ。だがそのことを十分理解していても、いや理解しているからこそ、ジスレーヌは生きるべきだと判断したのだ。
「あなたが利用されているだけだった場合には、あえてこの事実は公表しないことにあらかじめ決めていたのよ。だから今この場には、わたくしたち四人だけなの」
「…………え……」
「それともあなたは侍女長でありながら、ジスラン様の……リッシュ伯爵家当主の決断に、従わないつもりなのかしら?」
「っ!!」
そう、この判断は事前に三人で話し合った結果のものであって、今突然ブランディーヌが言い出したことではない。そしてだからこそ、先ほどリッシュ伯爵家の存続を一番に考えているはずのピエールでさえも、彼女の言葉に素直にうなずいてみせたのだ。これが現当主であるジスランの判断であることを知っていたから、先祖代々リッシュ伯爵家の家令として仕えてきた彼にとってその選択に否やなど当然あるはずもなく、すでにピエールの頭の中も心もリッシュ伯爵家の未来へと向いていた。
そのことにジスレーヌが気づいていたのかどうかは分からない。だが真実を告げた瞬間、幼い頃から知っているはずの人物へと彼女がおもむろに視線を移すと、その先で立派に成長したジスランはゆっくりとうなずいて、ブランディーヌの言葉を肯定してみせたのだった。
「あぁ……! 申し訳ございません、ジスラン様っ……! 私は……私はっ……!」
「もういいんだ、ジスレーヌ。それに薄情かもしれないけれど、私にとってリッシュ伯爵家の人々は血のつながりがある、程度の存在でしかなかった。正直彼らよりもずっと、君のほうが身近な存在だったんだよ」
「あぁっ……!!」
様々な感情がこみ上げてきたのであろうジスレーヌは、ついに我慢の限界を迎えてしまったようで大粒の涙を流しながら、まるで慟哭するかのように泣いている。きっとその胸中では、取り返しのつかない罪を犯してしまったことへの後悔の念と同時にようやく全てから解放されたのだという喜びが入り交じり、自分でもよく分からない状態になってしまっていたことだろう。
今の彼女に必要なのは感情を発散しきれるだけの時間だろうと判断したブランディーヌは、ジスレーヌが気兼ねなく思い切り泣けるようにと立ち上がりあえて彼女に背を向けてから、再び席へと腰を下ろした。その際、誰にも気づかれないよう素早く毒薬の入った小瓶を回収し、スカートのポケットへと戻すことも忘れずに。
(これでもう、これ以上の被害は出ないでしょうね)
ダヴィッド伯爵家に毒薬の回収と薬草の追加注文をしなくてはと、さっそく頭の中で今後の予定を組み立てながら、ブランディーヌは冷めてぬるくなってしまった紅茶をゆっくりと喉の奥へと流し込んだのだった。




