23.5.ジスラン・リッシュの決意
その事実は、確かに彼にとって衝撃的だった。だが同時に、この日のために自分は変わる決意をしたのだとジスランは己を奮い立たせる。
そもそものきっかけは「毒の子」とまで呼ばれるようになったこの緑青色の瞳を、婚約者であるジスレーヌが受け入れてくれたことだった。それまでは毒の色をした瞳を見せるなど失礼この上ない行為だと信じて疑っていなかったジスランにとって、その事実は己の中にあった価値観全てをひっくり返すような出来事で。けれど同時にようやく救われたような、自分がこの世界で生きていてもいいのだと許されたような、そんな気がしていた。
そして、だからこそ決意したのだ。父親であるヴァンサン・リッシュが亡くなり、今後は自分こそがリッシュ伯爵として表に立っていかなければならなくなった今だからこそ、変わらなければならないのだと。
「本当に、よろしいのですか?」
ハサミを手にした理容師に問われて、ジスランは一度ゆっくりと深呼吸をする。これでうなずけば、もうあとには戻れない。それが分かっていたからこそ、最後の覚悟を決めるわずかな時間が必要だったのだ。
だがこの時点で彼の中からはその一歩を踏み出す恐怖は完全に消え去っており、残っているのは強い意思と勇気だけだった。
「はい」
今までとは違いハッキリとした声で答えたジスランの姿に、周囲が驚く気配がする。だが構わなかった。今こそ前に進まなければならないのは事実なのだし、なにより自分のこの決意をブランディーヌは受け入れてくれると確信していたから。
こうして緑青色の瞳を完全に隠してしまっていた白銀の前髪は短くなり、しっかりと顔全体が見えるように常識的な髪型へと変貌を遂げたジスランを、ブランディーヌは彼の予想通り受け入れてくれた。それどころか喜んでさえくれたのだ。「素敵すぎて、大勢の女性を夢中にさせてしまうかもしれませんわね」とまで口にして。
さすがにそこまでではないと思いジスランは本気で否定していたが、しかしその実彼女の言葉もあながち間違いではなかったと彼が知ることとなるのは、まだかなり先の話である。
こうして見た目も大きく変化させたジスランは、この日から庭園の散策の際などには自主的にブランディーヌをエスコートし、またなるべく退屈させないようにと領地経営に関わる知識以外の様々な情報を積極的に集めて会話を試みてみたりと、今まででは考えられないほどしっかりと婚約者と向き合うようになっていた。そしてだからこそ、出会った初日に彼女へと取った己の態度がどれだけひどいものだったのかということを、今になってようやく理解して。けれど申し訳なさから謝罪をすれば、優しい笑顔で許しを与えてくれる。そんなブランディーヌは、ジスランにとって女神のような存在だった。
事実、その淡い金糸のような美しい長髪と空色の瞳の持ち主は、女神と言われても信じてしまいそうな美しさで。使用人の特に女性陣の中には、ブランディーヌを目にするたびにうっとりと目を細めている者すら存在しているのだということを、ジスランはよく知っていた。彼も時折同じような表情でブランディーヌを見つめていることがあるからこその、気づきだったのかもしれない。そしてそのことを心のどこかで喜んでいる自分がいるのだということも、ジスランはまた理解していたのだ。
しかしその本心をジスランが誰かに打ち明けることはなかったため、本人も周囲もブランディーヌでさえ一切気がついていなかったのだが、そのせいでそれはもはや崇拝にも近い感情になってしまっているのだということを指摘できる人物は、残念ながら一人も存在していなかった。
それがいいことだったのかどうかは誰にも判断できないのだが、けれどジスラン本人がそのことを自覚するよりも先に、ここでもうひとつの大きな変化が訪れることとなる。
それは実母に愛されたことがなく、亡くなった際にも実感がなかった自分には愛が分からないのだと告白したジスランに対して、ブランディーヌが問いかけた言葉がきっかけとなった。
「ではもしもわたくしが明日、突然命を落としてしまったらどうでしょう? 同じように悲しいとも思えず、実感など――」
「そんなことはありません!」
驚くことに、考えるよりも先に否定の言葉が口をついて出てきた。しかも彼女が言い切るよりも前に、まるでその先を言わせないとでもいうように。
この瞬間、ジスランは特別なにかを考えていたわけではなかった。ただブランディーヌが自分の目の前から突然いなくなってしまうという未来を想像しようとして、けれど心がそれを拒否したのだ。
「ブランディーヌ様がいなくなってしまうなんて、そんなっ……! 無理です……! 私には耐えられません……!」
だからこそ素直な言葉が次から次へと飛び出し、まるで小さな子供のように必死になって頭を横に振っていた。それの意味するところに気づきもせず、ただただブランディーヌを失いたくないというその一心で。
そんなジスランの心の内を完全に理解していたわけではないのだろう。けれど彼が口にしたその答えは、ブランディーヌが予想していたものに近い言葉だったに違いない。その証拠に、突然のジスランの言動に驚く様子も一切なく、彼女は普段と同じようにただただ微笑んでみせて――。
「……それが答えなのではありませんか? ジスラン様はもう、しっかりとわたくしのことを大切に思ってくださっているではありませんか」
そうして、優しい声でそう告げてくるのだ。まるでジスランはもうとっくに愛を知っていたのだと、そう語りかけてくるかのように。
「……っ!」
確かにブランディーヌが緑青色のこの瞳を受け入れてくれたその日から、自分の中で彼女の存在はなによりも大きなものとなっていたのだとジスランは自覚する。けれどそれは初めてこんなにも真正面から自分を受け入れてくれた、女神のような存在だからだと彼は思いこんでいたのだ。
けれど、それは違った。
(……あぁ、そうか。私は……)
自分の心の内に眠る本当の想いに気がついたジスランは、目の前で常にこちらに笑顔を向けてくれている婚約者に惹かれていたのだと、今この瞬間ようやく理解した。
だから彼女が望むのならば、なんでもできるのだと。その望みをかなえるためであれば、後戻りのできない選択すら怖くなかったのだと。己の言動の本質に、彼女にずっと惹かれていたのだというその事実に、ジスランはついにたどり着いたのだった。
そして、だからこそ今思う。
たとえ自分以外のリッシュ伯爵家の人間が毒殺されていようと、本当にその犯人が唯一の味方だと信じていたジスレーヌだったとしても、やるべきことはひとつなのだと。
「リッシュ伯爵邸内で発生していた謎の病が毒薬によるものであるとするならば、現当主である私が一番に動くべきですから」
ブランディーヌに告げたその言葉はウソではない。これこそがジスランの決意の表れであり、そして今後リッシュ伯爵家当主としていずれ自分に嫁いできてくれる彼女を必ず守り切るのだという、なによりも強い意思だった。




