ルヴァンは粗末な籠の中
――その子は、「親」というものを知らなかった。
「おとうさん」や「おかあさん」という言葉は知っていたが、それが何なのか、よく分からなかった。
だって、それを持っていなかったのだから……
ガトーラルコール王国の外れ、国境のとある領地。そこに小さな移動式の芝居小屋が来ていた。お世辞にも上等とは言えない、粗末な円蓋……そこで近々公演が行われるらしい。
それに向け、中では女座長による稽古が行われていた。今指導を受けているのは、小さな男の子だ。
「――違うって、言ってんだろう‼何回言わせんだ、え!?」
言葉の合間合間に、バチン、バチンという音が響いた。
「ご、ごめんなさいぃー…」
男の子が泣いている。
「泣くんじゃないよ!公演までもう何日も無いんだよ⁉ったく、他の台詞はちゃんと言えるのに何で“お父さん”だけおかしいんだろうねえ…もしかしてお前、アタシをバカにしてんのかい!?」
「してないよぅぅ…」
「だったらちゃんとやんな!!」
バチン、という音がして、女座長が男の子の尻をまた棒で叩いた。
恰幅の良い彼女は、見るからに貧乏一座といった円蓋の様子とはかけ離れた上等な服を着て、本物かどうかは分からないが、ごてごてとした大きな宝石の付いている指輪をいくつも嵌めていた。
「…ハアッ。台詞一つ満足に言えないようじゃ話になんないよ、全く!……もう一回やってみな。出来なきゃお前を捨てるからね‼」
「やだっ!やる、できるようにするから……すてないでえ!!」
それは演技指導と言うよりも、まさしく折檻だった。しかし男の子は目に涙を一杯溜めて、座長の脚にすがり付いていたのだった。
『…ぼく、“オトウさん”って、いってるのにな…。ざちょう、なんでおこるのかな……。』
なかなか座長の認める演技が出来ずに怒鳴られてばかりいた男の子は、芝居小屋の裏口にちょこんと座って行き交う人々を眺めていた。男の子に対する座長の、あまりに度が過ぎた叱責を見かねた役者の一人が「外を行く人たちを見ていてごらん」とこっそり助言したので、彼はそうしていたのだ。
…それにしても、何がそんなに違うと言うのか。男の子には全く理解が出来ない……
「――ねえお父さん、あれ見て‼」
その声の方にふと顔を向けると、自分よりも少し大きな女の子が、大人の男の手を引っ張ってそう言っていた。
「おとーさん、ぼくおなかへったー。」
別の方向からも声がした。見れば自分と同じかそれよりも小さな男の子が、やはり大人の男の服を掴みながらそう訴えていた。
「おとうさん、おとうさん!」
またもや別の場所からした声は、今度は同じくらいの歳の男の子のものだ。これまた大人の男を、離れた所から呼んでいた。
『……“オトウさん”って、いっぱいいるんだなあ…』
男の子は、街には“オトウ”さんという名前の大人の男がこんなに沢山いるのか、という事に驚いていた。この芝居小屋には一人もいないのに、と……。
それと同時に、なぜあの役者が自分にそれを見せようと思ったのか、疑問にも感じていた。こんなものを見たからと言って、一体何になるのだろう…。世の中に“オトウさん”が山ほどいると知る事が、自分の台詞に影響を与えるとは到底思えない。
もちろん、男の子はまだ幼く思考がそこまで発達していないので、それを言葉にして理路整然と考えていたわけではない。ただ、「そういう事」を、感情の中でモヤモヤと感じていたのだった。
そんな折、ガタゴトとこの街に一台の馬車がやって来た。方向から察するに、国の外から来たようだ。もっとも、国境であるこの辺りではそう珍しい事でも無いのだが…。
他国と密接に隣り合ってはいないこのガトーラルコール王国だが、外と繋がる道があるこの街は少々異国のものが混ざった雰囲気があり、同じくそういう人々の姿も割合多く見られる。貧しいとまでは言わないが決して裕福な街ではなかったので、身なりの良い人間は目立つような場所ではあった。
さてその馬車に乗っていたのは、オードゥヴィ公爵家の当主ガナシュ・パンプルムス・オードゥヴィである。彼は言わずと知れたこの国の大貴族だが、僻地の平民には身なりの良さから貴族らしいという事以外、誰なのかまでは分かるはずもなかった。
外交を担うガナシュは国王の遣いで他国へ行き、ちょうど自国へと帰って来たばかりのところだった。ここまで戻って来るのに数日。屋敷のある王都へはこれから更に数日かかる。ここはその途中にある、単なる宿泊地なのであった。
やっと自国の領土内へ入り少し気を緩めたガナシュは、ぼうっと馬車の外を流れる景色を眺めていた。
「―――…。!」
不意にガナシュの目が何かを捉え、窓に張り付くようにして流れ行く景色を追った。その急な変化に、向かいに座っていた彼の執事のジェノワーズが反応した。
「旦那様?どうかなさいましたか?」
「……ああ、いや。何でもない。」
ガナシュはそうとだけ答えると、座面に座り直した。そして何事も無かったかのように、また外を眺め始めたのだった。
一夜明け、ガナシュたちはすぐにも出発したいところだったのだが、馬車の調整にもう少しだけ時間が掛かる事が分かった。準備が整うまで、しばらく暇を潰さなければならなくなった。
ガナシュはジェノワーズを連れ、街を散策する事にした。……実は昨日から気になっていた事があり、彼にとってこの“暇”が出来たのは好都合であった。
“暇潰し”と言っていたはずなのに、ガナシュは足早に進んで行く。そのしっかりとした足取りは、明確な目的地があるのだという事を、後ろを行くジェノワーズに感じさせた。
やがてある場所で、その足は止まった。
「――…芝居小屋…でございますか?」
「ああそうだ。」
円蓋を見上げたジェノワーズは主人に尋ねた。お世辞にも金があるとは言えない作りの、……いや、正直言ってぼろい掘っ立て小屋のようなものだ。こんな所に、一体何の用があると言うのだろうか…。
「寄付か何かなさるのですか?」
「……分からない。ただ、昨日ここで見かけてね…」
ジェノワーズと会話をしながら、ガナシュは何かを探すように芝居小屋の周りをキョロキョロとしている。そして“それ”を見付けた彼は、話を切り上げ駆け寄って行った。
「――やあ。君は、この一座の子かな?」
ガナシュが話し掛けたのは、幼い男の子だった。彼は芝居小屋の裏口のような所にある段差に、今日も一人ちょこんと座っていた。そしてガナシュに声を掛けられると、その顔を見上げた。
「ぼくね、おしばいするんだよ。」
「そうかい、君は役者なんだね。こんなに小さいのにすごいな。」
男の子は「役者」という言葉が分からなかったのかきょとんとした顔をして、折れ曲がりそうなほどの角度で首を傾げていた。
「お父さんやお母さんも一緒かい?」
「“オトウさん”はね、いまれんしゅうしてるの。」
「そうか、お父さんは稽古中なのか。君はそれを待っているんだね。」
「??」
男の子は急に怪訝な顔をして、今度は体が倒れてしまいそうなほどに全身を曲げて首を傾げた。
「…ざちょうがね、まってるんだよ。ぼくがちゃんと“オトウさん”ていえるの。なんかね、ちがうんだって。だからね、もいっかい、いえっていうの。」
「―――……??」
笑顔で聞いているガナシュには、彼の言っている意味がよく分からなかった。
その時、男の子を呼ぶ声がした。
「おーいボウズ!練習の時間だ!座長が呼んでるぞー!」
「はあーい!!」
大きな声を張り上げて、男の子は座っていた段差からぴょんと飛び降りた。そしてガナシュの事など気にも留めずに行ってしまおうとするので、慌てて声を掛けた。
「あっ待って。君、お名前は?」
振り返った男の子は不思議そうな顔をして、また首を傾げた。それから答えた。
「…………“ぼうず”。」
「……。」
それは名前ではない。恐らくは、だが……。
「何やってんだい!早くしな‼」
円蓋の中から、中年の女の声がした。ずいぶんときつい口調、どすを利かせた声だ。立ち止まっていた男の子はそれを聞くとビクッとして、急いでその声の方へと駆けて行った。
ガナシュは立ち尽くしてそれを見送った。
「――旦那様。」
後ろに控えていたジェノワーズが声を掛けてきた。彼は、そろそろ戻らないかとでも言いたげだったが……
「……少し、見学をして行く。」
「かしこまりました。」
王命で他国へ行って来たが、特別急ぎで帰らなければならない訳ではない。多少の道草くらいならば許されるだろうと思ったジェノワーズは主人を諌めず、その言葉に従った。
円蓋の入り口の布を少し掻き分けて覗いてみると、中は薄暗い。その奥を更に覗くと、舞台があり、その場所にだけ明かりが点いている。そこに、あの男の子がいた。
ガナシュはジェノワーズと共に円蓋の幕の中へと入って行った。
「―――“アハハハハハッ!いかに貴様と言えど、子供を斬る事は出来ないだろう‼”」
驚いた。
その台詞を言ったのは、あの子ではないか。さっき話していた様子とは、まるで別人だ。――というよりも、見た目と他の全ての印象とが激しく乖離している。口調も、恐らくは年相応の小さな子供らしいたどたどしかったものとは、全くの別物だ。体の使い方も、柔軟さは小さな子供のままだが、飛んだり跳ねたり……その動きは軽業師のように見事だった。
まだ何も知らない無垢な幼子の顔をしていた彼は、厭らしい大人のような表情で、物を知っているかの口振りで、子供らしからぬ演技をしていた。安っぽい言い方をすれば、何かが取り憑いたような様子である。一言で言い表すなら、「異様」だ。
ガナシュは思わず鳥肌が立った。
それは、恐ろしいと感じたからかもしれないし、素晴らしいと感じたからかもしれなかった。好感とも嫌悪感ともつかない、ゾッとする何かを感じたのだ。
「“……クソッ……卑怯者め‼息子の体を返せ!!”」
「“我は悪魔。返せと言われて返すと思うのか?人間。”」
「“くっ……”」
大人の役者とも、対等に掛け合いをしている。それにしても……
「……何やら面妖な脚本だな。」
ガナシュはぼそりと小さな声で呟いた。すると執事は答えた。
「恐らく、大衆演劇の流れを汲んだものでしょう。想像上の存在が人々を脅かし、それを英雄が退治するという物語が近頃の流行りのようです。そういった本も庶民の間では好まれておりますよ。」
「そうなのか……」
ジェノワーズの解説に、ガナシュは一応の納得をした。
詳しい内容までは分からないが、どうやらこれは『悪魔に取り憑かれた息子と父親の対面』という場面のようだ。男の子が何かに取り憑かれたように感じた事は、あながち間違ってはいなかったらしい。……いやむしろ、そう思わせてしまう演技をしているあの子が凄過ぎるのだが……
父親役の役者が、稽古用と思われる明らかな模造剣を構えた。
「“……こうなっては…もう、どうしてやる事も出来ない……。せめて、この父の手で安らかに……!”」
そう言うと、「父親」は「息子」に斬り掛かった。
「“ぐあああっ”」
斬られた男の子は、叫び悶えながら倒れた。そして、床に這いつくばって父親役の役者へ手を伸ばした。今度は苦痛に表情を歪めた、子供の顔をしていた。
「“……いたい……いたいよ……たすけて、オトウさん……”」
「―――やめッ!!」
演技ではない、鋭い声が響いて稽古を中断させた。
声の主はズカズカと舞台の上に踏み込んだ。
「ボウズ……どうなってんだい!?この間と何も変わって無いじゃないか‼」
「ぼ、ぼく、いってるよう……“オトウさん”って……」
「ただ言やぁ良いってもんじゃないんだよ!何度言わせんだろうね、この子は!!アレ、持って来な!」
恰幅の良い中年の女―――それは恐らく、ここの座長だ。彼女は父親役の役者に向かって掌を開き、何かを取って来るように催促した。役者は躊躇いながらも、いそいそと奥へ行くとすぐに細長い棒を持って来て女座長へ渡した。
「ホラ、後ろ向くんだよ!」
すでにべそべそと泣き始めた男の子の体を、座長は容赦なく反対側に向けた。そして……
「ここはねっ!息子がっ、父親にっ、助けを求める場面なんだよっ!」
あろう事か、女座長は言葉の合間合間に、バチン、バチンと棒で男の子の尻を叩いたではないか。
「――っ‼」
思い掛けない光景に、ガナシュは目を見開いて手で口を押さえ、息を呑んだ。
男の子は「ごめんなさい」と謝りながら泣きじゃくっていた。
「“ごめん”は要らないんだよ!お父さんってのは、子供が一番信頼してるものだろうが!こいつが自分を守ってくれるんだと分かってるもんだろう⁉いいかいボウズ、今にも死にそうなお前は、そんな相手に助けを求めてるんだ‼――なのに、何だいその他人を呼ぶような言い方は⁉全然違うだろっ!それでこの芝居の全てがぶち壊しだよ!!」
「うううううー…………」
男の子は小さくなって泣き続けていた。そんな様子を見た女座長は忌々しそうに唇を噛んだ。
「……ああっもう公演まで時間が無いってのに……聞いてんのかいッ!?」
彼女はまた棒を振り上げる。そして男の子に向かって振り下ろそうとした。男の子はその気配を感じ、ギュッと目を瞑った。
「――やめないか!!」
「…なっ!?」
棒を持って振り下ろし掛けた腕を、見知らぬ男が受け止めた。女座長が見ると、それは身なりの良い男だった。
「何なんだいアンタは!?」
「誰でも良いだろう。通りすがりの者だ。」
「通りすがり⁉余所者が勝手に入って来てんじゃないよ!!」
女座長は額に血管を浮き上がらせて憤慨している。さっきまでの興奮が、より怒りに火を点けているようだ。
「勝手に入った事については詫びよう。だが、これは何だ?可哀想に…。こんな幼子を棒で叩くなど、正気の沙汰ではない!!」
「うるさい男だね……。素人には分からないんだろうが、これは演技指導だよ!?ただの暴力とは違うんだよッ‼」
女座長が怒りに身を震わせて凄んでも、身なりの良い男は全く動じない。それどころか、彼女を威圧して来た。
「改めなさい。でなければ、ここへ旅団を呼んでも良いのだぞ。」
旅団……それは、この国に三つ存在する騎士団の一つである、陸上師団の下部組織だ。各地の治安維持のために配置さている、騎士の事だ。それを呼ばれてしまったら悪い噂が流れてしまうかもしれない。そうなれば、興行に影響が出る可能性が……!
「……ハアッ、分かったよ…。」
それまでギリギリと歯噛みをしていた女座長は、観念したように力みを抜いた。
「君、大丈夫かな?」
ガナシュはしゃがんで男の子の様子を窺った。男の子は顔中に涙の跡を付けたままでガナシュを見詰めた。
「……いたいの…」
「痛い?」
また泣きそうになりながらこくりと頷き、もじもじとした男の子は自分の尻の辺りを触った。
「そうか。可哀想に。すぐに医者のところへ連れて行ってやろう。ジェノワーズ、近くにある医院を調べてくれ。」
「かしこまりました。」
話をしながら、ガナシュはサッと男の子を抱え上げた。すると女座長は慌てた。
「ちょ、ちょっと‼アンタら、その子を攫うつもりじゃないだろうね!?」
「……人聞きの悪い事を……。貴女が適切な治療もしないようだったので、代わりに医者に診せに行くだけだ。きちんとここへ連れ帰る。」
「そんなもん、放っときゃ治るんだよ!アタシはその辺分かってやってんだから!!」
ガナシュは軽蔑の眼差しで女座長を見ると、そのまま円蓋を出た。苦々しい顔をした彼女を残して……。
すぐに近くの医院に駆け込んだところ、男の子の体を診た医者は表情を歪ませた。
「……こりゃあ酷い……。何度も叩かれた形跡があるね。きちんと治せば痕が残る事は少ないと思うが……」
医者曰く、その形跡は人には見えない所にばかりあるそうだ。恐らくわざとそこを狙ってやっているのだろう。叩く事に良いも悪いも無いが、何て質の悪いやり方だろうか。
ガナシュの中には、また怒りが沸々と湧いてきた。
「――ああ、良かった!!」
一通りの手当てをして貰った後、ガナシュたちは男の子を連れて芝居小屋へと戻って来た。女座長は男の子の帰りをとても喜んでいたが……「あれ」は、愛情から来るものと言えるのだろうか……
疑問だ。
「いいか!もう二度と、子供に手を上げてはいけない。」
「分かった、分かったよ!」
ガナシュが釘を刺すと、女座長はシッシと彼らを追い払うようにあしらった。そして男の子の手を引っ張った。
「さあ、稽古だよ。今度こそ言えるようにしないと!」
男の子はこくんと頷いた。それから一度ガナシュの方をちらりと見た。そんな彼を連れ、女座長は円蓋の奥へと行ってしまった。
あの女はどうにも信用出来ない、と思いつつも、これ以上はどうする事も出来ない。仕方なく、ガナシュはジェノワーズと共にその場を去る事にした。――その際彼は、円蓋の外側の幕に貼られた紙に気が付いた。
「……公演は、明日の夜……」
そう呟くと、ガナシュは歩き出した。ジェノワーズはその後に続いた。
「――ジェノワーズ。出発はもう少しだけ待ってくれ。少なくとも……明後日までは。」
「…かしこまりました。」
翌日。
ガナシュは再びあの芝居小屋の前にいた。
「よろしくお願いしまーす!」
「今日が初演!!十八時からだよー!!」
……あれは役者たちだろうか。公演が行われる円蓋の側では、一座の人間と思われる者たちがチラシを配っている。それを一枚貰った。
“まるで本物の悪魔憑き‼見なきゃ損する天才子役!!”
そこにはそんな文言が踊っていた。あの子が子役として有名なのかは知らないが、少なくともあの女座長は彼にあんな仕打ちしておきながら、見世物にしているという事だけは確かなようだ。
「……。」
―――段々と日が暮れて行く。
徐々に公演の時間が近付いて来る。
円蓋の中は、かなりの客入りだ。移動式で固定客などはいないだろうに……。いや、ここは辺鄙な街だ。住民たちは目新しい娯楽に飢えているのかもしれない。彼らに交じり、ガナシュとジェノワーズも粗末な席へ座った。
「さあ、もうじき幕が上がるよ!みんな気合い入れな!!」
舞台裏では女座長が張り切っていた。役者たちも衣装に着替え、準備を整えている。
十八時。
公演が始まった。
――衣装も小道具も大道具もみな安っぽく、いかにも金の無い芝居小屋といったところだが……。役者の技量は本物だ。劇の内容はともかくとして、一見の価値はあると思わされた。
特に、必見だったのはあの男の子だ。
薄暗い場所から、ゆっくりと明るい場所に歩いて来る。それだけでまず人を惹き付けた。人目を引くという意味では無く、幼い子供のそれとはとても思えず、見入ってしまうのだ。
そこからのあの台詞――…
「―――“アハハハハハッ!いかに貴様と言えど、子供を斬る事は出来ないだろう‼”」
悔しいが、女座長の煽り文句は伊達では無かった。
そこから彼の出番が終わるまで、客は舞台から目が離せなかった。……ただ――…
「“……いたい……いたいよ……たすけて、オトウさん……”」
その場面だけ、違和感を覚えた。
終幕となり、客はぞろぞろと帰り始めた。
その流れに乗り、ガナシュとジェノワーズも円蓋の外へ出た。漏れ聞こえて来る声を聴くに、公演の評判は上々だ。満足気に、「何よりもあの子供が凄かった」という話があちらこちらでされている。
辺りがすっかり暗くなった中、ガナシュは途中でそれらが帰って行く方向とは別の方へと足を向けた。
「―――ッ…やってくれたね!!このっ……」
“ぎゃー”ともつかない、動物の鳴き声のような、幼い子供の悲鳴のような音が響いた。キョロキョロと辺りを見回していたガナシュはそれを聞くと、音がした方向を探して駆け出した。
「……っお前って子はぁあ!!大事な公演でなんてザマを晒してくれてんだい!?」
「わあああ…ごめんなさいごめんなさいっ。」
「謝りゃ済むと思って‼」
「もうしません!もうしませんからあ……」
「何回同じ事を言ったんだよ!このっ嘘吐きが!!そんなに捨てられたいのかっ‼」
「やだっ…すてないでぇー……」
多くの大人が取り囲んでいる中心から聞こえて来るのは、中年の女の甲高い怒声に子供の泣き叫ぶ声……。そして絶え間なく続く、素手で引っ叩く音…………
地獄のようだ。
恰幅の良い女の前で、倒れた状態の男の子が、自分の身体を必死で守るように小さく丸くなっている。
「今度という今度は容赦しないよ……‼」
そんな彼に向かって、鬼のような形相の女が一層大きく振りかぶった時……
「…座長、もうやめてくださいっ!」
一人の若い男が女座長の腕を押さえた。彼女はそのままの激しい形相でギロリと彼を睨み付けた。すると若い男は怯み、思わず女座長の腕を放してしまった。
「なんだ!?アタシのやる事に文句でもあるってのかい!?!あ⁉」
「も、もう十分じゃないですか……」
怯みながらも、彼は反論を試みた。
「お前、役者だろう⁉なのに、こいつが何度も同じ失敗してんのをそれでいいと思ってんのか!?そんな甘えた事言ってるようじゃ、ロクな役者になんないんだよ!!あんたらはどうなんだい⁉え!?」
芝居小屋の円蓋の裏、一座が寝泊まりしている別の円蓋たちの間。外からはよく見えない暗がりの中で、女座長は自分たちを取り囲む劇団員たちを睨み付けて見回した。すると誰もがうつむき、彼女と目を合わせないようにしていた。
「何とか言いな!!」
「でも…あ……明日も公演はあるんだし……」
「…その、少し……やり過ぎじゃないか、と…」
「これ以上は死んじまう……」
ぽつりぽつりと団員は言葉をこぼした。それによって女座長は……
反省するわけもなく、更に怒りを増幅させた。
「エラそうな口を…叩いてんじゃないよッ!!立場ってもんがまだ分かってないのかい!?」
女座長は怒声と共に近くにあった棒で地面を強く叩いた。その音に、団員たちは萎縮した。そして座長は彼らを一人一人、指差して言った。
「――アンタが百万!アンタは二百万、アンタには百五十万だ!!お前ら全員、このアタシが大金叩いて買ってやったんだよ!自由になりたいってんならその金、耳揃えて返すんだね‼」
その言葉に団員たちは更に下を向いて、また誰も何も言えなくなった。
「……ああ、それでいいんだよ…。アタシに逆らおうなんて百年早い。……はははっ!」
団員たちに睨みを利かせた女座長は、改めて男の子に視線を落とした。彼は細かく震え、怯えた表情で彼女を見た。
「アンタへの仕置きはまだ終わってないよ。あんな芝居しやがって…よくよくその体に叩き込んでやらなきゃなんないからねえ。」
女座長はさっきまでの平手打ちをやめ、棒を使って打ち始めた。男の子は泣きながらそれに耐えていた。
周りを取り囲んだ団員たちは皆、直視出来ずに顔を背けた。
……痛い……痛い……
ああ、これは、こんな風に叩かれるのは、全てちゃんと「オトウさん」と言えない自分が悪いのだ……
次はちゃんとやる。出来る。そうすればきっと…………
段々と、感覚が無くなってきたような気がしている。ぼんやりとした男の子の視界には、腕を振り上げる女座長の影が入った。この時が、永遠に続くのではないかと思った。
それともあれが振り下ろされたら、全てがぶつりと切れるのだろうか……。
男の子は目を閉じた。
――バシン!
また、叩く音が響いた。
…………おかしい。叩かれたのに痛くない。
もしかして、もう痛いとすら感じなくなってしまったのだろうか……
男の子はゆっくりと目を開いてみた。
目の前が真っ暗な何かに覆われている。よく見えないので、彼は目を凝らしてみた。
「……だ、旦那様っ!!」
見えない向こう、どこかから、大人の男の声が聞こえて来た。
「――…っ――」
自分のすぐ側から、声にならない声が聞こえた。
段々と目が慣れて物が見えるようになって分かった。自分を覆っている真っ暗な何かは、人間だ。その身を挺して自分を守り、代わりに座長に棒で打たれた。その顔は、苦痛に歪んでいる。
それからその人間は脂汗を滲ませ、起き上がった。
「……これは、一体どういう事なんだ……?」
「ア…アンタは……こないだの…」
間違って関係の無い人間を打ってしまった事に、女座長はたじろいでいた。
その人間、いや、その男は……。昨日、自分を医者のところへ連れて行ってくれた人ではないか。と、男の子は思い出した。昨日のあの人が、自分の事を守ってくれたのだ……!
――…でも、どうして?だって、そんな事をしてくれる人、というのは…………
その人――ガナシュは、怒りを露わにしていた。男の子を自分の体の後ろに隠し、庇いながら……
「…もう二度と、子供に手を上げないと約束したのではなかったのか‼」
役者顔負けの迫力でガナシュは言った。その場に、ビリッとした空気が流れた。
「あ……はは…。これは、あれだよ……ぇ演技指導だって、言ったじゃないか!」
「私は叩くなと言ったんだ!!」
ガナシュに一喝されると、女座長は珍しくびくりと身をすくめた。
「こんな幼子を何度も……鬼畜としか言いようがない!お前はこの子を殺す気なのか⁉」
「殺すわけ無いだろう!?」
彼の一言に、女座長は逆上した。
「そいつには三百万も出したんだ‼みすみす殺したりするもんか!」
その話を聞くと、ガナシュはサアッと顔色を変えた。
「なっ……“三百万”だと?……貴様、この子を買ったのか⁉」
「ああそうだよ。そいつだけじゃない。そこのあいつも、こいつも、……ここにいる全員アタシが金出して買った連中さ!!」
彼の目の前がぐらりと揺れた。……この女は一体、何を言っているのだ⁉と……
「……人買いは、違法だぞ!?」
「あぁ、言い方が悪かったかね。こいつらはみんな、借金のカタなのさ。アタシが金を出してやったおかげで、こいつらの家族は生きられたんだ。言ってみりゃ、人助けだよ‼」
そんなものは人助けでも何でもない。自分のやっている事を都合よく正当化しただけに過ぎない文句だ。
言葉を失っているガナシュに、なぜか女座長は近寄った。そして声を潜めてある話を持ち掛けた。
「……なぁアンタ、お貴族様なんだろ?着てるもんで分かるよ。――…どうだい、誰か買わないかい?」
「!?」
さっき「人買いは違法だ」と言った時に、女はそれを認識していたようだった。……にも拘わらず、この台詞とは……。それは、つまり……。
「実を言うと、うちは“そっち”が本業でね…。芝居も真面目にやっちゃいるが、要はこいつらの見本市みたいなもんさ。役者でも売れりゃ、一石二鳥だしねえ。」
女が言っているのは、「人買い」の話ではない……。これは、「売春」の方だ――…!
「……まさか、この子もそういうつもりで買ったのか!?」
「当然だろう。あのボウズは母親が綺麗な顔しててねえ…。三百万は投資ってとこだ。役者がダメでも、あれはきっといい男娼になるよ。出すにはまだもうしばらく時間が掛かるけどねえ……」
ガナシュはわなわなと震えていた。……ようやく分かった。この子が「お父さん」と普通に言えないのは、この子の中に「父親」の――いや、「親」という概念そのものが無いからだ。そしてその与えられるべき機会を奪ったのは――…。
そんな事を考えている彼をよそに、女座長は話を進めている。
「で、どうするんだい?お貴族様は羽振りがいいからねえ。特別に予約済みの奴を融通してやる事も出来るよ?」
「……ッ買うわけが無いだろう!!」
彼が大声で叫ぶと、女座長は機嫌を悪くした。
「――フンッ!こんな田舎の貴族のくせに、お高くとまりやがって。買う気が無いならホラ、帰った帰った!ああ、その子はこっちに渡して貰うよ。“もう叩かない。”それでいいんだろう!?」
そう言って、女座長は乱暴に男の子の腕を引っ張った。男の子は痛がって顔を歪めた。
「やめろ!!」
ガナシュは女座長の手を払い除けた。女座長は憤った。
「ちょっと⁉何すんのさ!」
「この子は―――私が貰い受けよう。」
「何だって!?」
「礼はする。……確か、三百万だったな?ジェノワーズ!」
後ろから彼の執事がやって来て、小切手を渡した。ガナシュがそこへ額面を書き込もうとした時、女座長は慌てたようにその手を止めさせた。
「ちょっと待ちな!それはアタシがその子を買った時の値段だよ⁉今は演技が仕込まれてんだ、価値は上がってる‼それに、この先稼いだだろう額も上乗せしなきゃいけないねえ……いやそれより‼その子が抜けたら今やってる公演はどうなるんだい⁇困るじゃないか!一体いくらの損になると思ってんだよ!?」
……どうやら女座長は、ガナシュが三百万を躊躇わずに出そうとした事で、もっと額面を釣り上げられそうだと考えたらしい。そういう厭らしい顔をしていた。
「ウチには今、他にガキはいないんだ。男児の役も女児の役も、そいつ一人でこなしてんだよ?そのボウズがいなくなれば、この一座には大打撃だ!……それでもどうしても連れて行くってんなら、それ相応のモンが必要なのは常識なんじゃないのかい??」
彼は心底嫌悪感がして目を据わらせた。そして、ぼそりと呟いた。
「…………下衆が……」
この女の口から出て来る言葉は自分の欲ばかりだ。これ以上、一体どれだけこの幼子からその権利をむしり取ろうとしているのだろうか……。
ガナシュは荒々しく小切手へ向かうと、憎々し気に額を書き込んだ。
「――では一千万だ!これでいいだろう⁉」
「いっせんまん!?」
彼は一千万の小切手を女座長へ押し付けるようにして渡した。それを手にした彼女は小躍りして顔を紅潮させ、震えながら興奮している……。
これ以上あの女にたかられては堪らない。この隙にと、ガナシュは男の子の手を引いて足早に歩き出したのだった。
「……どこにいくのー?」
「君がもう、叩かれない所だよ。私がそこまで連れて行ってあげよう。」
手を引かれながら、男の子はじっとガナシュの顔を見た。それから繋いでいる手を見て、ぼんやりとした顔をしていた。助けてくれた大人の男の人が今、自分の手を繋いでくれている――…
そこへ、後ろから一人の影が走って近付いて来た。
「――…あのっ貴族様!」
それは息を切らせた若い男の声だった。ガナシュは立ち止まり、振り返った。
「君は……あそこの役者だったね?」
しかも、今日の公演で主役を演じていた役者だ。彼はこくりと頷いた。それから深く頭を下げ、思い切ったように口を開いた。
「…っボウズの事、どうか、よろしくお願いします!……俺たちには、助けてやれなかったから……」
頭を下げている役者の服は、よれている。着古された物である事が明白だ。それは、さっき見た他の団員たちも同様だった。……あの女座長が身に着けている下品な高級品とは、比べ物にもなりはしないような……。
表の収入も裏の収入も、恐らくはあの女がほとんど吸い上げているのだろう。確かめなくとも、その事がよく分かった。
「安心しなさい。この子の事はきちんとした孤児院に預けるつもりだ。」
「…そうですか。」
役者はホッとしたように笑うと、きょとんとしている男の子に声を掛けた。
「ボウズ、良かったな。貴族様に貰われて……。少なくとも、あそこにいるよりはいい。……たぶん。」
そんな彼へ、ガナシュは穏やかに尋ねた。
「ところで、この子は今いくつなんだ?」
「え?と、確か……5歳くらいかな…。うちに来た時まだ生まれたばっかりで、おくるみ?っていうんですか⁇あれに包まれていたのを覚えているので……」
「5歳⁉まさか……」
――…小さい、とガナシュは思った。それに、5歳にしては話し方も幼いような……。自分の娘二人が同じ歳の時には、もっと言葉数も語彙も多かったと思う。女の子の方が言葉は早いと言われるから、もしかするとそのせいがあるのかもしれないが、それを差し引いてもだ。あの台詞回しは驚くほど巧妙だったが、この子自身の言葉で喋り出すと途端にたどたどしくなる。それに加え、この体の小ささ……。
ガナシュは正直、3歳くらいではないかと思っていた。
「……うち、寝る場所以外、全部自分の取り分から出さないといけないんです……。服も、食べる物も……」
役者はぽつりとこぼした。恐らく彼の言う報酬とは、微々たるものに違いない。
――つまり、赤ん坊の時は辛うじて誰かが食事などの世話をしていたから命が繋がったが、一人で動き回れるようになってからは段々とそれらも自己責任のようになっていった、というところだろうか。
だが、『大人が何人もいて』などと彼らを責めるのは酷だろう。見るからに皆、自分の事で精一杯のようだった。男の子が今もこうして生きているという事だけで、彼らはよくやってくれていたという事なのかもしれない。
「――…この子は、どうやって台本を覚えていたんだ?とても素晴らしかったが。」
ガナシュが尋ねると、役者はぱっと顔を明るくした。
「…そうでしょう!ボウズは凄いんですよ!何でも教えた通りに真似出来るんです。文字は読めないから、芝居をさせる時は台詞も演技も全部俺たちが実際にやってみせて……。あと子供だからなのか体も柔らかくて、飛んだり跳ねたりも自由なんです!次に何を演じさせてみようかって考えると、ワクワクするんですよ‼」
その役者は男の子について生き生きと語っていた。そんな彼に、ガナシュはまた尋ねた。
「君は、本当に演劇が好きなのだね。その演技も素晴らしかった。……なのになぜ君は…君たちは、こんな劣悪な環境にいるのだ?君らであれば、雇ってくれるまともな芝居小屋は他にいくらでもあるだろうに。」
すると役者は、力なく答えた。
「――…俺たちは皆、座長に借金みたいなものがあって……逃げられません。もし逃げても、その先で芝居をやればきっと座長に見付かる…。そうすればそこに迷惑が掛かって居られなくなります。だから……俺たちは、金を出してでも欲しいと思われるような役者になって、引き抜かれるのが夢なんです!……それを目指して、日々稽古をするだけです。」
そう言った彼の笑顔は、痛々しかった。
翌日。
朝になって、ガナシュはジェノワーズと共に男の子を連れて馬車へ乗り込んだ。そして彼らの帰るべき場所、王都へと向けて走り出した。
男の子は昨日までの事など忘れてしまったかのように、きゃっきゃとはしゃぎながら窓の外を眺めている。きちんとした食事を取り、真新しい服を着て、すっかり普通の子供のようだ。
「こらこら、動き回ると危ないよ。静かに座っていなさい。」
ガナシュは優しく諭した。すると男の子は彼の隣で、素直にきちんと座り直した。そしてにこにこと嬉しそうにガナシュを見上げた。
「ぼくすわったよ!えらい?おとうさん!」
「えっ!?」
きらきらとした瞳で彼は言った。ガナシュとその対面に座っていたジェノワーズは驚いて、思わず声を出してしまった。
「ねえ、おとうさんでしょ?あのね、ざちょうがいってたの。まもってくれるのがおとうさんなんだって!」
ガナシュとジェノワーズは顔を見合わせた。それからジェノワーズが男の子に言い聞かせようとした。
「――ぼく。この方は、君のお父さんではありませんよ。」
「なんで?まもってくれたもん。おとうさんだもん!」
「それは……」
彼は頑として聞かなかった。どう説明していいものか、さすがの執事も困った。
「ねえ、おとうさんだもんね?ねっ??」
男の子はガナシュにすがるように尋ねた。しかし、ガナシュはそれに応える事は出来なかった。
「……私は、君のお父さんではないんだよ。」
「なんで?なんで??ヤダッ!おとうさんなのっ!!」
男の子はガナシュの腕にしがみ付いた。まるで絶対に離さない、とでも言うかのように……。
――自分が一般庶民であれば、そうなる事も出来たのかもしれない、とガナシュは思った。だが彼はこの国の大貴族だ。どこの誰とも知れない子供を、そう易々と養子にする事は出来ない……。可哀想だが、それを教えてやらなければならないのだ。
「…君はこれから、孤児院へ行くんだよ。君のようにお父さんのいない子が沢山いる所なんだ。もしかしたらそこで、君のお父さんになってくれる人と出会えるかもしれない。」
「やぁだ!!おとうさんがいいっ!!」
彼は駄々をこね、なおもしっかりとしがみ付いた。男の子は決して二人の話を受け入れようとはしなかった。
それはこの旅の間じゅう、ずっと続いた。
やがて、ガナシュたちが目指す王都が目の前の所までやって来た。
男の子は依然として、ガナシュから離れようとはしない。二人は困り果てた。
「……このままでは、孤児院に預ける事は困難だろう……。」
「ですが、どうなさるのですか?お屋敷へ連れ帰れば、奥様やお嬢様方が動揺なさる事でしょう。」
「それは分かっている。養子にする事は出来ない。」
馬車に揺られながら、ガナシュとジェノワーズは暫し黙り込んだ。
それから執事の方が口を開いた。
「――…でしたら……。使用人としてお育てになる、というのはいかがでしょう。」
「…そうか……。その手があったな!」
ガナシュは膝を打つと、彼の提案に乗った。
そうと決まれば、「そう」言い聞かせなければならない。ジェノワーズは執事として、男の子と向き合った。
「ぼく。これからこの方の事は、“ガナシュ様”とお呼びしなさい。いいですね?そうすれば、これからも近くにいられます。出来ますか?」
男の子はそれまでガナシュにしがみ付いて訝し気な顔をしていたが、そう問われるとキッと見返して答えた。
「ぼくできるよ!」
「もうお父さんと呼んではいけません。いいですね?」
「そしたらいっしょにいれるの?」
「近くにいられますよ。ですが、約束を守れなければ会えなくなります。」
「…………わかった。」
彼は少々不服そうな顔をしたが、こくりと頷いた。
「では、名前を付けてやらなければならないな。“ぼく”や“君”や、まして“ボウズ”では可哀想だ。」
「旦那様が自らお付けになるのですか?」
「ああ。それくらいはしてやろうと思う。」
ガナシュは男の子の頭を撫でてやった。
「―――“ルヴァン”。今日から君の名前は、ルヴァンだ。」
「るばん?」
「そう。それは君への贈り物だ。“ルヴァン”と呼ばれたら、返事をするんだよ。」
それを聞いた“ルヴァン”は、一層瞳を輝かせた。
「るばん……おくりもの……うふふふふっ!」
そうして馬車の中でひとしきりはしゃぐと、その内ルヴァンは疲れ果てて眠ってしまった。
「――…ところで旦那様。いくらルヴァンのためとは言え、あの座長に一千万など…渡すべきではなかったのでは?」
その程度、公爵家にとっては大した額ではない。だが、あの女座長にとっては大金のはずで、結果的に悪い意味での成功体験を与えてしまったかもしれないのだ。そうなれば、一座に残された団員たちの行く末がこれまで以上に危ぶまれる……
「ああ、あれはな……」
ガナシュは馬車の窓の外に目をやった。そしてニヤッと黒い笑みを浮かべた。
「国庫にお返ししたのだよ。」
「――え?」
――その後、王都へ戻ったガナシュは、旅団ではなくその本隊である陸上師団へと通報した。それにより、あの芝居小屋には速やかに騎士団の立ち入り捜査が行われる事になった。
その結果、女座長は人買いと違法な売春の斡旋、そして団員たちの証言により児童虐待の罪で捕らえられる事となった。最終的にどんな判決が下されるかは分からないが、簡単に外へ出て来る事は無いだろう。
一座の団員たちは、ようやくあの圧制から解放された。女座長は多額の財産を隠し持っており、団員たちにはそれぞれ押収された中から適切な賃金が支払われて解散した。それから主にガナシュの渡した一千万を含む残りは、国の財産として王宮に帰属されたのだった。
それから一年の月日が経った。
オードゥヴィ公爵家に連れて来られたルヴァンは、きちんとした使用人となるためにまずは基礎的な学習から始めていた。
「なんで!?ガナシュ様にぜんぜん会えない!次はいつ来るの⁇」
ルヴァンは、彼の顔を見に来たジェノワーズに不満を訴えた。
「旦那様はお忙しいのです。それでもこの間いらっしゃっていたでしょう?」
「そんなのずっと前だよ!!……ここに来たらいっしょにいられるって言ってたのに……ジェノワーズのうそつき‼」
語彙も格段に増えた彼は、すっかり利かん坊になっていた。そしてジェノワーズは、ガナシュの代わりに様子を見に来る度に手を焼いていた。
「ルヴァン‼人に対してそういう言葉を使ってはいけません!」
「うるさいっ!ぼくはガナシュ様に会いたいんだー!!」
それまで押さえ付けられていた反動なのか、それを埋めるかのごとくこれでもかというほど甘えている。もっと小さな子のするように、駄々をこねながら……。いや、これは遅れて来た自我の芽生えなのかもしれない。
「ハァ。そんなに我儘ばかり言っていると、旦那様にも叱られてしまいますよ。」
「えっ……」
ルヴァンは顔色を変えた。
「そ…そしたら……ぼくのこと、すてる?ねえっ……」
彼は泣きそうになりながらジェノワーズにすがり付いた。……あれからまだ、たったの一年しか経っていない。ルヴァンは未だに女座長の呪縛に囚われているのだろう……。
「……大丈夫。旦那様はそんな事はなさいませんよ。」
「ほんと?ほんとに??」
「ええ、本当です。」
何度も確認して、ようやく彼は落ち着いた。そしてぼそりとこぼした。
「……でも、ジェノワーズはずるい。いつもガナシュ様のちかくにいるんでしょ?」
「私は執事ですから、旦那様のお仕事のお手伝いをしているのですよ。」
「じゃあ!ぼくもしつじになる!そしたらいっしょにいられるんでしょ?」
真っ直ぐにジェノワーズの目を見てルヴァンは言った。彼は本気だった。
「執事になるには、まず養成学校へ行かねばなりません。」
「じゃあ行く!今行く!!」
「もっと大人になったら、行けますよ。」
「おとな⁉そんなのずっと先じゃないか!今じゃなきゃいやだ‼」
また癇癪を起こしてしまったルヴァンを前に、ジェノワーズは困った。土台子供のいない自分には、それをどう扱っていいのかなどよく分からない……。しかし、主人から頼まれている以上、お手上げだと言う事は許されない。
「ほかには?ほかに、ガナシュ様といっしょにいられるほうほうはないの⁉」
「他……。お側にいるとしたら、後は警護くらいですが……。」
「けいご⁉けいごって何??」
「公爵家の方々をお守りする人の事ですよ。」
「―――…!!」
ルヴァンは頬を紅潮させ、顔を輝かせた。
「やるっ!それやる‼」
「えぇっ……?」
前のめりになったルヴァンに、ジェノワーズは戸惑った。
――…しかし、だ……
ここでの警護は確かに、実力主義の世界だ。この屋敷の中には警護人の班があって、そこで一人前になるまで日々訓練をする。学校とは違って特に年齢制限は設けて無いし、その力量さえ認められれば、それこそ子供であっても起用される可能性が無くはない。現状、最もガナシュの近くへ行ける方法である事に違いは無かった。
『……実際に訓練に参加させてやれば、それに付いて行けずに自ら諦める事があるかもしれない……。それで彼が納得するのであれば、望み通りにしてやるのも悪くはないだろう――。』
まだまだ幼い子供だが、訓練の真似事くらいはさせられる。勉学の他に、体を動かす事も必要だ。
「分かりました。では、旦那様にお話をして、お許しが出たなら警護班へ連れて行ってあげましょう。」
「ほんと!?わあー!!」
……程なくして、ガナシュの許しを得たルヴァンは警護班での訓練を始めた。
しかし、ジェノワーズの思惑は外れた。諦めるどころか、彼は驚くような速さで様々な技術を身に付けて行ったのだ。どうやら、元々の身体能力が物を言ったらしい。
幼い頃から培った技術は歳を重ねるごとに磨き上げられ、瞬く間に大人たちと肩を並べるような……いやむしろ、それを追い越すほどになったのだった。
それに加えルヴァンには、他の者には無い強みがあった。
実在しない他人に扮する演技力。それも、不自然さを感じさせないように人の中に溶け込む能力だ。それにより、至近距離でも遠距離でも警護の任に付く事が出来た。おかげで警護としてガナシュの仕事に同行するという希望が、早期に叶う事になったのだ。
……それは、あの芝居小屋で養われたものだった。皮肉にも、あそこでの経験がここで活きる格好となっていた。
しかしそんな事はもう、どうでもいい。
敬愛するガナシュの側で、これからもずっと警護として彼を守っていく。それが自分の生きる意味なのだと、ルヴァンは思っていた。
そんな彼も、およそ15歳になった。
ガナシュに出会って名を貰い、『親』というものを生まれて初めて知った。その時の感覚を、ルヴァンは生涯忘れないだろう。
雛鳥が生まれて初めて見た動くものを親と思い込むように、この先も、理屈ではなく彼を慕い続ける。例え親子ではなく主従という関係でしかなかったとしても、それは変わらない。
今、「お父さん」という言葉を誰よりも上手く言えるのは自分だ。ルヴァンはそう自負している。
「――ルヴァン。仕事ですよ。どうしても貴方に頼みたいと、旦那様がお待ちです。」
執事のジェノワーズが、いつものようにルヴァンのもとへと連絡にやって来た。
「ガナシュ様が⁉分かった、すぐに行く!!」
ルヴァンは喜び勇んで飛んで行った。
今はまだ、彼は狭い籠の中にいる。しかしいずれはそこから出る事になるだろう。
それは、そんな出会いを告げるものだった。




