マドレーヌは結婚したくない ~おまけ~
マドレーヌとガナシュが結婚してから数年。オードゥヴィ公爵家には、まだ跡継ぎとなる息子はいなかった。
しかし、二人の可愛い娘たちに恵まれていた。
上の子は、生まれた瞬間から誰もが「美しい」と認めるような、類い希なる美少女だ。そして下の子は…普通に愛らしく生まれてくれた。
誰がどう言おうと、二人ともマドレーヌたちにとっては、目に入れても痛くないほど可愛い事に変わりはなかった。
そんな下の娘、ショコラは三歳になった。
「おとおさまー」
仕事で少しの間屋敷を空けていたガナシュが、数日ぶりに帰って来た。その出迎えのため、マドレーヌたちと共に玄関にいたショコラは父の姿を見付けると、とてとてと駆け寄って行った。
「おおショコラ!ただいま。」
ガナシュは腕を広げて受け止めると、そのままショコラを抱え上げた。
「お父様の事、忘れていなかったのだね。」
「はい!」
「そうかそうか、嬉しいよ。」
顔をほころばせ、ガナシュは娘をぎゅっと抱き締めた。
…以前彼は、上の娘のフィナンシェが今のショコラよりももう少し小さかった頃、半月近く家を空けていたら存在を忘れられてしまったのだ。マドレーヌのスカートの後ろに隠れ、訝しそうな顔をしてこちらをじっと見られた時には、思わず膝から崩れ落ちそうになったものだ…。
「あのねえ、おとおさまー。」
片腕に抱えていたショコラが、ガナシュに何かを伝えようとしてきた。
「何だい?」
「しょこらね、おっきくなったらね、おとおさまとけっこんするのー。」
よくある発言だが、ガナシュはその言葉を聞くと感慨にふけった。
ついこの前生まれたと思った子が、そんな事を言うようになったのか…。しみじみとそう思った。
「ショコラ、お父様のお嫁さんになってくれるのかい?」
「うん、なるー!」
「はは!そうか、そうか。」
最愛の娘の一人にそう言われ、ガナシュは目を細めていた。するとそこへ、同じように出迎えに来ていたフィナンシェが側までやって来て、ショコラを諭し始めた。
「ショコラ、ショコラはお父様とはけっこんできないのよ。」
「そおなの?どおして⁇」
ショコラはきょとんとしながらフィナンシェに尋ねた。
「だって、お父様はお父様だもの。」
「なんで?なんで、おとおさまはけっこんできないの⁇」
「お父様は、お母様とけっこんしているからよ。」
「なんで、おかーさまとけっこんしてると、しょこらとけっこんできないのー?」
「それは…」
妹の「なんでなんで」に対応出来なくなったフィナンシェは、言葉に詰まってしまった。上手く答えられず、渋い顔をしている。
そんな頭を撫でてやり、ガナシュは嬉しそうに言った。
「はは…いいじゃないか、フィナンシェ。ショコラにはまだ難しい。
ショコラ、じゃあお父様と約束してくれるかい?」
「うん、するー」
「そうか、嬉しいなあ。」
――幸せだ。ガナシュはでれでれとしていた。
「まあ!それは良かったわね、あなた!!」
後ろから、いやにハキハキとした声が聞こえてきた。
「え…?」
嫌な予感がしたガナシュは恐る恐る振り返った。
するとそこには、晴れ晴れとした顔で微笑んでいるマドレーヌの姿があった。さっきの光景を微笑ましく見ていた、というのは普通の妻の反応だろう。だが、彼女の雰囲気はそういう感じではない。
「ええと…マドレーヌ⁇」
どうやら怒っている訳ではないようだ。が、だからこそ、それがむしろ胸騒ぎを感じさせる…。不穏な笑みだ。
自分にやましい事など一切無いが、ガナシュは青くなった。
「ついに念願の婚約者が現れたのね!おめでとう!これで私もやっとシャルトルーズに帰れるわあ。」
ぱちんと手を打ち、祝いの言葉と共にそう言うマドレーヌは、うきうきそわそわとしている。
「それじゃあブリゼ、手伝ってちょうだい!急いで支度をしなくっちゃ!」
「は、はい?奥様…何のお支度を…⁇」
「帰るための荷造りに決まっているでしょう!」
専属侍女のブリゼを連れ、マドレーヌはいそいそとどこかへ行こうとしている。声を掛けられたブリゼは戸惑い、助けを求めるようにガナシュの方を見た。
「は…はは、マドレーヌ。冗談にしては、少し長くないかな…?」
「あら冗談だなんて!面白い事おっしゃるのねえ。さ、行きましょうブリゼ。早く帰らないと!」
「ええっ!?」
それまで幸せの中にいたガナシュは、一瞬で混乱に陥った。
…どうも冗談や、まして嫉妬心から言っているのではないような様子だ。マドレーヌは本当に、喜んで実家のシャルトルーズへ帰ろうとしている。なぜ⁉
出掛ける前、喧嘩をした記憶はない。怒らせるような事もした覚えはない。ではまさか、他に良い相手でも見付け――…いや、それは無い。そんな事があれば、すぐに自分の所へ報告が来るはずだ。それ以前に、あのマドレーヌにそんな興味があるわけが無い。…はずだ。
――どうしたらいいのだろうか。何にせよ、彼女が帰ろうとしているのは間違いない。ガナシュは焦った。
その時、ガナシュの腕にいたショコラが口を開いた。
「おかーさま、どこにかえるのお?おうちはここよ。」
するとマドレーヌは振り返って、にこにことショコラに返事をした。
「そうね、ショコラのお家はここね。でもお母様のお家はここじゃないのよ。」
「なんで?」
「お母様はちょっとだけ、ここにいただけなの。お父様と結婚する人が見付かったら帰るって、お約束していたのよ。」
マドレーヌの話を聞き、ショコラは顔を曇らせた。
「ええ―…。おとおさまとけっこんするひとがいたら、おかーさまかえっちゃうの?」
「そうよ。」
「…じゃあ、けっこんするひとがいなかったら、かえんない?」
「そうねえ…お約束だから、帰れないわねえ。」
少し困ったようにマドレーヌは答えた。するとショコラはぱっと笑顔になった。
「じゃあしょこら、おとおさまとけっこんするのやめるー!おかーさま、だっこ‼」
「あらあら甘えん坊ね。」
…今のままならマドレーヌが帰らないと知ったショコラは、あっさりとガナシュの婚約者を降りてしまった。ついでに、腕を伸ばし母親の方に抱っこを求め、ガナシュの腕からも降りてしまった。
「ブリゼ、そういう事だから、荷造りは延期だわ。」
「それはよろしかったですわ。奥様。」
ホッとしたようにブリゼは返した。そしてガナシュに『もう大丈夫だ』と合図を送った。
…どうやら、一先ずは安心していいようだ。“婚約者”がいなくなった事で、マドレーヌは思い直したらしい。全く、油断も隙もない。何を理由に帰ろうとするか、予想が付かない女性だ。
しかし、自分と結婚すると言っていたショコラが、母親を引き止めるためにあっさりとそれを捨ててしまうなんて、嬉しいような、悲しいような……
ガナシュは胸をなでおろしつつも、複雑な気持ちだった。すると、そんな自分の服の裾を、誰かが引っ張った。
「お父様、良かったわね。でも本当にうわきしたら、お母様喜んですぐに帰ってしまうわよ。」
「フィナンシェ…どこでそんな言葉を覚えたんだ⁇いいかい、お父様は浮気なんて絶対にしません!よく覚えておきなさい。」
ませた事を言うフィナンシェに、ガナシュは目線を合わせると諭すように言った。
「男はすぐにそう言うんですって。」
「な…⁉」
「この前パーティーで、どこかの夫人が言ってたわ。」
頭痛がしたガナシュは、あまりフィナンシェをパーティーに連れ歩くのは良くないかもしれない、と思ったのだった。
「二人ともー、何をしているの?早くいらっしゃいな。お茶にでもしましょう。」
廊下の向こうで、ショコラを抱いたマドレーヌが呼んでいる。
「はあい、お母様!」
それを聞くと、フィナンシェはすぐにパタパタと走って行ってしまった。
――それにしても、あれは一種の嫉妬だったのだろうか…。いや、そんな期待をしてはいけない。また油断すれば、今度こそすぐにいなくなってしまいそうなのが、マドレーヌというひとなのだ。
「待ってくれ!今行くよ。」
ガナシュは返事をすると、先へ行ってしまったマドレーヌたちを追いかけた。




