第2話 答えない人
第二実技棟は、普通教室のある校舎より少し寒い。
空調のせいなのか、床材のせいなのかは分からない。廊下に入った瞬間、足音の響き方が変わる。人の声も少ない。笑い声がないわけじゃないのに、どこかで薄く削られている感じがした。
入口横の掲示板には、紙の告知が何枚も貼られていた。
《継続域未満での強制接続は禁止》
《リンク反動が確認された場合は即時申告》
《同期不全の自己判断による訓練継続を禁ずる》
文字は読める。
足だけが、少し遅れた。
「遅い」
実技室の前で、白石が立っていた。
腕時計を見るでもなく、端末を見るでもなく、ただこっちを見ている。待っていた、と言われるより居心地が悪い。
「時間ちょうどだけど」
「ちょうどは遅い」
「それ、かなり厳しくないか」
「厳しくない。実技前なら普通」
返しが早い。
早いけど、声は大きくない。怒っているというより、そう決めている人の声だった。
「悪い」
反射で謝った。
白石の眉がわずかに動く。
「今の、何に対して?」
「え」
「遅れたこと? 私に待たせたこと? それとも、話を終わらせるため?」
言葉が出なかった。
こういう時、いつもなら笑って流す。大河なら「細かいな」で終わる。花宮なら、どこかで助け舟を出す。
でも白石は、助け舟を出さない。
出さないまま、こちらがどう沈むかまで見ている。
「……癖」
「癖なら、なおした方がいい」
「白石に言われると、きついな」
「きつく言った」
そこで白石は視線を逸らした。
白石はファイルの角を押さえた。
強く。
すぐ、戻す。
実技室の扉が開いた。
「来たか」
城崎先生は中で端末を操作していた。壁際には観測用の機材が並び、床には白いラインが引かれている。ペアごとに立つ位置、移動範囲、接続開始地点。授業で何度も見た場所なのに、今日は少し違って見えた。
「仮ペア申請前の補助観測を行う」
先生は淡々と言った。
「観測未確定が二人残っている。記録を取る」
「観測未確定って、何ですか」
聞いたのは白石だった。
俺はその横顔を見る。
白石の声は落ち着いている。言葉の端だけ、硬い。
先生は端末から目を離さなかった。
「授業で扱う範囲ではない」
「なら、どうして表示されるんですか」
「表示される必要があるからだ」
答えになっていない。
白石の唇が動いた。
音になる前に、閉じた。
「白石」
先生の声が一段低くなる。
「疑問を持つのはいい。だが今は実技だ」
「……はい」
白石は頷いた。
納得した顔ではなかった。
俺は口を開きかけた。
先生を見る。
白石を見る。
結局、靴の先だけが床を擦った。
「神代、白石。初期同調の確認から入る」
先生が床のラインを指す。
「接続はしない。呼吸、視線、動作の同期を見るだけだ」
「接続なしで、何が分かるんですか」
白石がまた聞いた。
先生は今度だけ、少し間を置いた。
「接続前に分かることの方が多い」
実技室が静かになった。
俺はラインの上に立つ。向かい側に白石が立つ。距離は三メートルくらい。近すぎない。遠くもない。
「三十秒。相手の動きに合わせるな。自分の基準を保て」
合わせるな。
合図のあと、その言葉だけが残った。
白石は呼吸が浅い。いや、浅く見えるだけかもしれない。肩は動かない。視線も逃げない。けれど、瞬きの間隔が一定じゃない。
合わせない。
なのに、息だけが先に寄った。
耳の奥が、かすかに軋む。
痛いほどではない。違和感と呼ぶには弱い。でも、自分の呼吸の中に一瞬だけ別の速さが混ざった。
白石の目が細くなる。
白石のまつげが止まる。
「止める」
先生の声と同時に、壁際の端末が短く鳴った。
普通の終了音ではなかった。
白石が端末を見る。俺も見る。
画面には波形と、数字にならない細い揺れだけが残っていた。
先生はしばらく黙っていた。
「今日はここまでだ」
「え、もうですか」
思わず聞いてしまった。
先生は端末の画面を消す。
「続ける理由がない」
それ以上は言わなかった。
実技室を出る時、白石は俺の少し前を歩いていた。
「神代くん」
初めて、名字にくんがついた。
「さっき、合わせようとした?」
「してない」
言った瞬間、喉の奥が引っかかった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「分からない」
白石は振り返らなかった。
「分からないなら、分からないって最初から言って」
冷たい言い方だった。
でも、足は止まっていた。
俺が答えるのを待っているみたいに。
「分かった」
「それも、早い」
白石は小さく息を吐いた。
怒っているのか、呆れているのか、どちらでもないのか。
廊下の掲示板に、さっきの文字がまだ貼られている。
《同期不全の自己判断による訓練継続を禁ずる》
白石はそれを一度だけ見て、それから何も言わずに歩き出した。
俺は少し遅れてついていく。
距離は縮まっていない。
それでも、白石の足音だけは聞こえていた。




