第16話 観測補助
観測室に入ると、雨の音が遠くなった。
扉が閉まっただけなのに、外の廊下ごと切り離されたみたいだった。
正面の画面には、まだ同じ文字が出ている。
《接続試験》
《対象:神代玲/白石凛》
《観測補助:九条綾乃》
九条先輩は、その表示を見ても表情を変えなかった。
自分の名前がそこにあるのに、まるで他人の記録を見ているみたいだった。
白石は一歩だけ前へ出て、すぐ止まる。
その止まり方が、いつもより硬い。
「荷物は端に置け」
城崎先生が言った。
俺と白石は鞄を机の横へ置く。
さっき少しずれた持ち手が、まだ少しねじれていた。
直そうとして、やめた。
今それを直すと、何かをごまかしているみたいに見えたからだ。
「九条は記録補助に入る。試験への介入はしない」
先生が淡々と説明する。
「はい」
九条先輩の返事は短い。
白石の返事より、さらに無駄がなかった。
白石が、その声を聞いている。
見る、というほどではない。
でも聞いている。
「接続試験は三段階で行う」
先生が端末を操作した。
画面が切り替わる。
《第一段階:初期同調》
《第二段階:短時間接続》
《第三段階:反応維持》
文字はきれいに並んでいた。
きれいに並んでいるほど、こちらの中身だけが乱れている気がした。
「合格、不合格はありますか」
聞いたのは白石だった。
朝の大河の言葉が、まだどこかに残っていたのかもしれない。
先生はすぐには答えなかった。
「今日の判定は、合否ではない」
「では、何ですか」
「継続可否の前段階だ」
白石の眉が少し寄る。
「それは、合否と何が違うんですか」
「扱う範囲が違う」
答えは返ってきた。
でも中身は、また少しずれていた。
九条先輩が端末に視線を落とす。
何かを記録している。
その指の動きが速い。
迷いがない。
白石の指が袖に触れた。
すぐ離れる。
「白石」
先生が呼ぶ。
「はい」
「質問は試験後に回せ」
「……はい」
返事が少し遅れた。
九条先輩の端末に、短い表示が走る。
何を書かれたのかは見えない。
見えないのに、白石の肩がわずかに強張った。
「神代」
「はい」
「お前は相手を見るなとは言わない。だが拾いすぎるな」
先生は俺を見た。
「拾いすぎるな、ですか」
「そうだ」
「どこからが、拾いすぎなんですか」
聞いてから、自分で少し驚いた。
白石もこちらを見る。
九条先輩も、ほんの少しだけ目を上げた。
先生は答えない。
代わりに、奥の白線を指した。
「立て」
答えは、また後回しになった。
白線は昨日と同じ場所にある。
でも今日は、九条先輩が壁際に立っている。
三枝先輩の時より近い。
見られている、というより、測られている感じがした。
白石が向かいに立つ。
距離は三メートル。
何度も立った距離なのに、今日は少し違う。
「神代くん」
白石が小さく言った。
「何」
「さっきの質問」
「拾いすぎの?」
「うん」
白石は一度だけ九条先輩の方を見た。
すぐ戻す。
「今、聞くことじゃなかった」
「そうかな」
「そう」
「でも俺も知りたい」
白石の目が少し動いた。
「それは、私に合わせて言ってる?」
「違う」
早かった。
早すぎた。
白石の眉がわずかに上がる。
「今のは?」
「……気をつける」
「うん」
九条先輩が、端末に何かを打った。
それだけで、言葉が少し恥ずかしくなる。
「第一段階、初期同調」
先生の声がする。
「十秒。数字は表示しない」
また数字は出ない。
白石の喉が小さく動く。
「開始」
一秒目。
白石の呼吸を見る。
二秒目。
見ないようにしようとして、逆に見る。
三秒目。
九条先輩の端末の光が、視界の端で動く。
白石の肩は動かない。
でも指先だけが、ほんの少し遅れる。
それを拾いそうになる。
拾うな。
でも、落とすな。
言葉にならない命令が、頭の中でぶつかる。
息が浅くなる。
白石の目が、一瞬だけこちらを見る。
怒っている目ではない。
助けを求めている目でもない。
見られた、という目だった。
その瞬間、耳の奥が鳴る。
昨日より短い。
細い。
でも確かにあった。
「終了」
端末が鳴った。
普通の終了音。
なのに、九条先輩がすぐには入力しなかった。
ほんの一拍。
それだけで、部屋の温度が少し下がった気がした。
「次、短時間接続」
先生が言う。
白石が息を吸う。
その息が少し引っかかった。
「三秒だ」
三秒。
何度も聞いた時間なのに、今日は長く感じる。
「異常があれば切る」
先生の声は変わらない。
九条先輩が端末を構える。
その所作がきれいで、余計に嫌だった。
間違えない人の動きに見えた。
白石が小さく言う。
「決めつけない」
たぶん、自分に言った。
俺は返事をしなかった。
返事をすると、また早いと言われそうだった。
「接続、開始」
一秒目。
音が消えた。
雨も、空調も、端末の低い唸りも。
全部消えたわけではない。
でも少し後ろへ下がった。
二秒目。
白石の緊張が入ってくる。
そう思った瞬間、違う、と思った。
白石のものだと決めるには早い。
でも自分のものだけでもない。
三秒目。
視界の端で、九条先輩の指が止まった。
「停止」
先生の声で、音が戻る。
端末が一拍遅れて鳴った。
白石は動かなかった。
俺も動けなかった。
胸の奥に、誰かの息の形だけが残っている。
それが自分のものなのか、白石のものなのか、分からない。
先生が画面を見る。
九条先輩も見る。
画面には数字が出ていなかった。
代わりに、短い表示だけが出る。
《反応維持》
《数値非表示》
《補助記録継続》
白石が目を細める。
「数値は」
途中で止まった。
聞いても答えが返らないと分かっていたのかもしれない。
九条先輩が初めて、こちらへはっきり顔を向けた。
「白石さん」
凛の肩が小さく動く。
「今、数字を見たかった?」
声は責めていない。
ただ確認しているだけだった。
だから余計に、刺さった。
白石はすぐには答えなかった。
「……見たかったです」
正直な答えだった。
きれいではなかった。
九条先輩は頷く。
「神代くんは」
急に名前を呼ばれて、息が詰まった。
「俺は」
数字を見たい。
見たくない。
白石が見たがっているなら見せてほしい。
でも見たら、また追う気がする。
どれもある。
どれか一つにすると、嘘になる。
「……分からないです」
九条先輩は少しだけ目を細めた。
「便利な答え」
白石がこちらを見る。
先生は何も言わない。
俺は、すぐに謝りそうになった。
舌の先まで出た。
止めた。
白石がそれを見ていた。
九条先輩も、たぶん見ていた。
「続ける」
城崎先生が言った。
終わりではなかった。
むしろ、そこからが試験だった。




