第11話 同じ数字には戻らない
六十三は、朝にはもう廊下を歩いていた。
ただ、すれ違うたびに数字だけが先に来る。
噂は、細かいところから嘘になる。
神代と白石が六十超え。
初接続で規定域。
先生が止めたらしい。
危ない波形だったらしい。
最後の方になると、もう自分たちの話なのかも怪しい。
「人気者じゃん」
大河が言った。
「なりたくない方の」
「まあな。俺ならちょっと嬉しいけど」
「大河は大体嬉しがるだろ」
「数字高いのは嬉しいだろ。単純に」
その単純さが、少し羨ましい。
白石は朝からほとんど喋っていなかった。話しかければ答える。でも、それ以上は続けない。机の上にはノートと端末がきっちり置かれている。端末の画面は伏せてあった。
小鳥遊がその様子を見て、俺の横に立つ。
「神代」
「何」
「今日、余計な励まし禁止」
「分かってる」
「早い」
小鳥遊にまで言われた。
「気をつける」
「うん。それならまだ信用できる」
信用の基準が低い。
三限の実技で、俺たちはまた第二実技棟に呼ばれた。
昨日と同じB室。
同じライン。
同じ先生。
違うのは、見ている人数だった。
授業の一部として、数組のペアが端の席に座っている。大河たちもいる。花宮は心配そうに、でも見すぎないようにこちらを見る。小鳥遊は端末を膝に置いて、表情を動かさない。
白石の背中が硬い。
「昨日の記録を追うな」
城崎先生が言った。
「六十三は結果だ。目的にするな」
白石が小さく頷く。
俺も頷いた。
でも、数字はもう頭に入ってしまっている。
追うなと言われると、追っていることに気づく。
「初期同調、開始」
合図。
白石の呼吸を見る。
昨日より少し浅い。
無理もない。周りの視線がある。噂がある。数字がある。
俺は合わせないようにする。
昨日みたいに逃げないようにする。
考えた時点で、息がずれた。
耳の奥に、音が来ない。
白石の呼吸は見える。
でも、隣に置かれない。
白石の息が見えるのに、こっちへ来ない。
俺の息も、向こうへ行かない。
「接続、三秒」
先生の声。
一秒目。
何もない。
二秒目。
白石の指が袖に触れる。
三秒目。
俺は、昨日の感覚を探してしまった。
端末が鳴る。
普通の終了音。
数字が表示される。
三十一。
実技室に、変な静けさが落ちた。
低いわけではない。
失敗でもない。
でも昨日の数字を知っている人間の前では、空白みたいに見えた。
白石は画面を見たまま動かない。
城崎先生は端末を閉じなかった。
「もう一度」
先生が言う。
二回目。
二十九。
三回目。
三十四。
六十三には、まるで届かない。
白石の顔から色が少し抜けていく。
俺は口を開きかける。
大丈夫。
昨日がたまたま。
次は。
どれも、白石の横顔の手前で止まった。
「止める」
先生が言った。
白石はすぐに「もう一回」と言いかけた。
でも途中で止まった。
自分で止めた。
その方が、見ていてきつかった。
「昨日の記録に引っ張られている」
先生の声は淡々としている。
「神代は探している。白石は届かせようとしている」
言い返せない。
白石の唇が震えた。
「届かせようとするのは、悪いことですか」
低い声だった。
「悪くはない」
「なら」
「接続では邪魔になる時がある」
白石は黙った。
その黙り方が、怒っている時のものではなかった。
もっと奥へ沈んだように見えた。
実技が終わって、周りのペアが片付け始める。
大河がこちらに来ようとして、小鳥遊に止められている。花宮は白石を見て、何か言いたそうにしているが、来ない。
白石は端末の前に立ったままだった。
俺は隣に立つ。
「白石」
「何」
「昨日と同じじゃなかった」
「見れば分かる」
刺す声。
でもいつもより弱い。
「同じに戻す必要、あるのかな」
白石がこちらを見る。
白石の目が上がる。
逃げるには、近すぎた。
「昨日から変だ。数字のせいかは、分からないけど」
「それ、今言うやつじゃない」
「うん」
「うん、じゃなくて」
白石は言葉を探して、止まった。
白石の目元が赤い。
袖口を握って、すぐ離す。
「じゃあ、分かった顔しないで」
「分からない」
今度はすぐ言えた。
「でも、今の俺、嫌な顔してると思う」
白石の表情が止まる。
言ってから、手のひらに汗が出た。
白石は何か返しかけて、やめた。
視線を端末に戻す。
「そう」
白石は端末に目を戻した。
でも彼女の指は、もう袖をつかんでいなかった。




