無痛
数分の後、昴君は戻って来た。しかしその表情は妙に険しかった。
「ど、どうし」
「岡本詩織」
どうしたの、と私が言い終わらないうちに、昴君は何故か私の名前を呼んだ。いや、『呼んだ』と言うよりも『言った』と言う方が正しいようなイントネーションだ。
「それが君の名前だったね」
「え、あ、はい。まぁ……」
えらく歯切れの悪い言葉になってしまったが、まぁ仕方ない。実際、私の記憶に残っていたのは『詩織』という名前だけ。名字の方の『岡本』に対する記憶はないわけで、さっき怜治さんが言っていたから自分の名字だと知っているというだけ。本当にただそれだけ。だから、「岡本詩織か?」なんて訊かれても、自分の事なのに「たぶん」としか答えようがない。
「君が、」
ゴクリ、と昴君が唾を飲む。
「幽霊であると、認めよう」
「え……」
先程まで、ほんの数分前まで「幽霊の存在を認めない」と声高に言っていた彼が私を幽霊だと認めるまでにどれほどの葛藤があっただろうか。
額にじんわりとにじんでいる汗が、どれ程幽霊を信じていなかったかを表している。
気になる。一体どんな話をしてきたんだ。
「父さんに聞いたんだ」
細々とした声で話し出す昴君。
「詩織が怪我もしないし、痛みも感じないって事を父さんに話したら……思い出してもイライラするくらいにあっさりこう言ったんだ、『当たり前だろ、幽霊なんだから』って!」
なるほど。幽霊だったから痛みを感じない、か。ありえない話じゃない。でも、それだと気になる事がまだある。
「でもさ、私痛みは感じないんだけど、物を触ったりする事は普通にできるよ?」
「僕も同じ事を父さんに言ったんだけど……。それに関しては『幽霊と言っても色々な種類があるから、そう言う事もあるんだろう』だって。いい加減だなと思ったけど、相手は幽霊というもっとわけのわからない存在だったから納得できたよ」
「そう……」
やっぱり私は幽霊なんだ。でも一体なぜ?
昴君の話だと今まで幽霊を見た事がなかったという事になる。こんなお寺に育っているんだから、
幽霊というものが頻繁に現れるのであれば決してめずらしいものじゃないはずだ。しかしそうではないという事は、私の様な幽霊が現れるのはめったにないという事。では何故私は幽霊として今ここに存在しているのか?
生きていた時の記憶はおろか、名前しか覚えていなかった私にはまったく見当もつかなかった。
私がなぜ今ここにこうしているのか、それを訊こうと口を開きかけたその時、
「じゃあ僕は部屋に戻るよ」
と、昴君は木の箱を抱えて立ちあがった。
「あ……」
そういえばその木箱は何? 頭の中は一瞬でその木箱の事で埋め尽くされてしまった。
「昴君、それ……」
木箱を指差すと、昴君はこれ?、と木箱を持ち上げて首をかしげた。
「これは救急箱だよ。さっきは不審者だと思ってたから手加減を一切してなかったしね。怪我をしていないかと思ったんだけど……。まぁ、その心配は一切なかったけどね」
昴君は今までの仏頂面とは違い、フワリと微笑むと「おやすみ」と言って部屋を出ていった。