EP50・『勇者としての矜持』
空間を切り裂く金属の軋みと、超常の速度で飛び交う火花。
忍びの王と死神卿による人外の領域での斬り合いは、未だ決着を見ず、戦場全体を覆う絶死の背景として続いていた。
だが、そのすぐ傍らでもまた、命を燃やす熾烈な激戦が繰り広げられている。
「アッハァ! 燃えちまいな、羽虫どもぉ!」
魔弓師ベルゼが、口汚い嘲笑とともに『劫火の魔弓』を引き絞る。 つがえられたのは矢ではない。凝縮されたマグマのような赤熱の魔力塊だ。
彼が弦を放つと同時、空が朱に染まり、数多の火球が暴雨となって降り注ぐ。
「させないわ!」
対抗するのは、紫電を纏った細身の姿。 アーシェの愛用する『雷弓』が、主の意思に応えて唸りを上げる。
放たれたのは必殺の速度を誇る雷の矢だ。 空中で紅蓮の炎と蒼白の稲妻が激突する。
鼓膜を圧迫する炸裂音とともに、炎の雨は雷撃によって相殺され、黒煙となって四散した。
「チッ、相変わらず可愛げのない妹君だぜ!」 「貴方たちの好きにはさせない……お兄様に指一本触れさせはしない!」
アーシェは次弾をつがえながら、ベルゼを鋭く睨み据える。 その瞳に迷いはない。かつて恐怖に震えていた少女の面影は、もうそこには無い。
一方、地上では重金属がぶつかり合う鈍重な響きが支配している。
「どいてくださいッ!」
聖女レネが、その小柄な身体には不釣り合いな巨大ハンマー『ウコンバサラ』を振り抜く。 遠心力を乗せた一撃は、重装歩兵の鎧ごとその肉体を吹き飛ばし、ハーヴィーへと続く道をこじ開ける。
だが、その血路を塞ぐように、一人の男が立ちはだかった。
「……五月蝿い奴だ!」
宰相ダルクニクスだ。 彼は武器を持たない。純白の手袋に包まれた指先を、指揮者のように軽く弾く。
乾いた音が、戦場に響き渡り。 それだけで空間が歪み、致死の魔力が具現化していく。
「分を弁えろ。痴れ者が」
ダルクニクスが指差すと同時、紅蓮の火焔球が膨れ上がり、レネめがけて殺到する。 レネが大盾を掲げてそれを防ぐが、息つく暇も与えない。
「次は氷だ」
白い指が虚空をなぞれば、鋭利な氷柱が数本、槍のように生成され、死角から襲い掛かる。
さらに指先を天へ向ければ雷撃が垂直に落下し、横へ払えばカマイタチを伴う暴風がレネの身体を切り刻もうと荒れ狂う。 足元への視線一つで、石畳が隆起して土崩を巻き起こし、彼女のバランスを崩しにかかる。
息をするように繰り出される全属性の波状攻撃。
杖も詠唱もなく、ただ指先の動きだけで災害級の現象を引き起こすその姿は、魔法使いというよりは、理を操る怪物に近い。
「……信じます、『イージス』!」
レネはハンマーを石畳に突き立て、背負った大盾を構え続ける。 聖なる輝きを放つ『イージスの盾』。あらゆる魔を退ける鏡面の盾が、ダルクニクスの放つ五属性の猛攻を真正面から受け止めた。
衝撃が大気を震わせ、レネの足元が陥没していく。 しかし、盾は砕けない。
「ほう……防ぐか。亀の如く蹲り、耐え忍ぶ。その浅ましい姿、滑稽ですらあるな」
ダルクニクスの口元が、三日月の形に歪んだ。 その隙を突き、獣の影が走る。
「そこを退くにゃあぁッ!」
フィンロッドだ。 有象無象の王国兵が突き出す槍の森を、獣化させた四肢で縦横無尽に駆け抜ける。
身体の数カ所から鮮血が滲んでいるが、彼女の闘志は衰えていない。 兵士の喉元を毒爪で切り裂きながら、前へ、前へと食らいつく。
「群れるな。鬱陶しい」
ダルクニクスは、フィンロッドを見ることすらしなかった。 ただ左手を軽く払う。
それだけの動作で生じた衝撃波が、神速で迫る獣人を拒絶するように吹き飛ばした。
「ぐぅッ……!?」 「猫ごときが。頭が高いぞ」
ダルクニクスが追撃の指弾を向けようとした瞬間、彼の背筋を冷たい悪寒が貫いた。
「おやおや、所作が美しおまへんなぁ」
はんなりとした艶やかな声音とともに、極低温の冷気が宰相の足元を凍結させる。 『龍霜の魔女』キアだ。
彼女が操る氷龍は、巨体ゆえの広範囲破壊を封印し、まるで生きた蛇のように細く、鋭く圧縮されていた。 味方を巻き込まぬよう制御された氷の顎が、ダルクニクスの喉元へと食らいつく。
「チッ……小賢しい真似を」
ダルクニクスは不快げに舌打ちをし、障壁を展開して後方へと飛ぶ。 キアとレネ、二人の猛攻により、鉄壁と思われた宰相の余裕がわずかに崩れかけた――その時だった。
「……癒しを、恵みを、秩序の加護を……」
粘着質な呪言が、戦場に響き渡る。 祈禱師ロアンだ。
彼が不気味な印を結ぶと、ダルクニクスの足元の氷が溶け落ち、ベルゼの腕のかすり傷が瞬く間に塞がっていく。
それだけではない。 『森羅万象・万物の法「呪樹縛華」』。
アーシェの視界が歪み、レネが木の根や蔦によって拘束され、身動きが封じられる。
「ヒヒ……無駄ですよぉ。あなた方の努力は、全て無に帰すのですから……」
回復と妨害。 ロアンの存在が、均衡を敵側へと引き戻していた。
◇
一方、空気が凍りついたかのような静寂の中心で、若き忍びの王は脂汗を流していた。
数百合。 既に剣戟の回数は、人の認識できる領域を遥かに超えている。 朔夜の双刀『須戔嗚』と『大蛇丸』は、未だかつてない速度で死神の鎌を弾き続けていたが、その均衡は緩やかに、しかし確実に崩れ始めていた。
「……そろそろ、飽きてきたな」
ゼクスが、感情のない瞳で呟く。
その左手が虚空を掴むような動作をした瞬間、戦場に散らばっていた無数の死体が、糸で釣られた人形のように不自然に跳ね起きる。 首のない兵士、腹を裂かれた騎士。 それらが濁った眼光を宿し、喉の奥からおぞましい呻き声を上げながら、朔夜の退路を塞ぐ壁となって押し寄せる。
「死者を冒涜するなど……!」 「資源の有効活用だ。感傷で戦場は渡れんぞ」
朔夜は舌打ちと共に、迫りくる死者の群れを双刀で薙ぎ払う。 だが、その一瞬の隙こそが死神の狙いだ。
ゼクスの足元から、漆黒の『煉獄の鎖』が鎌首をもたげる。 一本ではない。十、二十、百。 主の意思すら超えて自律駆動する鉄の蛇たちが、全方位から朔夜の四肢を食いちぎらんと殺到する。
「くッ……!」
朔夜は神速の体捌きで鎖の豪雨を回避するが、避けるたびに足場が削られ、行動範囲が物理的に狭められていく。 死者の群れが壁となり、鎖が檻となる。
回避の選択肢が削ぎ落とされたその瞬間に、ゼクスが動く。
手鎌サイズだった魔双鎌『カロン』と『ハデス』が、瞬時にして大鎌へと巨大化する。 質量とリーチを増した死の一撃が、朔夜の頭上から振り下ろされた。
防げない。 回避も間に合わない。
朔夜は咄嗟に双刀を交差させ、その衝撃を受け止める。 凄まじい圧力が全身を駆け巡り、足元の石畳がクレーター状に爆ぜ飛んだ。
「ぐ、ぅぅ……ッ!」
膝が砕けそうなほどの重圧。 血管が切れそうなほど力を込めて拮抗するが、ゼクスの表情には汗一つない。 ただ、路上の石ころを踏み潰すような、無慈悲な冷徹さだけがそこにあった。
「脆い。あまりに脆いな、人の王よ」
ゼクスがさらに魔力を込める。 双刀から嫌な軋み音が上がり、朔夜のブーツが地面を削りながら後退していく。 視界の端では、不気味に蠢く鎖が、動けなくなった朔夜の脇腹を狙って照準を定めていた。
(……これ以上は、無理か)
無慈悲に迫りくる漆黒の鎖。頭上から圧し掛かる巨大な死神の鎌。 全ての退路は断たれ、抗う力は残されていない。 朔夜の脳裏に、裏切り行為を犯した残滓の念がよぎる。
(……すみませぬ、勇者殿)
万策尽きた。 朔夜は己の命運を悟り、謝罪の言葉を心の中で呟くと、静かにその両目を閉じた。 訪れるはずの無、そして闇。
だが。
「馬鹿野郎ッ!!」
鼓膜を破らんばかりの怒号と共に、凄まじい衝撃が朔夜の目の前で炸裂した。 肉が裂ける音ではない。硬質な鋼鉄が、理不尽な死を強引に弾き返した轟音―。
朔夜が驚愕に目を見開く。 そこには、死神の魔双鎌を正面から受け止める、頼もしき男の背中があった。
「貴方様は…スナイデル殿……!?」 「最後の最後まで目を閉じんじゃねぇ! 戦士なら、死ぬ瞬間まで敵を睨み続けろ!」
スナイデルは歯を食いしばり、全身の筋肉を軋ませながらゼクスの剛撃を押し返す。 その叱咤は、諦めかけた朔夜の魂に再び火を灯した。
さらに、戦場の空気が大きく震える。
「すまん、待たせたな!」
銀色の旋風が、死霊の包囲網を食い破って飛び込んできた。 巨狼フェンリルだ。 その巨大な顎が、朔夜に群がろうとしていた死人の兵士を噛み砕き、強靭な前足が腐った肉塊を彼方へと吹き飛ばす。
「屍の相手は儂がする。お前ら二人は、そこの化け物を討ってくれ!」 「フェンリル殿……!」
頼もしき援軍の乱入。 勝利を確信していた盤面を掻き回された死神卿ゼクスが、不快げに顔を歪めた。
「……チッ。面倒なのが現れたか」
ゼクスは舌打ちと共に一度距離を取る。 その瞳から「作業」の冷徹さが消え、獲物を狩るための「殺意」が色濃く宿り始めていく。
「……いいぜ。久々に、血が沸いてきやがった」
スナイデルが低く唸る。 その端正なハーフエルフの美貌から、理知的な表情が剥がれ落ちていく。代わりに浮かび上がったのは、戦闘狂だけが浮かべる獰猛な笑みだった。
彼の瞳が、血のように赤く充血し始める。 『狂瀾の阿修羅王』――その二つ名が示す本性が、今まさに解き放たれようとしていた。
「吹き飛べッ!」
スナイデルは、自身の身長を優に超える巨大な戦斧槍を、小枝のように軽々と振り回した。
その一撃が生み出すのは、斬撃ではない。暴風だ。 ゼクスの放った『煉獄の鎖』が、スナイデルの怪力によって強引に弾き飛ばされ、ひしゃげた鉄屑となって空を舞う。
「オラオラオラァ! 死神だか何だか知らねぇが、俺の斧槍で細切れにしてやるよ!」
スナイデルが地面を蹴る。 石畳が爆発したかのように陥没し、その反動で彼は砲弾と化してゼクスへと突貫した。
振り下ろされる戦斧槍の軌道は、粗野で、豪快で、それゆえに回避の難しい暴力の塊だ。 ゼクスは双鎌で受け流そうとするが、その重さに表情を歪め、わずかに後退を余儀なくされる。
一方、死霊の軍勢がひしめく地上では、蒼き炎が戦場を浄化していた。
「屍風情が、我が友の行く手を阻むな!」
フェンリルの咆哮とともに、彼の周囲から無数の蒼白い影が飛び出した。 幻影狼。 実体を持たぬ幽鬼の狼たちが、群がる死兵の群れへと次々に食らいつく。
蒼炎の牙が、腐肉を噛み砕く。 物理的な干渉を受け付けないはずの死霊たちが、その炎に触れた瞬間、断末魔すら上げられずに灰へと還っていく。 それは浄化であり、絶対的な破壊だった。
「消え失せろ、『アズール・バイト』!」
フェンリル本体が、一際巨大な死霊騎士の喉元へと跳躍する。 蒼い閃光が走った直後、死霊騎士の上半身が綺麗に消失していた。 残されたのは、ただ燃えカスとなって風に散る塵のみ。
「凄ごいな……」
体勢を立て直した朔夜が、その光景に息を呑む。 一騎当千の阿修羅と、万夫不当の神狼。 二つの嵐が、最強の死神を相手に一歩も引かず、戦線を強引に押し戻しす。
「……興が削げた。塵は塵らしく、土に還れ」
ダルクニクスの冷徹な声が、戦場の喧騒を圧して響いた。 彼が白い手袋を嵌めた両手を天へと掲げると、大闘技都市の空が、不気味な黄金色の雲に覆われていく。
「出でよ、『ククルカン』」
指を弾く音が、雷鳴のように轟いた。 黄金の光が降り注ぐ中、空間を食い破って現れたのは、巨大な「骸」の姿をした大蛇であった。
肉を持たぬ骨組みだけの巨躯は眩い黄金色に輝き、背中には神々しい翼を広げている。 だが、その頭上に浮かぶ不気味な天輪の文様と、放たれるオーラは、正視に耐えぬほどのおぞましさに満ちていた。
「な……何、あれ……!?」
アーシェの声が震える。 その骸蛇――ソウルイーター(魂喰らい)が顎を開いた瞬間、溜められた膨大な魔力が、極太の閃光ビームとなって放たれる。
大気を焦がす爆音。 石畳が一瞬で蒸発し、射線上のすべてが消滅する。 さらに、骸蛇は翼を羽ばたかせ、周囲の魂を物理的に引き抜くかのような不可視の吸引を始めた。
「皆、射程圏内に入るなッ! あれに魂を吸い取られれば、二度と輪廻の環には戻れへん!」
キアが血相を変えて叫ぶ。 伝説の魔女ですら、その額に冷たい汗を浮かべていた。
「……あれは、不味い。不味すぎるわ。あんな禁忌の魔法を現世に呼び出すなんて……!」
だが、逃れようとする一行の足元を、ロアンの『魔樹縛華』が非情に絡め取る。 特に最前線にいたレネは、物理的な蔦の拘束により回避が間に合わない。
「――キィィィィィィィィィッ!!」
骸蛇ククルカンが、空間を軋ませるような絶叫を放った。 それは耳を弄する音ではなく、脳を直接揺さぶり、神経を麻痺させる「絶叫」の呪いだ。
「あ……あぁ……ッ」
アーシェやフィンロッドが、糸の切れた人形のようにその場に膝をつく。 身体が痺れ、指先一つ動かせない。 だが、間一髪、レネが叫ぶ。
「皆、耳を塞いでッ!!」
レネは拘束に抗いながら、必死の思いで『イージスの盾』を前方へ突き立てた。 魔法反射の光壁を展開し、ククルカンが放つ次の閃光を辛うじて逸らす。しかし、大盾を保持する彼女の腕は、あまりの衝撃に悲鳴を上げていた。
「ヒヒ……素晴らしい逃げ惑いようだ……! もっと、もっと絶望しなさい!」
ロアンの嘲笑が響く。 背後には、悠然と浮遊するククルカン。そして、それを意のままに操り、冷酷な笑みを浮かべるダルクニクス。
キアは、麻痺に耐えながら後方の戦場を、いや、一人の忍びを凝視した。
(あのアレを……ククルカンの呪いを断ち切れるのは、朔夜の『大蛇丸』だけや……! 朔夜、早う……!)
遥か彼方、黄金の骸蛇が放つ絶望的な波動を、忍びの王は背中で感じ取っていた。 このままでは、仲間が全滅してしまう。
「……スナイデル殿。ここは任せても?」 「あァ? 水臭ェこと言ってんじゃねェよ」
スナイデルは戦斧槍でゼクスの連撃を強引に弾き返しながら、獰猛な笑みで顎をしゃくった。
「こっちは俺一人で足りらァ。テメェはさっさと、あの『母ちゃん』の所へ行ってきな!」
母ちゃん――魔女キアのことを指したその言葉に、朔夜は口元をわずかに緩め、深く一礼した。
「感謝します!」
言うが早いか、朔夜の姿が陽炎のように揺らぐ。 忍びの法『朧渡り』。 空間を跳躍した彼は、瞬きの間にキアの隣へと転移していた。
「朔夜! あれや! あの禍々しい頭を『大蛇丸』でどついたれ!」
キアが扇子で指し示す先。 骸蛇ククルカンが、次なる極大閃光を放とうと、その顎を大きく開いていた。 チャージされる光が、周囲の大気を焦がす。
「承知!」
朔夜は再び印を結ぶ。 二度目の『朧渡り』。 放たれようとした閃光の射線から消えた朔夜は、次の瞬間、ククルカンの脳天――天輪の文様が浮かぶ急所の真上に出現する。
「呪いごと、断ち斬るッ!」
逆手に構えた妖刀『大蛇丸』が、一条の闇となって振り下ろされた。 蛇を殺す逸話を持つその刃は、骸蛇の硬度など無いものとして、眉間の文様を深々と貫き通す。
断末魔なき崩壊。 閃光と共に、黄金の巨体はガラス細工のように砕け散り、光の粒子となって虚空へ消滅した。 後に残るは、刀を振り抜いた姿勢のまま着地する朔夜と、確かな手応えの残滓のみ。
「……やったか」
その逆転劇に呼応するように、地上でも反撃の狼煙が上がる。
「まだ……終わってないッ!」
植物の蔦に全身を拘束されていたレネが、歯を食いしばりながら魔力を暴走させる。 彼女の視線が捉えたのは、後方で印を結ぶ祈禱師ロアンだ。
「逃がさない……『グラビティ・コンテイン(重力封鎖)』!!」
レネを中心に発生した超重力の檻が、遠く離れたロアンの座標を的確に押し潰した。 見えない巨人の掌で握りつぶされたかのように、ロアンが地面に縫い付けられ、詠唱を強制的に中断させられる。
「ぐ、げ……ッ!?」
回復と妨害の要を失い、前線の均衡が崩れる。 支援の途絶えた魔弓師ベルゼに対し、アーシェが猛然と矢の雨を浴びせかけ、じりじりと後退させていく。
だが、その光景を冷ややかに見下ろす男がいた。
「……ほう。虫にしては、よく動く」
宰相ダルクニクス。 彼はククルカンの消滅にも眉一つ動かさず、ただ不愉快そうに指を鳴らす。
「だが、目障りだ」
彼が虚空へ手を向けると、空間に無数の波紋が走る。 召喚されたのは、百本を超える漆黒の魔槍。 その切っ先が、重力魔法の行使で身動きの取れないレネ一人へと集中する。
「串刺しになりな」
無慈悲な宣告と共に、槍の豪雨が放たれた。 回避不能。防御魔法の展開も間に合わない。 死が確定したその刹那――。
「レネを……いじめるにゃあぁッ!!」
フィンロッドの絶叫が響いた。 彼女は懐から取り出した護符を掲げ、全魔力を注ぎ込んでその名を叫ぶ。
「来てッ! 聖獣『麒麟』!!」
戦場に、清浄なる光の柱が立ち昇った。 魔槍がレネに到達する寸前、光の中から現れたのは、鹿の体に牛の尾、そして額に一本の角を持つ神聖な獣――麒麟。
聖獣が嘶くと、幾何学模様を描く光のシールドが、レネを包み込むように幾重にも展開された。 黒い魔槍の雨は、その聖なる障壁に触れた端から浄化され、乾いた音を立てて弾かれ続ける。
「……ッ! あ、ありがとう、フィン!」 「にゃっふふ! わっちだってやるときはやるにゃ!」
最悪の窮地は脱した。 だが、ダルクニクスの瞳からは、未だ侮蔑の色は消えていない。
◇
戦場の空気は、極限まで冷え切っていた。 それは比喩ではない。実際に気温が絶対零度近くまで低下していたのだ。
「おや、動きが鈍うなってきましたえ?」
『龍霜の魔女』キアが、扇子を優雅に揺らす。 彼女の周囲には、ダイヤモンドダストよりも微細で鋭利な『氷鱗』が舞い踊り、ダルクニクスが放つ指弾や属性魔法を、触れる端から凍結させ、無効化していく。
「チッ……!」
ダルクニクスが忌々しげに舌打ちをし、後退しようと足を動かす。 だが、動かない。 いつの間にか、彼の周囲には幾本もの巨大な氷柱が突き立ち、逃げ場のない檻を形成していたのだ。
『絶対零度の包囲陣』。 内側の熱運動を完全に停止させ、対象を原子レベルで静止させる死の結界。
「大人しゅうしてなはれ。アンタはんのその減らず口、氷漬けにして永久に黙らせて差し上げます」
キアの瞳が、冷徹な魔女の色を帯びる。 宰相ダルクニクスといえど、この包囲陣が完成すれば死は免れない。 敵の司令塔が落ちる。勝利の天秤が、反乱軍へと大きく傾きかけた――その時だった。
「……ざけんな」
血を吐くような怨嗟の声が、熱波とともに響く。
視線の先では、アーシェの放つ雷撃の矢が、魔弓師ベルゼの肩と太腿を貫いていた。 膝をつき、無様に喘ぐベルゼ。 誇り高き『秩序の天秤』の幹部が、羽虫と見下していた少女に追い詰められる屈辱。 その事実が、彼の精神を焼き切った。
「ふざけんな……ふざけんな、ふざけんなァッ!! 俺様は『天秤』だぞ! 選ばれた強者なんだよォォッ!!」
ベルゼの両目が、正気を失って白く反転する。 彼が握りしめた『劫火の魔弓』が、限界を超えた魔力の充填によって悲鳴を上げ、ひび割れていく。
だが、彼は構わなかった。 自身の肉体が魔力回路のオーバーロードで焼け焦げることすら厭わず、禁断の呪言を紡ぎ始める。
「消えろ……全部、消えちまえ! 俺が勝てねぇなら、盤上にいる全員、道連れだァァッ!!」
空間が、高熱で歪む。 大闘技都市の空気が一瞬で乾燥し、水分が蒸発。
「――『太陽の法』、終の幕……」
その予兆を感じ取ったダルクニクスが、血相を変えて叫んだ。 常に余裕と傲慢さを崩さなかった男の顔が、初めて恐怖に引きつる。
「おい、馬鹿! よせッ! 自滅する気か!?」
制止の声は届かない。 狂乱したベルゼは、裂けた口元から血泡を飛ばしながら、最後の言葉を吐き出した。
「――『天蝕・白亜の葬燼』!!」
空が、落ちてきた。 誰もがそう錯覚した。
ベルゼの頭上に出現したのは、視界を全て白く染め上げる、超巨大な熱エネルギーの塊だった。 それはまさに、地上に顕現した疑似太陽。 都市一つを地図から消し去り、歴史ごと灰にする純粋な破壊の質量。
「ヒ、ハハハハハハハハハッ!! 死ねぇぇぇッ!!」
ベルゼの狂った哄笑とともに、白い太陽がゆっくりと、しかし回避不能な絶望として、大闘技場へと落下を始める。 音はない。あまりの熱量が大気を瞬時に焼き尽くし、音波さえも伝播しない真空の領域を生み出したからだ。
スナイデルが戦斧槍を構えようとして、止まる。 朔夜が刀に手を掛けるも、動けない。 キアが氷壁を展開しようとするが、その氷さえも、展開する端から蒸発していく。
防げない。 逃げられない。 それは、そこにいる全ての生命に平等に与えられた、逃れ得ぬ「終焉」が迫りくる。
◇
意識の泥沼から、強制的に引きずり戻された。 肌を焦がす熱気。鼓膜を圧する轟音。
薄く開いた瞼の先、頭上の空を埋め尽くしていたのは、まさしく地獄そのものだった。 白い太陽が、ゆっくりと、しかし確実な「終わり」として堕ちてくる。
周囲は阿鼻叫喚の坩堝と化していた。 歴戦の勇士たちが膝をつき、絶望に顔を歪めている。
だが、その混沌の中で、ただ一人。 必死の形相で、俺の名前を叫び続けている少女がいた。
「ハーヴィー! ハーヴィー!!」
アーシェだ。 俺の、たった一人の大切な妹。 彼女は迫りくる滅びなど目に入らぬかのように、処刑台に向かって必死に手を伸ばしていた。 その指先は震え、涙で頬を濡らしている。
「う、うッ……アーシェ……!?」
俺もまた、残された左手を伸ばす。 指先が彼女を求めて空を掻く。 だが、届かない。 数メートルの距離が、永遠の隔絶のように遠い。
「あぁ……アーシェが、皆が、死んじまう……」
どうしてこんな事になった。 俺たちはただ、生きようとしただけだ。 理不尽な世界に抗い、ささやかな自由を求めただけなのに。 なぜ、これほどの絶望が降り注ぐ?
「誰か……助けてくれ、頼む……」
プライドも、虚勢も、全てかなぐり捨てた。 祈るような言葉が、血泡と共に唇から零れ落ちる。
「誰でもいい……頼む。助けてくれ……」
閃光の熱と白亜の眩しすぎる光が、この地一帯を消し去らんと、今まさに爆ぜようとしている。 視界が白く塗りつぶされていく。
最期の瞬間に浮かぶのは、神の顔ではない。 俺を、俺たちを見捨てた神など、クソ喰らえだ。 俺が縋るべきは、もっと深く、暗く、強大な――。
「あぁ……ルシファー、頼む。助けてくれ」 「ルシファー、何でも捧げるから……何でも言う事聞くから……頼むよ、俺に力を、力をくれ……」
喉が裂けるほどに叫ぶ。 魂の奥底、封印された闇の澱に向かって。
「ルシファー!! てめぇの力をよこせぇぇぇッ!!」 「ルシファー!!!」
血を吐きながらの絶叫。 その妄執に応えるように、脳髄に直接響く声があった。
(……貴様と言う奴は、いつもそうだ)
深く、重く、地獄の底から響くような声。
(困った時だけ我に首を垂れ、力を欲する) (……) (いいだろう。だが、代償は払ってもらうぞ?)
「あぁ、構わない」
迷いはなかった。 即答だった。
「何を失おうが……アーシェや大切な人達を護れるなら、何だってくれてやる」 「だから、頼むよ! ルシファー、お前の力が必要なんだ!!」
(……) (……分かった)
悪魔の声に、奇妙な厳粛さが宿る。
(代償は……お前から『愛』を奪う) (お前は二度と、誰とも結ばれる事を許さない……いいな?)
愛を、奪う。 それはつまり、孤独への回帰。 二度と誰かを愛せず、誰からも愛を受け入れられぬ、氷のような人生。
「……分かった」
俺は唇を噛み締める。 血の味がした。
「もう二度と……誰も愛さない」
(いいだろう……) (もし、誓いを破れば) (貴様ではなく、貴様の愛した女の命を、裏切りの代償として奪う)
心臓を鷲掴みにされるような寒気が走る。 自分が愛すれば、相手が死ぬ。 それは、死よりも酷薄な呪い。
(……アーシェ。君は孤独だった俺に、温もりを、光を与えてくれた) (いつもこんな俺を慕って、ついてきてくれた) (その君を救えるのなら……俺は何だって犠牲にできる。例え全てを失ったとしても……)
「あぁ、誓う」
俺は、魂を削って言葉を紡ぐ。
「さぁ、力をよこせルシファー」 「テメェの力を、全てだ!!」
(では、取引成立だな……) (よかろう。我の力を存分に使え) (改めて誓え。己の魂に。その時、天印は貴様に刻まれる)
今の今まで、神に祈る事などしなかった。 唾を吐きかけ、背を向けて生きてきた。 だが今、俺は初めて、奇跡が起きることを心の底から願い、祈った。
神にではない。 悪魔に、己の全てを売り渡して。




