EP49・ハーヴィー奪還戦
コロシアムの中央。突き立てられたのは、英雄の墓標となるべき巨大な黒鉄の十字架だった。
その十字架に、ハーヴィーは磔はりつけにされていた。右腕を失い、全身を鋼鉄の鎖で戒められ、うなだれるその姿には、かつての最強の勇者の面影もない。
周囲には、無機質な仮面をつけた大柄な処刑人が五人。鋭利な長槍を構え、その時を待っている。
あと数秒。たった数秒後には、その槍がハーヴィーの心臓を貫き、この国から「希望」が消え失せる。
VIP席の最前列。ダルクニクスは、ふと視線を外し、鉛色の空を見上げた。
(……見ているか、先王よ)
喧騒が遠のく。脳裏には、かつて自身が手にかけた王の顔が浮かんでいた。
(これが、貴方が夢見た平和の対価だ。秩序のためには、強すぎる光は邪魔になる。……英雄カレの死をもって、私の理想郷は完成するのだ)
感傷は、一瞬で断ち切られた。眼下のハーヴィーを一瞥する。そこにあるのは、害虫を見るような冷徹な瞳だけ。
ゆっくりと右手を掲げ――。
無慈悲に、振り下ろす。
「殺せ」
処刑人たちが槍を突き出す。その切っ先がハーヴィーの皮膚に触れようとした、その刹那。
世界が、白一色に染め上げられた。
天空から降り注いだのは、一筋の光ではない。束になった『雷撃の矢』の豪雨。大気を引き裂く炸裂音が、鼓膜を暴力的に叩く。
落雷の如き轟音と共に、五人の処刑人の身体が弾け飛ぶ。炭化した肉片となり、一瞬にして絶命。突き出された槍は溶解し、地面に突き刺さっている。
「な、なんだ!?」 「雷……!? いや、敵襲だッ!!」
コロシアムがパニックに包まれた。貴族たちが悲鳴を上げ、逃げ惑う。警備兵たちが武器を構えるが、どこから攻撃されたのかすら分からない。
「誰だァァァッ!!」 「どこから撃った!!」
怒号と悲鳴が飛び交う混沌の中。ただ一人、ダルクニクスだけは微動だにしない。
まだ白煙を上げて燃えている処刑台を見つめ、口元だけで微かに笑う。
「……来たか」
硝煙の向こうから、凛とした乙女の叫びが響き渡る。
「兄様ッ!!」
土煙を切り裂き、現れたのは『神装・八咫鏡』に身を包んだアーシェ。帯電する大弓を構え直し、涙を浮かべながらも決意に満ちた瞳で処刑台を見据える。
「今すぐに助けますわ!! もう誰にも、兄様を傷つけさせはしません!」
左右には、白銀の要塞と化したレネ、凶悪な鉤爪を構えたフィンロッド、氷の冷気を纏うキア。さらに影から湧き出るように、朔夜率いる黒装束の忍軍三百名が一斉に姿を現す。
雪崩のようにスタジアムへ飛び降り、混乱する王国兵へと襲いかかる。斬撃。鮮血。断末魔。静寂だった儀式の場は、瞬く間に阿鼻叫喚の戦場へと変貌した。
「……羽虫はむしどもが湧いてきやがったか」
VIP席で、ベルゼが鬱陶しそうに舌打ちをする。その横でダルクニクスは眉一つ動かさず、眼下の混沌を見下ろした。
「想定の範囲内だ。……全軍、構わん。野良犬どもを皆殺しにせよ」
冷徹な号令。それが引き金となり、一万五千の王国軍が動き出す。
「殺せェッ! 反逆者どもを囲め!」 「多勢に無勢だ! 踏み潰せ!」
剣と盾の壁が忍軍へと押し寄せる。
その喧騒の中。処刑台の上で、意識を失っていたハーヴィーが苦悶の声を漏らした。
「……う、うぅ……?」
視界が霞む。全身を焼くような激痛と、鼓膜を揺らす爆音。何が起きているのか理解できない。ただ、遠くで愛しい妹の声が聞こえた気がした。目の前では黒と銀の集団が、圧倒的な数の暴力に飲み込まれそうになっている。
「くそっ、キリがねえにゃ! こいつらゾンビみたいに湧いてくるにゃ!」
フィンロッドが毒爪で兵士を切り裂くが、背後からさらに三人の槍兵が迫る。レネが巨大なハンマーで敵を吹き飛ばすが、一万五千という数は、個人の武勇で覆すにはあまりに絶望的だった。徐々に、しかし確実に、包囲網は狭まっていく。
「諦めろ反逆者ども! 貴様らに勝機などない!」
王国軍の指揮官が剣を振り上げた。誰もが、抵抗勢力の全滅を予感した。
だが。
その戦況を覆したのは、戦場の外からの「暴力」だった。
大地が、底から突き上げられるように揺れる。
堅牢なはずのコロシアムの外壁が、爆発的な衝撃と共に粉々に砕け散った。瓦礫が降り注ぎ、巻き込まれた王国兵たちが宙を舞う。魔法による爆発ではない。焦げ臭い火薬と、重厚な鉄の味。
「な、なんだ!?」 「壁が……崩されただと!?」
噴き上がる黒煙の向こう。整然と隊列を組んだ数千の軍勢だった。手には、この国では見慣れぬ「長銃」。後方には『国崩し』の異名を持つ巨大な移動式カノン砲が、赤熱した砲口から煙を吐き出している。
掲げられた旗は、機械仕掛けの歯車と自由の翼。
ウォーデン共和国軍。銃士連隊と火砲大隊、総勢三千の精鋭が、王国の側面を食い破っていた。
轟く砲声と共に鉛の弾丸が雨のように降り注ぎ、前線の王国兵を薙ぎ払う。だが、腐っても大陸最強を誇る王国軍。一万五千という兵力差は、徐々に共和国軍の三千を押し返し始めていた。魔法障壁を展開した重装歩兵が弾幕を防ぎ、攻撃魔法の嵐が撃ち返される。数の暴力が、科学の牙をへし折ろうとした――その時だ。
「背後だ!! 背後から来るぞぉぉッ!!」
王国軍の後方、無防備な背中へ向けて、更なる絶望が牙を剥いた。砂塵を巻き上げ突撃してきたのは、黒装束に身を包んだ一千の忍び軍団。音もなく疾走し、混乱する王国兵の首を次々と刈り取っていく。
外では共和国と忍軍による挟撃。そして、コロシアムの内部でも新たな火種が爆発した。
観客席に潜んでいたエリオットの手勢――裏社会の戦闘集団『シャドウ・ヴェイン』の構成員たちが、一斉に正体を現す。隠し持っていた短剣や暗器を抜き放ち、警備兵や逃げ惑う貴族たちに襲いかかった。
「ひ、ひぃぃっ! 助けてくれ!」 「こいつら観客じゃねえ! 敵だッ!!」
内と外、全方位からの奇襲。完璧なる統率を誇っていたはずの王国軍は、指揮系統を寸断され、恐怖と疑心暗鬼の渦に飲み込まれていく。もはや軍隊ではない。混乱の極みにある烏合の衆だった。
「ええいッ……! 馬鹿な、この私が読み違えたとでもいうのかッ!?」
VIP席で、ダルクニクスが手すりを強く叩いた。常に冷静沈着な宰相の顔から、余裕という名の仮面が剥がれ落ちる。計算外の援軍。想定外の伏兵。築き上げてきた完璧な「秩序」が、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
「警備兵!! 構わん、さっさと殺せェ!! ハーヴィーの首を刎ねろッ!!」
ヒステリックな絶叫に反応し、数百の近衛兵たちが一斉に動き出す。血走った目で剣を抜き、無抵抗なハーヴィーへと殺到する。
「死ねェェッ! 魔王ォォッ!!」
数百の刃が、英雄の肉を引き裂かんと迫る。誰の目にも、絶望的な光景に映った。
だが。
その刃がハーヴィーに届くことは、永遠にない。
一陣の風が、吹く。
数百の兵士たちの動きが、不自然にピタリと止まる。いつの間にか一人の「影」が立っていた。伝統の黒装束を翻し、二振りの妖刀を抜き放った美しき忍王。
朔夜が、静かに刀を振るった姿勢のまま、残心をとっている。
次の瞬間。
数百人の兵士たちの身体から、一斉に鮮血が噴き上がった。悲鳴を上げる間すらない。自分たちが斬られたことすら理解できぬまま、糸切れた人形のように崩れ落ち――沈黙。
血の雨が降る中、朔夜は冷徹な瞳でダルクニクスを見上げ、言い放った。
「……遅い」
返り血を払いもせず、磔にされたハーヴィーの前に静かに立つ。その背中は細く、しかし何者も通さぬ城壁のように頼もしい。
肩越しに、意識の混濁した英雄へと声をかけた。
「勇者殿。……もう少しの辛抱です」
戦場には似合わぬほど穏やかで、慈愛に満ちた声。
「どうか、死なないでください」
言い終えると同時、朔夜の姿が揺らぐ。再び押し寄せてきた兵士たちの群れへ、自ら飛び込んでいく。
それは、殺戮と呼ぶにはあまりに美しすぎた。天に吹く風の如く、黒い影が舞う。兵士たちの刃が空を切る中、朔夜の双刀だけが正確に急所を捉え、生命を刈り取っていく。触れることすら叶わぬ神速の演武に、兵士たちは恐怖すら抱けずに崩れ落ちていく。
だが。
その美しき影を、頭から塗りつぶすかのような「巨大な闇」が、音もなく迫る。
朔夜の肌が粟立つ。反射的に上体を反らし、後方へと跳躍。
直後。
喉元があった空間を、漆黒の刃が紙一重で通り過ぎる。回避がコンマ一秒でも遅れていれば、忍王の首は胴体と永遠に決別していただろう。
朔夜が着地し、油断なく構えたその視線の先。陽光届かぬ深淵のような闇を纏い、ゆらりと佇む男がいた。
『死神卿』ゼクス。
かつてハーヴィーを絶望の底へ叩き落とした最強の怪物が、仮面の奥で冷ややかな瞳を光らせ、忍王の前に立ちはだかる。
虚空を掴むように腕を振るうと、掌から溢れ出した漆黒の闇が凝縮し、二振りの巨大な鎌を形成した。禍々しい魔力を帯びた死神の象徴、『魔双鎌』。その刃は光を吸い込み、視界にあるだけで肌を切り裂くような冷気を放っている。
対する朔夜は腰を低く落とし、双刀の切っ先を敵へ向ける。神断ちの『須戔嗚スサノオ』、呪い斬りの『大蛇丸オロチマル』。伝説の二刀が、主の闘志に呼応して蒼白く輝く。
言葉は不要だった。両者の殺気が飽和し、弾けた瞬間――。
世界から「音」が置き去りにされた。
朔夜が消える。人の動体視力を遥かに超えた神速の踏み込みが、その姿を認識の外へと追いやった。次の瞬間には、ゼクスの懐深くに忍王の刃が迫っていた。
喉元、心臓、太腿。急所のみを狙った三連撃が、一瞬の刻の間に繰り出される。
だが、死神は揺るがない。
ゼクスは表情一つ変えず、手首をわずかに返しただけで、その神速の連撃を全て弾き返す。鋼と魔力が衝突し、激しい火花が散った。
重い。朔夜の手首に、鉄塊を叩きつけられたような衝撃が走る。
「……ッ!」
即座にバックステップで距離を取ろうとするが、ゼクスの鎌は逃がさない。長い柄が生き物のように伸び、首を刈り取らんと迫る。空中で体を捻り、紙一重でその刃を回避。鎌の切っ先が掠めた石畳が、豆腐のように両断され、融解した。
「素晴らしい」
ゼクスの仮面の奥から、低く、抑揚のない声が漏れた。称賛か、新たな玩具を見つけた歓喜か。
「人間ごときが、私の鎌を目で追うか」
ゼクスが踏み込む。今度は死神のターンだ。
振るわれる双鎌は単なる物理攻撃ではない。空間そのものを削り取るような、回避不能の質量攻撃。黒い斬撃の嵐が、朔夜を全方位から包囲し、圧殺しようと襲いかかる。
朔夜は呼吸を止め、意識を極限まで研ぎ澄ませる。双刀が光の帯となり、迫り来る闇の刃を次々と打ち払う。
受け流し、弾き、躱す。一合ごとに衝撃波が生まれ、周囲の兵士たちが一歩すら近づけずに吹き飛ばされていく。
静と動。光と闇。
達人同士の超高速の攻防は、傍目には二つの影が交錯し、火花を散らす美しい演舞のように見えた。だがその実態は、一瞬でも気を抜けば即座に肉体が両断される、死の淵での綱渡り。
「ふッ……!」
鋭い呼気と共に踏み込み、ゼクスの仮面を目掛けて突きを放つ。ゼクスはそれを鎌の柄で受け止めるが、その威力に初めてわずかに足を後退させた。
鍔迫り合いの状態で硬直し、至近距離で視線を交錯させる。
「勇者を守る盾気取りか。……愚かな」 「盾ではありませんよ」
圧倒的な膂力で押し込んでくる死神の圧力を、柳のように受け流しながら朔夜は不敵に微笑んだ。
「私は、あの方が再び輝くその時まで、時間を稼ぐ『影』に過ぎません」




