EP41・朝の喧騒と穏やかな光
瞼を刺す、白く柔らかな光。 意識がゆっくりと覚醒する。
布団から這い出すと、予想以上の冷気が肌を叩いた。
「……冷えるな」
思わず身震い。 晩秋の気配か、あるいはこの郷の標高ゆえか。 吐き出す息が、うっすらと白い。
「おはようございます、バーレイグさん!」
視線の先。 そこには、すでに身支度を完璧に整えたレネの姿。 乱れ一つない銀髪が、差し込む朝日を浴びてキラキラと輝いている。 朝一番に見るには、あまりにも眩しい笑顔。
「あぁ、おはよう」
対照的に、奥の部屋からぞろぞろと這い出てくる面々。 エリオット、フィンロッド、そしてアーシェ。
全員、見事なまでの寝癖。 芸術的な爆発具合だ。
「ふぁ……旦那、早いっすねぇ……」 「ほぁ~っ……おはよぅ~にぁん……」 「うぅ……兄さま、おはよぉ……」
あくび混じりの合唱。 目は半開き、足取りも覚束ない。 戦場でのキレはどこへやら、完全にオフモードの連中だ。
俺は苦笑し、一番重症な妹分に声をかける。
「アーシェ。寝癖、凄いことになってるぞ。顔を洗って整えてきなさい」 「はーい……」
気の抜けた返事。 夢遊病者のようにふらふらと、外の井戸の方角へと消えていく小さな背中。
(まったく、まだまだ子供だな)
そんな微笑ましい光景を眺めていると、猫のような欠伸をしたフィンロッドが腹をさする。
「腹減ったにゃぁ……。朝まんまはまだかにゃ?」 「……」
俺は困ったようにレネへ視線を送る。 彼女は何も言わず、ただ「仕方ないですね」とでも言うように、にこりと優しく微笑むだけだった。
ふと、覚醒しきっていない頭でエリオットが辺りを見回す。
「あれっ? そう言えばフェンリルの旦那は? 姿が見えねぇけど」 「あぁ、フェンリルなら毎朝日課の散歩だろ。いつものことさ」
きっと今頃、この未知の里を我が物顔で練り歩いているに違いない。 容易に想像できる相棒の姿に、肩の力が抜ける。
たわいもない会話。穏やかな朝の喧騒。 また一日が、こうして始まっていく。
◇
早朝の喧騒をよそに、フェンリルは一人、郷の奥深くを歩いていた。
日課の散歩。 だが、その鋭敏な嗅覚が、朝霧に混じる不穏な気配を捉える。
(……なんだ、この張り詰めた空気は?)
鼻先をピクリと動かす。 向かった先は、郷の中心部にある厳かな屋敷。 そこには、この時間には不釣り合いな数の気配が集まっていた。 郷の翁たち、そして有力者たち。
ただならぬ雰囲気。 フェンリルは瞬時に気配を殺す。 実体を影と同化させ、音もなく屋敷の床下へと滑り込んだ。
板一枚隔てた頭上。 押し殺したような、しかし激しい言い争いが鼓膜を打つ。
「朔夜様! どうかお考え直しを!」
悲痛な叫び。 だが、それに応える声は、若くも冷徹な響きを帯びていた。
「仕方がないであろう」
上座に座る少年――この忍びの郷を統べる若き王(忍王)、朔夜。 歳は十六ほどか。 まだあどけなさの残る顔立ちだが、その双眸には王としての重圧と、諦観の色が濃く宿っている。
「巫女様を……あの方を奴らから守るには、要求を吞むしか道はない」 「いつまで奴らと、この様な悪しき従属関係を続けるのですじゃ!?」
ダンッ、と床を叩く音。 声を荒げたのは、バーレイグたちが世話になっているあの老人だった。 彼は意を決したように、主である少年に食い下がる。
「判ってくだされ! 私とて、危険を顧みず薬草華を取りに行き、無償で下さった郷の恩人に……あの方々に、恩を仇で返す様な真似などしたくないのです!」
老人の慟哭。 その言葉に、室内の空気が凍りついた。
恩を、仇で返す。 その意味するところを、フェンリルは瞬時に理解する。
「……私だって嫌だ。だが、私は郷の長。ひいては忍王として、皆を護る義務がある」
朔夜の声が、僅かに震える。 拳を固く握りしめているのが気配でわかった。
「巫女様とて……苦渋の決断なのだ。許せ」
沈黙。 誰も言葉を発せない。 ただ、重苦しい絶望だけが部屋を満たしていく。
(……まずいぞ、これは)
床下で、フェンリルの金色の瞳が見開かれる。 背筋を駆け上がる悪寒。 野生の直感が、警鐘をけたたましく鳴らしていた。
裏切り。 あるいは、ハーヴィーたちを生贄にするような取引。 何が起きようとしているにせよ、このままのんびりと朝飯を待っている場合ではない。
(主殿に知らせねば……!)
フェンリルは影から飛び出し、音もなく、しかし疾風の如く駆け出した。 焦燥に駆られ、風を切る。 一刻も早く、あの暢気な主の下へ。
平和な朝は、もう終わりだ。
◇
一方、その頃。 フェンリルの焦燥など露知らず、俺たちは老人の家で朝餉の席についていた。
卓に並ぶのは、質素ながらも温かい料理。 だが、俺の心は休まらない。 目の前の「大きな子供たち」のせいだ。
「フィンロッド、好き嫌いしないでちゃんと野菜も食べなさい!」
俺は箸を止め、行儀悪く椀の具を寄り分けている猫娘を叱りつける。
「うにゃあ……。野菜は葉っぱ食ってるみたいで不味いにぁん。肉がいいにゃ、肉が」 「文句を言うな。身体にいいんだ」 「アーシェもだ。ご飯を残さないように! 一粒残らず綺麗に食べなさい」 「むぅ……。兄さま、また私を子供扱いして!」
アーシェが頬を膨らませ、不満げに箸を動かす。
「子供みたいな食べ方をするからだ。ほら、口元にご飯粒がついてるぞ」 「うぅ……」
右を見れば野菜嫌いの猫。 左を見れば食べ散らかす妹分。 そして正面には――
「……んぐ、むぐ」
ただひたすら無言で、山盛りの麦飯を吸引し続けるエリオット。 こいつはこいつで、食欲が化け物だ。
(まったく……俺はこつらの母ちゃんか?)
やれやれ、とため息をつく。 だが、悪い気分ではない。 騒がしくも温かい、家族のような団欒。 湯気の向こうにある、平和な朝の風景。
――そう、思っていた。
その、刹那。
ゾクリ。
背筋を氷柱で撫でられたような、強烈な悪寒。 俺の手が止まる。
「……ッ!?」
和やかな空気が、唐突に凍りついた。
温度が消えたのではない。 **「意図」**が、塗り替えられたのだ。
肌を刺すような、粘り気のある殺気。 今まで感じていた里の清浄な空気とは真逆の、どす黒く、禍々しい気配。
「……な、なんだ?」
エリオットが箸を止め、険しい顔で玄関の方角を睨む。
表の通りから響く、多数の乱暴な足音。 土足で静寂を踏み荒らすような、下品な振動。 続いて、何か硬い物が叩きつけられ、砕け散る炸裂音が鼓膜を打つ。
「おい、そこをどけ!」 「ひっ……お、お侍様、何を……!」
聞こえてきた怒号と悲鳴。 朝の安寧は、暴力的なノイズによって無残にも引き裂かれた。
箸を置き、俺は立ち上がる。 どうやら、のんびりとお茶を啜っている時間は終わったらしい。




