EP40・星降る夜の導き
戦いの熱狂は去り、冷ややかな夜風が頬を撫でる。興奮状態で麻痺していた痛覚が、ここに来て一気に蘇り始めた。
「ぐっ……」
「おいおい旦那、無理すんなって。俺が担いでやるからよ」
「……悪いな、エリオット」
エリオットの肩に体重を預け、一歩ずつ慎重に岩場を下っていく。登りよりも下りの方が、消耗した足腰には堪える。
ふと、足を止めて夜空を仰ぐ。
息を呑むような絶景が広がっていた。先ほどまでの血なまぐさい戦火を洗い流すかのように、満天の星々が瞬く。天の川が夜空を二分し、宝石箱をひっくり返したような煌めきが降り注ぐように視界を埋め尽くしていた。
「うわぁ……綺麗……」
レネが感嘆の声を漏らす。アーシェもまた、フェンリルの背に揺られながら、うっとりとその輝きを見つめる。
「地上じゃ、こんな星空は見られないにゃあ」
フィンロッドが目を細めて呟いた。ここは神域に近い場所。星の光さえも、どこか神聖で、冷たく澄んでいるように感じられる。
静寂の中、響くのは足音と、遠くで鳴く夜虫の声だけ。激闘を生き延びた安堵感が、星明かりと共に心へ沁み渡っていく。
◇
長い下山の道のりを経て、ようやく麓へと辿り着く。待ち合わせ場所である古びた祠の前。そこには、今か今かと落ち着きなく歩き回る、小柄な人影。
依頼主の老人だ。
「おぉ……! あれは……!」
こちらの姿を認めると、老人は転がるような勢いで駆け寄ってくる。その顔には、期待と不安がない交ぜになった、切実な色が浮かんでいた。
「ご無事で……! 皆様、よくぞご無事で……!」
「あぁ、なんとかな。約束のモノも手に入れたぞ」
目配せをし、フィンロッドを促す。彼女は懐から、丁寧に布で包まれた『月光・曼珠沙華』を取り出した。
布が開かれる。瞬間、辺りの闇が淡い青白色に染まっていく。
「こ、これは……」
老人の目が大きく見開かれた。震える両手が、恐る恐るその花へと伸ばされる。まるで壊れ物を扱うかのように、そっと受け取る。花弁から放たれる幽玄な燐光が、深く刻まれた皺を照らし出す。
「おおぉ……おおぉぉ……!」
老人の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。膝から崩れ落ちそうになるのを、杖で必死に支えている。
「まさか、本当に……。生きているうちに、この目で見ることができるとは……。これで、あの子を……里のみんなを救える……!」
言葉にならない嗚咽。枯れ木のような指が、愛おしそうに花茎を包み込む。その姿を見て、レネが優しく微笑んだ。
「よかったですね、おじいさん」
「はい……はいっ……! なんとお礼を申してよいやら……!」
老人は何度も涙を拭い、深々と頭を下げる。
「礼なら後でいい。まずはこれを届けるのが先だろ?」
「はっ! 左様でございますな! どうか、私の家へお越しください。ささやかですが、休息の場と食事を用意させておりますゆえ!」
老人は涙に濡れた顔を上げ、満面の笑みを浮かべる。先ほどまでの悲壮感は消え失せ、希望に満ちた活力が漲っていた。
「案内いたします。我らが隠れ里……忍びの郷へ」
老人が杖を掲げ、藪の奥にある獣道を指し示す。一見するとただの茂みだが、今まで感じた事のない鋭い感覚が肌を刺す。
(……これは、魔力じゃない)
魔素の配列とは根本的に異なる、独特の波長。これが『妖力』か。
あらゆる魔法干渉を拒絶する特異体質——攻撃魔法はもちろん、回復魔法さえも弾いてしまう。だが、この奇妙な力は違う。物理的な抵抗を無視し、肉体と神経へ直接触れられているような感覚。
(……なるほどな。これなら期待できそうだ)
魔法が効かなくても、この理で編まれた術ならば効果があるかもしれない。思わず口元が緩む。
「ついてきてくだされ」
足取り軽く歩き出す老人。顔を見合わせ、その後ろへと続く。
老人の背中を追う。不可視の膜——結界の揺らぎへ踏み込む。空気が、変わった。
石畳の参道。視界を埋めたのは、鮮やかな黄色い巨木のトンネル。
「うっ……! なんだこの匂い!?」
鼻をつまみ、露骨に顔をしかめるエリオット。鼻腔も、強烈な発酵臭に襲われる。熟した果実が潰れたような、独特の臭気。
銀杏。
ここが『忍びの郷』。異世界からの迷い人——『異邦人』が作ったとされる隠れ里か。
独特の木造建築。並び立つ植生。記憶データにはない光景。
だが、脳髄が勝手に反応する。奥底で走る奇妙な疼き。
(……知っている?)
いや、違う。だが、肌に馴染むこの感覚。強烈な既視感が、思考を揺さぶる。
通りを抜けた先。質素だが、骨太な造りの木造家屋。大家族が住まうらしい、長屋のような広い屋敷。
「さぁ、中へ……!」
促されて玄関をくぐる。……静かすぎる。活気はない。支配しているのは、重苦しい沈黙と、奥から響く湿った咳き込みのみ。
「お爺ちゃん……!」
出迎える、老人の息子夫婦。その顔に張り付く、濃い疲労の色。視線が、老人の手にある『月光・曼珠沙華』に吸い寄せられる。
「手に入れたぞ! すぐに医師殿を呼べ! 薬湯の支度だ!」
老人の叫び。弾かれたように動き出す家の中。駆けつけた医術師が、持ち帰ったばかりの花を煎じる。
立ち込める、清涼な薬草の香り。淀んでいた空気が、浄化されていくようだ。
出来上がった薬湯。淡い光を放つ液体が、高熱にうなされる子供たちの喉へ、慎重に流し込まれていく。
固唾を呑んで見守る親族たち。部屋の隅でその結末を待つ。
「……ん……ぅ……」
数分もしない。苦悶に歪んでいた表情が解け、呼吸が穏やかな寝息へと変わる。
「よかった……本当によかった……!」
泣き崩れる母親。震える手で子供の額を撫でる父親。
歓喜の声は、窓の外からも聞こえてくる。この流行り病、家だけの問題じゃなかったらしい。運んだ光が、里全体を救った。
その事実が、空いていた心の隙間へ染み入るように、心地よい重みとなって満たしていく。
「……ふぅ。これで一安心だな」
壁に背を預けるエリオット。深く息を吐き出す。張り詰めていた緊張が解かれ、強張った筋肉が和らぐ。
「旅のお方。父から聞きました。子供たちを……いや、この里を救っていただき、本当にありがとうございます」
深々と頭を下げる老人の息子。その隣、涙ながらに感謝を口にする妻。
「何もお構いできませんが、せめてものお礼です。どうか召し上がってください」
運ばれてきた膳。麦の混じった飯。根菜の汁物。そして漬物。湯気が、食欲を刺激する。
豪華な宮廷料理とは程遠い。だが、そこには精一杯の歓迎と、真心が詰まっている。
「いただきます」
椀を手に取る。温かい汁を一口。
……美味い。五臓六腑に染み渡る、優しい出汁の味。激戦で疲弊した身体と心を、何よりも温かく満たしていく。




